2話
朝の柔らかな日差しが、緑豊かな丘陵をゆっくりと照らしていた。
私は、小屋の壁に新しい木の板を打ち付けながら、穏やかな村の風景を眺めていた。
かつて魔王討伐の旅の途中で悲しみとともに訪れたこの村――
あのスノードロップの咲く村に、私はもう一度戻ってきていた。
「おはよう、ナギさん」
近所の老婆が、杖をつきながらゆっくりと坂道を上ってくる。
「おはようございます。今日もよいお天気ですね」
私は微笑んで返した。
この村には、王都のしがらみもなく、魔族との戦いも今は落ち着いている。
“勇者”だった頃には短く切っていた髪も、長い戦いの旅から離れてだいぶ伸びた。
少女の命を奪ったあの出来事を、決して忘れることはできない。
でも、だからこそ私はこの村で、彼女が好きだった花とともに、静かに身を寄せる道を選んだ。
勇者として戦い続けた日々に擦り減った心にとって、この村は――
傷を癒し、再び自分を取り戻すための、小さな避難所だった。
小屋の修理をしながらも、時折畑の方に目をやる。
トマトは順調に育っているし、裏山の魔獣もここしばらくは姿を見せていない。
村人たちの温かさを感じながら、ゆっくりとした時間が流れていた。
土に触れ、木を打ち、鍋をかきまわしながら、ただ日々を丁寧に生きていく。
遠い異世界…私が元いた場所とは時間の流れも、空気も、すべてが違っていた。
やっと、この暮らしにも慣れてきた気がする。
「おう、ナギさん。おはよう」
通りがかった村長が、軽く手を上げて笑いかけた。
「はい、おはようございます」
私も手を止めて、軽く会釈を返す。
村長はそれだけを言って、のんびりとした足取りで去っていった。
私は再び金槌を手に取りながら、ふと空を見上げる。
――今日も穏やかな一日になりますように。
小屋の修理があらかた終わった頃。
空気が一変した。
空間がひずみ、視界の端が淡くゆがむ。
次の瞬間、白銀の光が一点に凝縮され、眩い閃光とともに人影が現れた。
風が吹き抜け、草葉が揺れる。
現れたのは、見間違うはずもない姿だった。
白金色に輝く髪が柔らかく波打ち、太陽の光を浴びて銀糸のように煌めいている。彫りの深い顔立ちに、氷のように透き通った青い瞳、朱に染まる鋭い角。
細身でありながら筋肉質な長身の体躯は、言葉にできない圧倒的な存在感を放っていた。
「……シオル──」
私は硬直した。
確かにこの手で、倒したはずの存在。
魔王シオル――それがどうして、今ここに。
パーティーの仲間はいない。
剣は小屋の中。すぐには手が届かない。
今、手に握っているのは金槌だけ。
魔法を使えば、周囲に大きな被害を出しかねない。
(なぜ生きている……?)
彼は静かにこちらを見つめていた。
かつて対峙したときのまま、威厳に満ちた姿で。
いや…むしろそれ以上に圧倒的な…
凍りつくような感覚が背を伝った。
再び戦闘になる――そんな予感が脳裏をよぎる。
私は一歩、足を引き、体勢を整えた。
「死んでいなかったの…?」
小さく呟いたその声は、風にかき消された。
「会いに来たぞ、勇者よ」
シオルは、まるで当たり前のようにそう言った。声色に敵意はない。むしろ真っ直ぐで、迷いすら感じさせなかった。
一歩、また一歩とゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「なぜここが……」
「君がこの村にいると知ってね。私もここに住む」
シオルはまるで友人の家に遊びに来たような気軽さで言った。
「はあ……!?何言って………!」
「もし、ここにいられないなら……」
魔王の魔力が揺らいだ。その強さは、私が一番よく知っている。
思わず拳を握った。
もし拒否すれば、この村は……。
村の人々の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
この男が力を振るえば、村は――守りたいものすべてが壊れる。
(どうすれば……)
私は一瞬で計算を巡らせた。
なぜ倒したはずの彼がここに居るのか分からないが……“正体”を村人に知られるわけにはいかない。この派手な外見は村の中でかなり浮くだろう。
