30話
シオルに手を引かれて丘を下る間、どこか遠い場所から見ているようで。
その広い背中に、小さい子供の後ろ姿が重なった。
あの時、スノードロップの中で動けなくなっていた私を探しに来てくれたのはカイルだった。
今よりもずっと背が低く、とても小さい掌で、私の手を握っていたのを覚えている。
勇者一行が村に着いているのに肝心の勇者が全く姿を見せないことに、村人達の間に不安が広がり、皆で探し回っていたらしい。
……びっくりしただろう。
やっと村を救ってくれると期待していた勇者が、丘の上で蹲って泣いていたのだから。
足音に気づいて振り返った私の表情を見て、カイルはちょっとだけ驚いたあと、とても小さな手で私の手をきゅっと握った。
「よるは、まじゅうがもっと出るから村へ行こう」
「……きみは?」
「カイルだよ。ボクのお父さんも、このあいだ死んじゃった」
「!」
何も告げていないのに…まるで、大切な人を失ったことに気づいているかのように。
「お母さんもリルをうんで、死んじゃった」
「……」
「でも、いまはライエルさんが、いっしょに住んでくれてるんだ」
「ライエルさん?」
「うん。強いんだよ!あ!いた!!」
私の手を一生懸命引っ張りながら、もう片方の手を大きく振る。
その先には狩人の恰好をした一人の男性が居た。
「カイル、無事に見つけたのか?よくやった」
「うん!」
カイルは嬉しそうに顔を輝かせ、その男性…ライエルを見上げる。
ライエルは目を細め、カイルの額にそっと手を置き、優しく撫でた。
「勇者さま、ご無事でよかった。早く村へ戻りましょう」
そう言うと、ライエルは火矢を夜空に向かって放つ。
「見つけたら合図することになっていました」
夜空に流れるその軌跡をぼうっと眺めていると、カイルに手をひかれた。
「とりあえずボクの家においで!」
とても小さい手に引っ張られて向かった村では、沢山のかがり火が灯され、揺らめく光が辺りを照らしていた。
「勇者様、良かったご無事で」
長老が声をかけてきた。
「一行の皆様は今、探しに行かれていますが、時期に戻られます。それまでは…」
ふと長老が、私の手がずっとカイルの手を握り続けている様子に目を止める。
「暫くカイルの家で待っていて欲しい」と、眉を下げながら優しく微笑まれた。
カイルの家ではとても小さい女の子が、女性数人と一緒に待っていた。
「リル!ただいま!!ゆうしゃさまだよ~」
その幼い女の子は、とても心配していたのだろう。
カイルの声に弾けるように反応し、勢いよく飛びついた。
「おにいちゃん!!!リルおいっていった!だめ!」
「あはは!だってもうお外くらいから。リルはだめだよ。いい子でまってた?」
そう言って、もう片方の手でリルの頭を優しく何度も撫でる。
「うん!リル、いい子でまってたよ!」
繋いでいる手のひらの温かい温度と、まるで太陽のようなその眩しい笑顔に、思わず目を細めてしまう。
「ゆうしゃさま?」
リルがそのつぶらな瞳を私に向ける。
そのまま勢いよく私の両足に抱き着いた。
ひざ下ほどの小さな体で、両手をいっぱいに広げて。
フワフワな髪の毛を擦り付けて、はにかんだ表情で見上げている。
「まってたの!!!」
無垢なその笑顔に、胸の奥がぎゅっと切なく締め付けられ、何か鈍く重いものがもたげてきた。
「……ごめん。……遅くなってごめんね」
思わずそう答える自分がいた。
リルとカイルの笑顔が、ゆっくりとぼやける。
丘の上で静かに揺れるスノードロップと
二人の温かい体温が、まるでずっと探していた人に会えたかのようだった。
そして、この村で過ごした短い時間は、私にとってかけがえのないものになっていく。
魔王を倒し、王都へと帰還したあの日――。
どうしても、もう一度訪れたかった場所が、ここにあった。
目の前のシオルがふと振り返った。
「ナギ?」
その呼びかけに、私は小さく息を飲んだ。
過去の記憶の余韻が淡い幻のように溶けて消えてゆく。
