102話
『はじめまして!ヴェルディです』
かつて、無邪気に笑いながら丁寧にお辞儀をしていた少女。
伯爵家の令嬢でありながら、エリシアに次ぐ神聖力を持っていたため、親元を離され神殿で暮らし始めた所だった。
彼女は聖王と聖王妃の物語が大好きで。
いつか夫となる人に、花冠を模したアクセサリーを贈ってもらうのだと――
頬を桃色に染め、はにかんでいた。
あれから随分たつ。
ヴェルディは立派な淑女になっていた。
大人の女性として礼節や品位が備わって、その目には落ち着いた知性が宿っていた。
けれど、その静けさは、どこか張り詰めすぎているようにも見えた。
「教皇様へ、勇者様への依頼をお願いしたのはわたくしなのです」
本来であれば、何人たりとも立ち入ることを許されぬ、聖王の棺が安置された『大聖封祠』。
その前でヴェルディは言の葉を紡ぐ。
白光の風の君
御息吹にて護られし封祠の扉よ、
我、穢れなく、ただ御許しを乞う者なり。
今、我が歩みを許し給わば、
風清く道ひらき、
御前へと導き給え。
黒鉄に刻まれている祈祷文が白く輝き、紋章が点滅する。
やがて、許しを与えるかのように、心地よい風が扉の隙間から吹き抜けた。
「では参りましょう」
ヴェルディが優雅に微笑んで扉を大きく開いた。
「許しを得ましたので、皆さまご一緒に入室ができます」
「フェリアさんから、もうお聞き及びかと存じますが……」
細く長い石の道が、静かに、果てしなく続いている。
「自称聖女である王女殿下が、棺に触れました」
壁は白灰色の石で組まれ、その一面には、風を象った古いレリーフが途切れなく刻まれていた。
渦を巻く風、そよぐ草、舞い上がる羽根──
「エリシア様が気付いた時には、すでに聖王の身体を安置している石棺に、何やら細工が施されておりました」
燭台の炎が揺れる。
「それは最初は人の拳程度の大きさであったと」
足音が吸い込まれるように柔らかく響く。
「ですが──」
やがて、遠くに何かが見えた。
蠢く何か。
それは石でも影でもない。
液体のように揺れ、肉のように重く、
それでいて煙のように形を定めない。
だが確かに、“そこに在る”。
黒い塊は、ゆっくりと、呼吸するように脈動していた。
膨らみ、しぼみ……。
表面からは、
細く長い“触手”のようなものが伸び、
石棺に吸い付くように絡みついている。
その動きは、生き物のようでありながら、生き物とは思えないほど無機質で、感情の欠片すら感じられない。
微かな音がした。
“ぬち……ぬち……”
湿った、耳の奥にまとわりつくような音。
まるで、石棺そのものを喰らい、取り込み、自分の一部にしようとしているかのように。
風の女神が愛したはずの静謐な空間は、今や謎の黒い脈動に支配されていた。
「聖王に触れられないと知るや、石棺ごと飲み込もうと成長を始めました。いくら聖王御身から清浄な神聖力が放たれても、石棺を覆う謎の物体によって穢れが混じるようになってしまったのです」
私たちは茫然とその巨大な黒い物体を見上げていた。
その一角に光輝く白い影が立っていた。
「エリシアさん……?」
錫杖を握りしめ、先端の輪が、厳かに震えながら澄んだ音を響かせている。
聖女の足元には、魔方陣が絶えず輝いていた。
「本来、聖女は聖王が安らかに眠っていられるように、魔術を行使します」
黒い影がその聖女にじわりと滲み寄り、飲み込みはじめていた。
「聖王は人間です。肉体が滅んでしまっては結界の意味がありません。そのため、聖王妃は自らのお力全てを使い、肉体の滅ばない石棺をお造りになりました。そして、お心に見合う乙女を一人だけ選び、この石棺に定期的に神聖力を注ぐ役目を与えたのです。それが聖女の役割でござます」
エリシアは一歩も動かない。
「エリシア様が黒く蠢くこの物体の浸食を留めるため、ここにお籠りになってから、すでに半年です」
彼女は途切れさせることなく言の葉を紡ぎ続けていた。
御身の息吹、ここに在りて我を支え給え。
風は巡り、光は満ち、
御心のままにかの聖王を守り給え。
光よ、癒しを!
