25話
窓から漏れる柔らかな光が村の小道を照らし始める頃。
夕食の席で、リアノーラがふと、ナギが「シオル」と呼ぶ声に耳を止めた。
――その響き、それは、この世の災禍として神託された『魔王シオル』の名。
だが魔法シオルはナギが倒したとされている相手。
さらに聞いていた魔王シオルの容姿と、今、目の前にいるシオルは違うように見える。
(ただの同名かしら……)
そっとナギとシオルの様子を見ても、元勇者と元魔王とは決して思えない、柔らかく甘い空気が二人を包んでいた。
(ナギがこんなにも心を許している…)
リアノーラは思わず微笑ましくなってしまった。
かつて淑女教育から逃げ回り、剣ばかり振り回していたナギが、たった一人の男性に無意識に甘えているその姿に。
(これはもう少し観察して…勇者パーティーの皆にも伝えたほうが良いわね)
リアノーラは夕食後、自分だけこの家に泊まると突然申し出た。
突然の予定変更を告げるため、侍女を長老の家へ、護衛の兵二名には辺境伯への外泊の報告を指示する。
ナギはリアノーラの勢いに戸惑うも、もっと一緒に居られると嬉しそうにかんだ。
いそいそとアイテムボックスから来客用のベッドとリネンを取り出し、丁寧にリアノーラの寝床を整える。
もちろん猫足バスタブも披露された。
「……これも王都でも見ない程の、立派なお風呂ね……」
リアノーラは、辺境の村でも快適に暮らしていることに驚きつつも、ナギらしい、と安堵していた。
夜、二人はナギの部屋でベッドを並べ、向かい合うように横たわっていた。
窓から差し込む月明かりが部屋を淡く照らし、床に柔らかな影を落としている。
リアノーラが笑みを浮かべ、
「ねぇ、ナギ。シオルさんの事、いつから?」
優しく、ささやくようにそっと尋ねた
ナギは一瞬固まり、徐々に頬がほんのり熱くなる。
「え……いつから……」
言葉を探すように息を吐き、やがて小さな声で答えた。
「……多分…何となく分かったのは、抱きしめてもらった時かな…」
リアノーラは目を見開いた。
「まあ」
「ちょっとだけ辛い事があって、シオルに迷惑かけちゃったんだけど」
「ええ」
「シオルは優しく抱きしめてくれたの。その身体とか手とかすごく温かくて、気持ち良くて……沢山恥ずかしかったけど」
「そう」
リアノーラはナギの反応にクスっと微笑んだ。
「こんな事、初めてで…元の世界でも感じた事なかったから。でも」
ナギの顔は真っ赤だった。触れ合った温もりを思い返しているようだった。
「安心した?」リアノーラは柔らかく問いかける。
「うん……」
「もっと一緒にいたいと思った?」
「……うん」
「素晴らしいわ。大切な人に出会えたのね。ナギ」
「……そうだと思う?」
「あなた達を見ていたら、自然と伝わってきたわ。お互いを大切に思っているのが」
「……そっか」
リアノーラは微笑んで頷いた。
「ナギ、その気持ちを大切に。ナギにとっての“この世界の唯一”なのだから」
リアノーラはナギの変化を嬉しく思った。
一人ぼっちで召喚されてしまったこの世界で、ナギは大切なものを見つけたのだ。
それは、かけがえのない奇跡のような気がした。
安心したリアノーラは、ふと茶目っ気を出して口を開く。
「シオルさんかなりの美形よね?」
「そうだね」
「素敵だから心配じゃない?」
「心配?」
「他の女の人達から声をかけられるのでしょ?今日もそれで」
「あ。そうだね。かっこいいもんね」
ナギはそう言って、むしろ嬉しそうに微笑んだ。
リアノーラはナギの表情を見て、「おや?」と思った。
(まだ嫉妬する、とかまではないのかしら?)
「忘れないでね。ナギが幸せだと、わたくしも本当に嬉しいの」
「うん」
「シオルさんともし喧嘩したら、すぐ言うのよ? わたくしが代わりに怒ってあげますから」
「ふふ、リアノーラさんが怒ったら……怖いもんなぁ~」
「そうよ。わたくしはナギの姉ですからね」
「……うん」
二人はその晩、会えなかった時間を埋めるように、心から笑い合いながら、静かな夜をゆっくりと語り明かした。
翌朝、庭先に朝日が差し込む中、ナギ、リアノーラ、シオルの三人は村に滞在している旅商人を訪ねていた。
「おはようございます!」
ナギが荷づくりしている商人に声をかけると、微笑みながら手を止め、荷物の山の間から顔をのぞかせる。
「昨日はすみませんでした!ブレスレットの代金支払いに来ました!」
ナギが謝り、シオルが懐から金貨を取り出して差し出すと、商人はやや驚いた表情を見せた。
お釣りを渡しながら、ふと顔を上げ、昨日の騒動を思い返すように目を細める。
「昨日は大変でしたね。ナギ様の強さには、本当にびっくりしました」
「いやぁ……」
ナギは思わず恥ずかしそうに笑った。
「剣を素手でつかんでいましたが……お怪我は? 大丈夫だったのですか?」
商人は心配そうに、ナギの手元へと視線を落とした。
「私はちょっと変なスキルがあって、一時的に鋼のように身体を強化できるんです。あの時は右手に強化をかけていました」
商人は目を見開き、
「そうだったんですか!なるほど……素晴らしいスキルですね!シオル様の周りにあった”あれ”は魔法だったのですか?」
今度はシオルの方へ視線を向けた。
「そうだ。自動で発動するように魔方陣を組んでいる」
