35話
――奥様。
まるで自分とは関係のない誰かのことを呼ばれたようで、けれど確かにそれは「私」を指していて。
シオルの屋敷で、使用人たちが当然のようにそう呼ぶのを聞いて、実は内心ちょっと焦っていた。
奥様――つまり、結婚相手。
そういう意味だとしたら……私は、いつの間に「そうなった」のだろう?
日本では……婚約指輪、結婚指輪、結婚式に入籍。
どれも、誰が見てもわかる「形」があった。
でも、この世界では違うのだろうか。
知らないあいだに、何かの儀式や契約みたいなものがあって――それが「結婚」と同じ意味を持っていたのだとしたら?
シオルとは、ちょっと良い感じにはなっていると思うけど。
それだって最近の話だ。
「……で、どういうことなの? “奥様”って」
ふかふかのベッドに腰かけながら、もう一度質問する。
シオルは気まずそうに、少しだけ目を泳がせて、
「ナギはこの世界の慣わしをあまり知らないだろう?私もずっとこの屋敷にいたから、同じくらい外界には疎いのだが……」
「うん」
「念のため、もう一度言うが、私もその時は知らなかったのだ。後で聞いて⋯⋯」
「うん?」
首をかしげてシオルを見上げる。
「ウェブスターが言うには……村の連中が“お祝い”をしてくれたあの時――どうやら、あれは結婚式だったらしい」
「お祝い……? え、どの時のこと?」
「ハンバーグの”けちゃっぷ”がけを振る舞った日だ」
「…………は?」
思わず間の抜けた声が漏れた。
あれが――結婚式?
頭の中で、ぐるぐると混乱が渦を巻く。
「結婚式って、え!?村の皆にはシオルと私が夫婦って思われてたって事?」
「……実はな、ナギ」
「え!?、え!?」
混乱が止まらない。
「この世界では、異性が同じ屋根の下で暮らすこと=家族なんだ」
「……家族?」
「そうだ」
そう言うと、シオルは私の隣にゆっくり腰を下ろした。
「あの頃、小屋で暮らしやすくするために、二人一緒に毎日建物をいじっていただろう?」
「……うん。猫足バスタブとか、シオルの部屋にベッド置いたりとか……改造してたね」
「あれを見て、どうやら村の人々は『新婚生活で、一緒に暮らすには狭いから改造している』と思っていたらしい」
「え。そうなの!?……え???じゃあその頃から、そう思われてたってこと!?」
もう混乱の極みで、顔にひどい汗をかいている。
「そうだ。だから、あの日少し豪華な衣装に私達だけ着替えただろう?」
「着た……」
「あれは村民が結婚式で着る婚礼衣装だったらしい」
「婚礼衣装……」
「あの頃から私たちは村では夫婦と思われていた、ということだ」
その言葉に顔が真っ赤になる。
信じられない。
恋人とか、婚約とか――全部すっ飛ばして、結婚。
何よりも、村の人たちから”そう見られていた”というのが、ダメージとして大きい。
恥ずかしすぎる。
ああっ!
もう夫婦なのに、二人別々の住まいだったから⋯⋯?
だから、私たちの小屋をあんなにあっさり合体させたの?!
収穫祭の時なんて、手を繋いで歩きまくってしまった。
新婚と思われて……皆から微笑ましく(もしかして温い視線で)見られていた?
思わずベッドにばたんと倒れ込み、シオルに背を向けて顔を両手で覆った。
「うひゃ~~~~信じらんない!!!」
ジタバタと悶える私にシオルが追い打ちをかける。
「多分、このブレスレットも”夫婦なら買うだろう”と予想して、あの商人は仕入れてた可能性が高い」
「!!」
あの商人さんまで!?
「この世界では、互いの色を交換したアクセサリーを身に着ける慣わしがあるからな」
「!!!」
それは、あの時言って欲しかった!!
「それとな……ナギ」
「まだあるの!?」
思わず振り返って、指の隙間からシオルをじっと恨めしげに見つめる。
「ナギの友人の貴族令嬢が居ただろう?」
「リアノーラさん?リアノーラさんが、どうし………え。」
「あの沢山の目録はおそらく結婚祝いだ」
「ぎゃ~~~~!!!!」
姉だと思って慕っている人にまで、そんな目で見られていたなんて……!
