29話
クルクルを使った自宅での温泉作戦は、見事に成功した。
シオルとウェブスター二人で、魔王領の外れにある山岳地帯のダンジョンで温泉を汲んでもらい、私はひたすら猫足バスタブにお湯を注ぐ。
その後、二人は魔王城でまた物資をいくつか確保してくる、という予定だったので、その間にゆっくり温泉を堪能する事にした。
まだ日が高いうちから、自宅で柔らかく温かい湯に身を沈め、心も体も溶けていくようだった。
お風呂あがりに一人で寛いでいると、
『ゆうしゃさま、なにかたくさん、はいってきた!』
クルクルがダイニングのテーブルの上でぴょんぴょん跳ねながら、ふわふわの毛を揺らしていた。
おそらく魔王城にいる二人が、アイテムボックスに何か入れているのだろう。
そろそろ冬ごもりの時期だ。
遠隔実験のとき、シオルとウェブスターが何やら相談していたので、それに関するものかな? と想像していると、二人が転移で帰ってきた。
「ナギ、温泉はどうだった?」
「ばっちりだったよ。シオルがバスタブに保温魔法をかけてくれてたから、まだ温かいよ。シオルも入る?」
「そうだな。後で入らせてもらおう」
「ナギ様、冬用のリネンや貯蔵品や調味料、それに先日のような急な来客にも使える食器類をアイテムボックスへ入れさせて頂きました。お手数ですが、後ほど取り出していただけますか?地下室に整理いたします」
ウェブスターは私とシオルのためにお茶を用意しつつ、私に声をかけた。
「分かった。出しておくね。沢山ありがと」
私はそう言って、視線を下げてクルクルをそっと撫でる。
唐突に――心の奥が重く沈んでいくような感覚に襲われる。
冬ごもりの時期になると、どうしても胸の奥が波打つ。
心の淀みから気を紛らわせようと、毛玉を静かに撫でながら、思考を切り替えた。
真冬前の準備ってあと何が必要だったかな?
北部辺境の村では、吹雪の間を自宅で静かに過ごす。私の家の地下室にも、沢山の保存食がきちんと整理、整頓されていた。
ああ、薪をとって来なきゃな…どれくらい必要だろう?森に後で行かなきゃ…と、ふと考えた時。
「まって」唐突に声が出た。
シオルとウェブスターが揃って私を見る
「どうした?」
「ねえ、ウェブスターさんはどこで今暮らしてるの?」
今まで全く気にしていなかった事に我ながら驚愕してしまう。
「私ですか?」
ウェブスターが珍しく、キョトンとした顔をした。
「ナギ、ウェブスターは森にある小屋に暮らしている」
シオルがお茶を飲みながら答えてくれた。
「え?森?」
「はい。東の森で使われていない狩猟用の小屋がございましたので、ライエルさんへ使用しても問題ないかご相談し、現在はそちらで暮らしております。配下のクモもおりますので、森の中の方が便利でして」
「そうだったの?じゃあ冬の間はここに通うの難しくなるね…」
「左様でございますね…吹雪の間は私の活動は難しくなります。普段のようにナギ様の家まで通うことはできません…ですが、何か緊急の際には、できる限り駆けつけますので」
「そっか~~……」
「ウェブスターとは遠隔で意識を繋ぐ事もできる。何か所用があれば私が依頼しよう」
「うん。ありがと」
私は左手でクルクルを撫でながらお茶を一口含んだ。
ウェブスターが地下室の整理をすると言うので、シオルが自宅で温泉に浸かっている間、私は薪用の木材を取りに森へ足を踏み入れた。
日差しは低く、樹々の間から斜めに光が差し込んでいた。
足元の落ち葉や雪が、私の歩みごとにカサリと小さく音を立てる。
冷たい空気が胸を突くように通り抜けていった。
クルクルに木材をどんどん収納しながら、森を抜け、小高い丘へと向かう。
草原の彼方、広く続く地平線の向こうへ夕日がゆっくりと沈み、黄金色に染まった光が平原を包み込んで、長い影を静かに伸ばしていく。
私は地面にそっと腰を下ろし、その光景をしばらく黙って見つめた。
辺りが徐々に暗くなるにつれて、沈みゆく夕日の残光が静かに消えていく。
その瞬間、かつて目にした光景が幻のように目の前に浮かんだ。
