11話
「ナギ様、この村での生活に何かお困りのことはありませんか?」
ウェブスターは丁寧に尋ねた。
「うーん……村の人たちは親切だけど、まだ野菜の事とか慣れないことも多いかな」
私は窓の外を見つめながら言った。
「野菜ですか…?」
「味と見た目が一致しなくて、そのたびにシオルに相談してるの」
「左様でございましたか…」
「色々作ってみたいけど。食材が分からないとなかなか難しくて」
「なるほど。宜しければお手伝いいたします」
「有難う!」
「ほかに、…例えばご主人様が何かご迷惑などかけてはおりませんか?」
「………」
ウェブスターはすぐに察したように目を細めた。
「何か?」
「えっと……。ついこの間もシオルが虫を焼き払ったら、ついでに屋根まで燃えちゃって……」
私は苦笑いを浮かべながら、思わずこぼしてしまった。
ウェブスターは深く一礼し、慇懃に言った。
「規格外の方でございますゆえ、何かとご不便をおかけいたしますが、今後は私が責任を持って対応いたしますので、どうかご安心くださいませ」
自分の主の顔をじっと見つめるウェブスターを横目に、シオルは若干気まずそうに窓の外を見ている。
「ありがとう。何かあったらお願いします」
「かしこまりました、ナギ様。いつでもお申し付けくださいませ」
私は軽く笑って頷いた。
(ところで、やっぱり…さっきから何か後ろに見えるんだけど…)
ウェブスターの燕尾服の裾の下で黒くて細い何かがちらりと現れては、すぐにするりと隠れている。
思わずその影を追うように、細いソレを右手でつかんだ。
「!ナギ様!?」
ウェブスターが驚きと動揺を隠せずに声をあげる。
窓際の椅子に座っていたシオルが立った気配がした。
「これ何!?」
手でつかんでいたものは……巨大なクモの脚だった。
「っっきゃあああああああ!」
「ナギ!!」
シオルの焦った声が、すぐ後ろから聞こえた気がした。
私は虫が苦手だ。
小さい頃からダメだった。床を這いずり回るゴキブリ。その黒くてカサカサした動きが気持ち悪くてたまらない。
極めつけは…自分に向かって来たソレを、母親が叩き潰した時のことだ。
バチン――という鈍い音と、ぺしゃんと潰れた虫の身体が、今でも鮮明に耳と目に焼きついている。
あの時の光景を思い出すだけで、全身がぞわっとして震えが止まらなくなる。
だから、虫を見かけるとどうしても体が強張ってしまうのだ。
特に、クモのような細長く節々のはっきりした脚を持つ這いずり回る虫はダメだ。
その脚がまるで自分に絡みついてくるようで、見るだけで背筋が凍る。
その足を、よりによって素手でつかんでしまった。
目を開けると心配そうにこちらを見ているシオルが居た。
「ナギ……?」
頭の奥に鈍い痛みが残り、視界はぼんやりとしていた。
「ナギ……良かった、目を覚ました」
低く優しい声が耳に届く。
ひどく心配そうな表情でこちらを見つめている。
彼の深い青い瞳が、柔らかな光を受けて静かに揺れている。
背後の窓からは、茜色に染まる空と、柔らかな夕陽に包まれた緑豊かな村の風景が見えていた。
「……シオル?」
かすれた声で問いかけると、彼は少し安心したように微笑んだ。
ゆっくりと、身体を起こす。
まだ少しふらつきながらも、布団の感触に手をつき、慎重に体を支えた。
「無理はしなくていい」
その声に、ほっと胸が温かくなったが、同時にまだ身体が震えているのを感じた。
胸の奥から冷たい波が何度も押し寄せる。
「ごめん……虫、苦手なんだ……」
声が震え、思わず目を伏せてしまう。
シオルは優しく肩に手を置いた。
「そうだったのか…」
ナギは小さく笑い、目を細める。
「……昔からダメで…」
窓の外では、村の人々の生活音が遠くから聞こえてきた。
夕暮れの穏やかな景色とは裏腹に、心はまだざわついていた。
シオルはそっと手を握り、静かに言った。
「最初に説明しておけばよかった」
「説明…?ウェブスターさんのこと?」
「人型の人形だが、作成する際に媒介を使っている。ウェブスターの場合はクモだ」
「クモ…」
「普段は人型だが、あのように服の下に媒介部分を隠している」