本人は全く結婚した自覚がないのに……。
「ナギは……その、嫌か?」
シオルが心配げに、表情を曇らせる。
「私は嬉しかった。ナギとそう見られて。だから、あえて訂正しなかった。すまない」
少し項垂れたシオルを見て、私は冷静さを取り戻し、顔の前の両手をそっと外した。
そう言われたら⋯
「恥ずかしかっただけだよ。嫌とかじゃない」
右手でシオルの袖をキュッと握り、引っ張ると、シオルがこちらに顔を向けた。
「あとね、私の世界とは違いすぎて。ちょっとだけ、ついていけなかった感じ」
「ナギの世界ではどんな感じなんだ?」
少しだけ安心したように、和らいだ表情になったシオルに、私は自分の世界の話をする。
あちらの世界では……
まず好きな人に気持ちを伝えて告白し、互いにOKなら恋人同士に。
その後、二人でデートしたり、場合によっては一緒に暮らしたり、お互いのことをもっとよく知って。
結婚したいと思ったら、プロポーズをして、婚約する。そのときには婚約指輪を女性に贈って。
そして、両親や親戚、友人たちに囲まれて結婚式をあげる。そのときは今度は結婚指輪を。書類上なら、入籍をして夫婦になる。
「こんな感じ?かな~」
「”プロポーズ”とは?」
「プロポーズってね、う〜ん。そうだね、女の子が憧れるイベントだね。特別なタイミングで、結婚を申し込む言葉をもらうことかな?」
私は少し考えながら、シオルにたどたどしく話す。
「例えば、夜空の星を二人で眺めながら、『あなたを一生幸せにすることを誓います、結婚してください』って言われたり、イルミネーションの光がキラキラ輝く街で、指輪を差し出して申し込んだりするの。プロポーズの言葉も色々あって、やっぱりとても大事だけど、景色や雰囲気とかも大切なんだよ」
「なるほど……。随分ロマンチックなのだな。ナギの居た世界は」
シオルは少し目を伏せ、静かに考え込む。
「ナギの世界ではそういう風に、特別な瞬間を作るのだな」
低くつぶやく声に、どこか柔らかさが混じっていた。
シオルにとっては、言葉を贈ることも景色も、そして演出も、すべてが新鮮な”慣わし”なのだ。
「だから、だいぶ違うでしょう?こっちの常識と」
笑いながらシオルの左手を握る。
「ごめんね。そんな関係って見られている事に全然気づいていなくて」
村で私たちが夫婦だと思われていたこと――それにシオルはだいぶ前から気づいていた。
そして同時に、私がそのことにまったく気づいていないことも、彼は知っていた。
それでも、あえて何も言わずに――。私が今までと変わりなく自然に過ごせるように。
シオルは村では何も伝えようとはしなかった。
もし、夫婦だと見られていることを知らせていたら、私は戸惑い、恥ずかしさに押し潰されていただろう。
きっと挙動不審になっていたに違いない。
今でもこんな感じなのだ。
「ナギは悪くないから、謝らないで欲しい。それよりお願いがあるのだが……」
「お願い?」
シオルがそっと、体を重ねるようにして私に覆いかぶさってきた。
「ちゃんとナギに結婚を申し込みたい」
「え……」
右手でつないでいた手を握り直し、私の顔を覗き込む。
「やり直しさせて欲しい。ナギの記憶に残るもので」
「シオル」
「挽回のチャンスが欲しい」
空いていた左手をそっとシオルの頬に添えて、何かを湛えた青い目をじっと見つめた。
「シオルは全然悪くないよ?気を使わなくても……」
すると、シオルはそっと笑う。
「ナギの心に残りたい。今のままでは自分が許せない」
透き通った青い目の中に私が映り込む。
「ただせさえ、私はナギに激しく執着しているが……、それだけでなく、私の心にあるものをナギに信じてもらいたい」
「シオル……」
「待っていてくれるか?」