淡く光る月明かりの中、雪解けの雫をまとった一面のスノードロップ。
風が吹くたびに、かすかに揺れる真っ白な花弁。
夜の静けさに響く微かな音。
『勇者さま、もう少ししたらスノードロップが咲くよ。少ししか咲かない場所があってね。見せてあげたいな』
『今日見てきたら、明日あたり咲きそうだったの。一緒に見に行けるかな?』
『あの魔獣が出たの!?勇者さま、気を付けてね』
エリンの家の前で手を振って別れて。
村を脅かしていた魔獣を倒し、戻った時には……
もうエリンは行方不明になっていた。
必死に、必死に探して――。
やっと見つけたのは、わずかな魔法の痕跡。
森の中で踏みにじられたスノードロップのそばに、風魔法と魔族のかすかな魔力の残骸が漂っていた。
そこから、何があったのかが痛いほど伝わってきて、信じたくない思いに目の前が激しく揺れた。
生い茂る木々の間、まるで見せつけるようにエリンは放置されていた。
朝、手を振ったあの時とは別人のように、無残な姿で――、
血にまみれ、衣服は殆ど原型を留めておらず、体が不自然に折れ曲がったエリンがそこに居た。
私は初めて、激しく心の奥底から魔族を憎悪した。
涙がとめどなくこぼれ、勇者の剣を握る手が震え、ただ立ち尽くしていた。
許せなった。
何よりも自分自身が。
”勇者”なんて呼ばれても、大切な人ひとり守れなかった自分が許せなかった。
激情のまま、探し出した敵の魔族から――
『あの人間は、勇者きさまをおびき出す為のエサにするつもりだった』
『だが人間の分際で、小癪にも風魔法を使い抵抗してきた』
『大人しくしていれば一撃で殺してやったものを』
エリンの惨い死は、“勇者”のせいだった。
絶望した。
そこにいた魔族を一人残らず討ち取り、更に北へ北へと旅を続けて。
この丘にたどり着いた時。
広大な草原一面に…白く光を反射したスノードロップが咲き誇っていた。
微かに風に揺れる花弁の間を、彼女が微笑んでいる。
手を広げ、待ってくれている――
『勇者さま!』
「ナギ?」
私を呼ぶ声に意識を引き戻される。振り返ると、シオルが静かに後ろに立っていた。
「シオル?」
「全然帰って来ないから…心配した」
そう言いながら、シオルは私の後ろに腰を下ろし、両腕をそっと回して抱きかかえるように支えた。
私はそっとシオルにもたれかかる。
その温かさと安心する香りを感じていると、
「ナギ……また泣いていたのか?」
シオルが心配そうに私の頬を撫でた。
「泣いて……泣いてる?私?」
頭の上にあるシオルの顔を下からじっと見上げる。
シオルの指先が、優しく何度も私の頬を往復した。
青い瞳が揺れている。
心配でたまらないとその眼差しが告げていて。
「心配かけちゃった?ごめんね」
そう言って立ち上がろうと身体を離すと、シオルの両手にすっと抱き留められた。
「シオル?」
視線を上げると、優しい眼差しの彼がそっと私を見下ろしていた。
「ナギは分かっていない」
「?」
「私は、欲張りだから、ナギの全てを知っていたいと思う」
「……」
「ナギのすべてを、絶対に私の目の届くところに置きたい」
「……シオル」
嬉しい、でもちょっと…なんだか怖いような?――そんな複雑な気持ちが入り混じる。
シオルはそんな私の反応を見逃さず、さらに強く両腕で私を抱きしめた。
その体温が直接伝わり、心の奥が少しずつ綻んでいく。
「ナギ、私は強い。負けはしない。どこへも行きはしない」
低く、落ち着いた声。けれど、その一言には強い想いが込められていて、私の胸に深く届く。
まるで私の臆病な心を、見透かされたように。
そう……シオルは強い。
きっと誰にも負けはしない。
私は目を閉じ、息を少しずつ整えながら、もう一度、彼の腕に全てを預けるように身を委ねた。
柔らかな腕の重みと、静かに、でも確かに感じる二つの鼓動に、また涙がこぼれそうになる。
冬間近の少し冷たい空気も、村から聞こえる音も、この心地よい抱擁の中で。
見上げると、澄み切った夜空に無数の星々が煌めいていた。