「そうだったの…」
「驚かせてしまい、すまなかった」
「ううん。私こそ大きな声あげちゃって。ウェブスターさんは?」
「今日は帰らせた。また明日様子を見にくるかもしれない」
「そう…失礼な事しちゃったから謝らないと」
「ナギは悪くない」
その言葉に、少しだけ心が救われる気がした。
けれど、まだどこか背中のあたりがぞくぞくして、虫への恐怖は簡単には消えそうになかった。
「そういえばこのベッド……」
「ここは私の部屋だ。勝手にナギの部屋に入ってはまずいだろうと思ってな」
「ありがとう……」
どうりでシオルの香りがすると思った。
夕暮れの温かい光に包まれた部屋の中で、じっとシオルを見つめる。
彼は美しかった。
本来の姿――柔らかな白金色に輝く髪、彫りの深い端正な顔立ち、氷のように透き通った青い瞳、朱に染まる鋭い角――もまた、まるで彫刻のように美しかったが、
今の褐色の髪と角の隠れた姿でさえ、その魅力は色あせていない。
シオルが村に来た当初、村の女性たちが騒いでいたのも、なんとなく理解できる気がした。
「ナギ、もう少し休め」
そう言ってシオルがそっと身体を横たえてくれる。
その優しい手つきに身体を傾けながら、心臓が変な音をたてていた。
シオルの見守るような眼差しと
まるで壊れ物を扱うかのように何度も私の額を撫でる手のひらの温度に、
私は胸の奥が、今までにない速さで鼓動するのを感じていた。
「シオルのこのベッド…すごいフカフカだね」
「気に入ったのならナギにあげよう」
「え?本当?でもシオルのベッドは?」
「また魔王城に取りにいけばよい。温泉とやらにも行っていないしな」
夕暮れの光が窓から差し込み、部屋の中を暖かく包んでいた。
「そうだね。温泉にもいかないと」
「このベッドはナギが使うと良い。今は休め」
「うん。ありがとう」
小さく返事をしながら、私は瞼を閉じた。
シオルの手のぬくもりがまだ肌に残っている。
柔らかな朝日が窓から差し込み、部屋の中を淡く染めている。
私はゆっくりとまぶたを開け、まだ少し眠気の残る頭を起こした。
鳥のさえずりが遠くから聞こえてきて、朝の静けさが心地よい。
ふと横を見ると、シオルが静かにベッドの横の椅子に座って眠っていた。
昨晩のその手の感触を思い出し、胸の奥にじんわりと温かいものが広がっているのを感じる。その手のぬくもりが…彼のいたわるような優しい眼差しが頭から離れなかった。
布団から体を起こし、窓辺に近づく。
手を窓枠に置き、深く息を吸い込むと、新鮮な空気が肺いっぱいに広がった。
「今日もいい天気だ」
思わず小さくつぶやく。
「よし」
気合を入れて、眠っているシオルを起こさないようにそっと抱え上げた。
そのまま自分がさっきまで眠っていたベッドに静かに下ろす。
(ずっと看てくれてたんだろうな…)
叫び声をあげて気絶してしまうなんて、自分でも思わなかった。
勇者として過ごしてきた間に、多くの魔獣を倒してきたけれど、
クモ型ももちろん、昆虫タイプは速攻で切り刻んできた。
だから、素手でつかむなんて……しばらくトラウマかもしれない。
昨日、ウェブスターが手土産にもってきたハムを片手に、朝食を作ることにした。
薄くスライスするのは難しいので、少し厚めにカットする。
フライパンに置き、軽く焦げ目がつくまでじっくり焼く。
焼けたハムを、そっとトーストしたパンの上に乗せた。
「ナギ…?」
シオルが心配そうに後ろから近づいてくる。
「起こしちゃった?まだ寝てても」
「いや、もう充分寝たから大丈夫だ」
「そう?じゃあ朝食にしようか」
私はシオルの声に微笑み返しながら、ゆっくり振り返る。
穏やかな表情のシオルが朝の光に包まれて、いつもより少しだけ近くに感じられた。
その時……ほのかに心の奥で何かが弾んだ気がして。
それが不思議とちょっと嬉しくて、自然と胸が温かくなった。
窓の外では鳥がさえずり、光が柔らかくキッチンに差し込んでいた。
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