しかし、魔王をこのまま見逃すわけにもいかない。
「……その髪と角と耳、どうにかできるなら」
数分後、シオルの髪はくすんだ褐色に変わり、角は消え、耳は少し丸みを帯びた形に整えられていた。
「気に入らない……」
シオルは髪を引っ張りながら言った。
「目立たないに越したことはないでしょう」
「――」
「村に住めるように頼みにいくから」
私は、村の方へと足を向けた。
「あと、私のことは”勇者”とは呼ばないで。凪海と呼んで」
この日、村に"新しい住人"が加わることになる。
シオルは隣の小屋に住めることになった。
古びた木造の家は長らく人の手が入っておらず、屋根には苔が生え、蔦が生い茂っている。
「ここに住めと……?」
シオルの不満そうな声色に、私はため息混じりに言い返した。
「いきなり来て、突然住みたいって言って……住む場所があるだけありがたいと思って」
私たちは家の中へ足を踏み入れた。
埃っぽい空気と、古びた木の匂いが鼻をつく。
「まずは……床の補強……と屋根の修理かな。雨漏りしてるし」
私は見回りながら、修理箇所をチェックしていく。
その間、シオルは黙って私の後ろをついてきた。
さっきまでの殺伐とした雰囲気はどこかにいって、まるで古い友人が訪ねてきたみたいな空気だった。
「私はナギの家で一緒に暮らせたらそれで良いのだが」
「絶対ダメ。無理。」
「……まぁ隣だから良しとしてやろう」
「……」
言葉を返す気力もなくなって、私は黙って古びた床板を指さした。
「あそこ、踏んだら抜けるから」
「……君の家にも、そんなトラップがあるのか?」
「ないから!」
私は深くため息をついた。
「とにかく、住みたいなら、自分でちゃんと修理してね」
「ふむ。ではまず、屋根の苔を焼き払えばいいな」
「なぜ焼く!!!」
「焼いたほうが早いと思うが」
「シオルの魔法で焼いたら、この辺一帯火事になるって!!」
シオルは肩をすくめた。
「冗談だ」
「冗談に聞こえないのよ……魔王の発言は」
それでも――私は少しだけ笑った。
魔王と勇者が、こんな形で隣人になるなんて、誰が想像しただろうか。
「じゃあ、今日のノルマは屋根の苔落としと床板の補修だね」
「ナギの命令ならば、喜んでやろう」
「はいはい。」
ギシ、と鳴る床板の音と、鳥のさえずり。
静かな村の一角に、騒がしくもどこか温かな空気が流れていた。
「じゃ、シオル。屋根の苔は水で濡らしてから落として。乾いてると粉が舞うから」
「ふむ……了解した」
器用そうに見えて、ぎこちない手つきでシオルが苔に水をかけていく。私は足元の床板のゆがみを調べながら、革製のループ付きベルトから金槌を抜き、ゆがんだ床板を軽く打ち直した。
ガゴン、と重たい音が小屋に響く。
「それは……君が魔王を討ったときに使ったものか?」
「……え、これ?」
私は思わず、手の中の金槌を見つめた。
「違うよ。さっき、自分の小屋の直すのに使ってただけ。魔王相手に、こんな道具で挑むわけないでしょ」
「ふむ。そうか……」
シオルは屋根の上から軽やかに飛び降りて、私を見た。
その表情には、どこか懐かしむような色が混じっている。
「1年前だ。城に君がきた」
私も釘を打つ手を止めて、少しだけ遠い目になる。
「……魔王城での決戦」
魔王城の最奥――闇に包まれた玉座の間。
炎の柱が轟き、魔法陣が空中に浮かび上がる。圧倒的な魔力が空間ごと空気を重たく染めていた。
「私はね、ただあなたを倒すためだけに呼ばれたの」
私は静かにつぶやくように語った。
「この世界の事なんて何もわからなかった。魔法の使い方、剣の使い方…生活の仕方も」
なぜ魔王を倒さなくてはいけないのか。
その理由だけは教えてもらなかった。ただ”災禍”だから、とだけ。
戦い続けた数年の記憶が蘇る。
「魔王城まで旅を続けて…何度も死ぬかと思った。」
「………」
「でも……パーティーの皆が、必死で支えてくれた。傷ついて…亡くなったこの世界の人達がいた。だから最後まで頑張ろうと思ってた」
やっとたどり着いた魔王城の最奥で、
魔王の巨大な魔力の渦が、空間ごと揺らしていた。
私たちは何とか魔王を倒し…その胸の核を貫いた。貫いたはずだった。