ふと今、自分がどこにいるのかを思い出した。
「ウェブスターが何か温かい夕食を作ってくれているはずだ。食べられそうか?」
シオルの声は静かで……私は思わずゆっくりと息を吐いた。
「うん。楽しみだね。お腹すいているから、沢山食べれるよ。きっと」
そう言って、繋いでいるシオルの右手をギュッと握る。
感じる温かさが、過去の記憶と混ざり合っていく。
「そうか」
シオルの声が少し笑ったような気がした。
◇◇◇
窓から差し込む太陽の日差しが、まだ柔らかく空気を照らす頃。
北部一帯を治める辺境伯の屋敷の執務室に、モンテ子爵婦人――ミレーナの母親が突然乗り込んできた。
「どうして、ミレーナがこんな目に遭わなくてはいけないのですか!?」
肩で息を切らし、髪を乱しながら、激しい苛立ちを含んだ声で叫ぶ。
ライヒベルクは書類から静かに顔を上げた。
「今回の件はすでに王家に報告済だ。決定事項だととらえよ」
落ち着いた表情のまま、淡々と重い声で応じる。
「決定!? 何を根拠に! ミレーナはまだ子供ですよ! お兄様の姪なのですよ!」
だが、その言葉にライヒベルクは一歩も退かず、
「現在の北部の貴族は微妙な立場にある。長年、魔族や魔獣の脅威から、我が辺境伯家がこの国を守ってきたことは事実だが。北部一族は立場を勘違いし、増長した。ミレーナが学園を休暇扱いで追い出された事を忘れたのか?」
「……それは…何かの間違いです!!」
モンテ子爵婦人の声は次第にかすれ、苛立ちが混ざる。
「辺境伯家の姪という血筋のせいで、学園での問題行動も、これまで目をつぶられてきた。だがしかし、その寛容さが、ミレーナを増長させる結果となった。今回の件が決定打だ。よりにもよって勇者様に対して何たる無礼な…」
ライヒベルクは鋭い眼差しを実の妹に向ける。
「王家もこの件に目を光らせている。身内とは言え、庇える範囲を超えた。ミレーナの貴族籍はく奪、冬が明け次第、修道院へ送る。決定は覆らない」
「お兄様!?」
婦人の声は震え、怒りと恐怖が入り混じった。だがライヒベルクの視線は揺らがない。
「議論の余地はない。母親のお前にも責任がある」
言い放たれた言葉に、モンテ子爵婦人はしばし絶句した後、震える手を握りしめ、執務室を去っていった。
静寂が戻り、ライヒベルクは静かに息をつく。
「……やむを得ない。これ以上は、誰の手も届かぬ場所に置くしかない。」
パチパチと軽やかに爆ぜる暖炉の炎を、じっと見つめていた。
幽閉先の一室。
その扉の前には、二人の兵士が立ち、静かに見張りを続けていた。
そこへモンテ子爵婦人が、子爵家のメイドと従僕を連れ通りかかる。
「お待ちください、子爵夫人。ここから先は――」
兵士が腕を広げて制止するが、婦人は眉を吊り上げ、声を荒げる。
「どきなさい!わたくしが誰だと思っているの?!辺境伯の妹よ!娘に会うのに許可がいるものですか!」
そう言って兵士の腕を、持っていた扇子で激しく打ち払った。
「平民の分際で、貴族のわたくしに歯向かうと言うの!?」
兵士たちは一瞬、顔をしかめ互いに目を見交わす。
剣の柄に手をかける仕草をしながらも、やむなく剣呑な空気をまとったまま道を開けた。
従僕が乱暴に扉を開け放ち、婦人とメイドは室内へと踏み込んだ。
質素な机と椅子、窓すらない。
かつて煌びやかな生活を当然のように享受してきた娘には、あまりに不釣り合いな閉ざされた空間だった。
椅子に座るミレーナは、俯き黙り込んでいた。唇は乾き、声は出そうにない。
ふと激しい音がした入り口へ視線を向ける。
「ミレーナ……!ああ、なんて酷い扱いを!」
婦人は駆け寄り、娘の肩を抱きしめる。
「お兄様も王家も、なんと無情な!お前は何も悪くないのに!」
まるで自分こそが被害者かのように涙を流す。
婦人の声だけが狭い部屋に響き、ミレーナは何も答えなかった。
だが沈黙の奥で――その目だけはぎらぎらと暗い光を宿していた。