「なんと!!そのような魔法、初めて聞きました」
あのように瞬時に複数の、それも特定の者だけを阻害する魔法など存在するのか…商人は驚きを隠せない。
思わず色々と質問してしまった。
リアノーラは三人の後ろで、そっと距離を保ちながら荷造り中の商品を眺めていた。
色とりどりの中に、王都でしか見たことのないガラス細工がひときわ光を反射している。
見事なグラデーションで輝くそれは、一度だけ王宮の執務室で見かけた物とよく似ていた。
(――この者が、エドワード殿下の子飼いね…… )
「もし」
リアノーラの呼びかけに商人が振りかえる。
「はい、どうされましたか?」
「……氷の中のバラは無事かしら?梟の狩人」
ささやくような小さな声でリアノーラが呟く。商人は微笑んだまま、リアノーラ以外には見えないように身体で隠して、手首のブレスレットをそっと見せた。
そこには小さく梟の印章が掘られている。
リアノーラは素早く目で追った。
「急ぎ頼みたい事があるのだけれど」
「承りましょう」
リアノーラがナギ達に視線をうつすと、二人は仲良く並べられた商品に見入っていた。
視線を戻し、自分は商品に関して質問しているように振舞いながら
「昨日の騒ぎについて書状をしたためました。早急にバラへ届けてもらえる?」
そっと小さく折りたたんだ書状を渡す。
「かしこまりまして」
商人はにこやかに目を細めたまま、ゆっくりと腰を折った。
太陽が真上に登った頃、辺境伯領からナギへの贈り物を積んだ馬車が到着した。
リアノーラは侍女や兵士に指示を飛ばしつつ、荷物を降ろし終えると、ふとナギに振り向いた。
「実は――今回、もう一つ目的があるの」
ナギは首をかしげる。
リアノーラは表情を改めると、姿勢を正した。
「来年、第一王子エドワード殿下の立太子の儀式が行われます。その際に私との婚姻の儀もあわせて執り行われることになりました。その場に、勇者ナギ・メグロ様を正式にご招待したいとのことです」
「!!」
ナギは喜びのあまり、リアノーラに抱きついた。ついに、二人が結婚できるのだ。
「やった~~!おめでとうございます!ぜひ行きたい!」
「ありがとう、ナギ」
リアノーラは少し照れたように微笑んだあと、ふと横にいるシオルに目を向けた。
「……もちろん、一緒にいらっしゃると思いますけれど。勇者様の随行者として招待するには、王家にシオルさんの正式なお名前を報告する必要があります」
「……っ」
ナギは思わずシオルの方を見る。シオルの正式な名……?
だがシオルは何事もないかのように、自然な調子で口を開いた。
「私の名か?シオル・エン=オルディムだ」
リアノーラの瞳がわずかに見開かれる。
執事が居る以上、それなりの身分だとは思っていたが。
――エン=オルディム……歴史の深奥に隠された、原初にして天空を統べる尊き一族の名……。
思わず令嬢の仮面が剥がれ落ちる。
だが、当の本人は何事もなかったかのように、ナギに向かって「一緒に行く」とせがんでいた。
リアノーラは静かにその様子を見つめ、エドワードにどう報告しようか考える。
(ナギのお相手…とんでもないお方のようだわ…)
再び令嬢の仮面をつけると、
「ではお二人宛に招待状を改めてお送りしますわね」
にこやかに二人に告げた。
「そうだわ、ナギ。おそらくエドワード殿下の元婚約者だったあなたを、当日、場違いにも標的にする者がでてくると思うわ」
「あ~……そうだね。分かった。気を付けるね」
ナギは遠い目をしてリアノーラに返事をする。だが、シオルが思わず食いついた。
「元婚約者?ナギ?婚約者とはなんだ?」
「え。」
「婚約者とはなんだ?」とシオルが改めて尋ねると、ナギは少し戸惑いながらもシオルにこたえる。
「えっと…勇者として過ごしていた間、エドワード殿下の婚約者にしてもらってたの」
「なぜ?」
「色々あったんだってば。でも婚約破棄して、今はリアノーラさんが婚約者だから!」
「エドワードとやらを好いていたのか?」
「え。」
「想い合っている関係だったのか?」
「違う、違う。全然、絶対に違う」
ナギは目を見開いて首を大きく横に振る。
「何とも思っていないのだな?」
頭上からの圧がすごいことになっている。
ナギは思わずウェブスターを必死に探した。
だが、その態度がシオルは面白くなかったらしい。
「ナギ?」
更に圧がすごいことになってしまった。
「っ!殿下の事なんか何とも思ってません!!!むしろ何考えているのか分からなくて苦手です!!」
ナギはたまらず、リアノーラや侍女、待機していた護衛の兵士の前で、言わなくて良い本音を叫んでしまった。
「「「苦手……」」」
「それならば良い」
シオルはナギの頬に手を寄せて嬉しそうに微笑んだ。
(((殿下……勇者様の為に結構苦労していたのに…かわいそう……)))
皆の声が一緒になった瞬間だった。
リアノーラは最後にもう一度ナギを抱きしめると、侍女とともに馬車へ乗り込む。
護衛の兵たちが手際よく準備を整え、やがて車輪が静かに回りだした。
ナギとシオルは並んで、その後ろ姿を見送る。
小道には、馬車を挟むように隊列を組んだ兵士たちの足跡が続く。
辺境の村は木々の葉が色づき始め、柔らかな日差しを浴びて黄金色に輝いていた。
静かに日常が戻る村に、穏やかな秋の息吹がそっと満ちていった。