「なんで生きているの?」
思わずシオルの顔を見つめる。
この手で倒した男が目の前にいる。
倒さなくてはいけない相手と言われ続け、死ぬぎりぎりで倒した男が。
「あれは私の魔力を込めた分身体だった」
「え……?」
「私はもう500年以上前から魔族の前にもこの姿を現していなかった。あの分身体が”魔王”と呼ばれ始めたのは200年程前からだ。君が倒したのは分身体だが、世界が“魔王”と呼んだ相手があれなら――その認識は、間違ってはいない。」
「ええ……???」
「戦っている間、ずっと見ていた」
「ええ………どこから!?」
「この身はあの城にはなかったが、分身体の目や耳は私といつでも繋げる事ができた。君たちの事も知っていた。」
「ええええ……」
思わず、情けない声が漏れる。
静かな小屋の中。小鳥の声が、森の奥から微かに聞こえる。
いつの間にか、シオルはすぐそばに立っていた。
「君はとても美しかった。剣さばきも……その佇まいも」
意外な言葉に、思わず手が止まる。
「……褒められても、困るんだけど」
私は金槌を手でもてあそびながら、少しだけシオルを見やる。
その目に敵意はなく、それがかえって、妙に落ち着かなかった。
「君と話したいと思った」
静かにそう言われて、私は目を見開いた。
「分身体が君と話しているのが羨ましくて……途中から魔力供給を断った」
「は?」
「最後は魔力切れで、ただの人形になっていたはずだ」
あまりにさらりと言うので、むっとしてしまう。
「こっちは死にかけてたんだけど?」
「私の分身体は、攻撃において手加減するようには作っていなかった。すまなかった」
「まあ…もう倒せたから良いけど……」
私は浮いた釘を金槌で打ち直す。
ガキンッ、と甲高い音が小屋中に響き渡り、木材がわずかに軋む。
釘は一撃で木材にめり込んだ。
シオルは、じっと私を見ていた。
その瞳には、魔王城で見た“魔王”にはなかった温度が宿っていた。
「君はあの剣を、まだ持っているのか?」
私は、自分の小屋の壁際に立てかけられた一本の剣を思い浮かべる。
――あの夜、魔王の“心臓”を貫いた刃。
「あるけど……使うつもりはないよ。今は」
「そうか……」
シオルは小さく頷いて、再び屋根へと戻っていった。
私は残った床板のゆがみを確認しながら、息をひとつついた。
かつての“敵”と、こうして修理している自分が――
少しだけ、不思議に思えた。
気が付くと、すっかり日が傾いていた。
西の空が朱に染まり、村の輪郭がやわらかく滲んで見える。
「今日はここまで、かな」
私は腰を伸ばして背中を叩く。
シオルは屋根から降りてくると、黙って小さく頷いた。
「慣れてないよね、こんな事。」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
「家事は全て人形達が世話をしていたからな」
シオルは、何のてらいもなくそう言った。
「あの城の分身体程ではないが、身の回りを世話する程度の人形はいた。こういった作業は新鮮で楽しいものだ」
「じゃあ苔を落としたのも初めて?」
「そうだな」
シオルは楽しそうに笑った。
(”魔王”が屋根の上に登って苔を落とす……)
私は思わず、口元を緩め、手にした金槌をループ付きベルトに戻した。
小屋の前に腰を下ろすと、涼しい風が頬を撫でた。
森の匂いと、どこかで焚かれた薪の香りが混じる。
「君の村の人々は、いきなり来た者に対して警戒がないのだな」
「そうだね。おおらかな人達だよ。私もよそ者けど、みんな良くしてくれる」
「ならば……これからは、よそ者の隣人として、よろしく頼む」
夕焼けの中に立つ彼の横顔は、知っている“魔王”とはまるで違っていた。
私は立ち上がり、
「じゃあねシオル、また明日」
「……ああ。ありがとう、ナギ」
彼の口から感謝の言葉が出て、私は小さく瞬きをした。
夕闇が降りる前の、ほんの短い間。
ふたりの間に流れる空気は、少しだけやわらかくなっていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。 これからもゆるりとお付き合いいただけると嬉しいです。