聖王国は――すでに、内側から喰われ始めている。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
「わたくしは、エリシア様が魔王討伐後お戻りになると同時に、還俗を勧められました。このような状況になっていると知ったのは、一か月前なのです」
ヴェルディが今にも泣きそうな声でエリシアを見つめる。
「聖女しか立ち入らない、王族でさえ扉を抜けた所までしか立ち入りを許されない。それ故発覚が遅れました。エリシア様は奔放な方です。側付きの神官すらおりませんでした。そのため暫く姿を見た者がいないという事実に気づいた時、神殿は恐慌状態に陥りました。あやゆる場所を探し、ここしかないと。丁度王女殿下の暴挙があったばかりです」
エリシアの錫杖の音が響く。
「教皇様自らが、許されない覚悟でここに入られました」
“ちりん”
「その時はまだ、エリシア様と会話できる状態だったようです。浸食を留めつつ、聖王の肉体を守るためエリシア様はここを離れられないと。できるだけ浸食を遅らせてはいるが、この物体が何なのか分からない。王女殿下が何かをしかけたことだけは確かである、と。そう告げられたそうです」
“ちりん”
「わたくしあてに、教皇様の治癒をして欲しいと依頼が届き、不思議に思いつつ大神殿に訪れたのが、一か月前です」
ヴェルディの視線が地面に落ちた。
「教皇様は全身に夥しい火傷を負っておりました。通常の治癒では癒せず……。だいぶ長い間外部に漏れることを恐れ隠されていたようでした。このままでは生命が脅かされると、苦渋の決断で還俗していたわたくし宛に治癒の依頼が届きました。そしてその場で『大聖封祠』に何が起こっているのか、教えて頂いたのです」
錫杖の輪が鳴る。
「わたくしは再び準聖女として復帰し、『大聖封祠』の任につきました」
光よ、癒しを!
ヴェルディからの癒しの光がエリシアを包み込む。
こうして定期的にエリシアの回復をし続けているのだという。
「そして教皇様に、勇者様への依頼をお願いしたのです」
桃色の髪から覗く新緑の瞳が、私をゆっくりと映した。
「もう、……もう勇者様にしか……」
言葉が途切れる。
耐えていたのだろう。今までずっと。
彼女の瞳から一滴、透明な液体が滑り落ちた。
◇◇◇
大神殿から出た私たちは、一旦フェリアの勧める宿屋に向かうことにした。
重苦しい空気の中、ドルガンが口を開く。
「シオルの旦那、あの黒いのは何とかなるモノなのか?」
蠢く物体。
つい最近どこかで見た物にも似ている。
「恐らくベオルの身体についていた物と同種だろう。ただ──」
「もしかして、あれは自分の意思で増殖している?」
私の疑問点にシオルが頷く。
「誰かの指示で増殖しているのなら、そこを叩けばいい。だが今回は違う」
「あれだけを消滅することは難しいのか?」
レオンハルトの疑問に、シオルが珍しく腕を組んだ。
「石棺に浸食しているのが問題だ。黒い物体を消去した瞬間、石棺に隙間……おそらく欠損が生じる。その場合、聖王の肉体に影響が出ない保証がない」
難しい状況に全員が黙り込む。
「それから出来ればあの黒い物体は、確保したい」
「保存したい、ってこと?」
「そうだ。今回のようなケースが、この国以外でも起こるかもしれないからな。検証して対策する必要がある」
「他の国でも知らない間に、起こってるかもしれないしな」
レオンハルト何気ない言葉に、ドルガンが眉をしかめる。
「どちらにせよ、今は早くあの黒い物体を解析しなくてはいけない」
宿の窓から覗く大神殿は、夕陽が沈みかけ深い橙と薄紫の境目でゆっくりと溶け合っている。
遠くから鐘の音が微かに届いていた。
その音に、エリシアさんの錫杖の音が、静かに重なった気がした。




