ハイティーンギャングスレボリューション
文字数15,000字弱、読み切りの短編になります。
今宵、クソ熱い夏の空にドでかい打ち上げ花火を上げようじゃないか……。
1、ボス・グッドフォーナッシング
おれの名前は児馬大樹。みんなはおれのことをボスって呼ぶよ。
ああでも、決してそれはおれがこの学校のボスキャラだからってんで付けられたあだ名じゃないよ。単に、身体がデカいからってだけでついた名前なんだ。まあ、中学校時代に呼ばれてた“デク”よりはマシさ。
見かけがデカいだけでなんの取り得もない、勉強も運動もできない木偶の坊の“デク”。悔しいけど、そのあだ名はおれにピッタリだった。
あだ名が変わっても中身は変わらないもんで、ドンくさくて頭の悪いオレはいつも半端もので親友と呼べるヤツはひとりもいなかった。それは、デクでもボスでも変わらない。挙句、高校も留年しちまって内定していた就職もふいにし両親からは三行半を突きつけられた。「なんでもいいから、恥ずかしいからとにかく高校だけは卒業してちょうだい!」ってお袋に泣きつかれた時はさすがに自分が情けなかった。
自分で自分を呪ったよ。それこそ、デクのあだ名がお似合いだ。
それでも、たったひとつだけおれの手元に残っているものがある。それは、就職にあわせて取った普通免許だ。普通免許は取って就職はヘマってるんだから本末転倒もいいとこだよな。けど、これがあったからこそハルはおれを見止めてくれたんだ。
「ボスってさ、運転免許もってるんだろ? だったらさ、夏休みにどっか遠くにドライブにでも行かないか?」
こんなこと頼めるのおまえしかいないだろ? なんて、そんなこと言われたの生まれて初めてだったよ。だからおれは一も二もなくハルの話に乗ったんだ。
「ねー、御菓子まだあるー?」
「ん? 酢昆布ならまだあるぜ」
「えー!? なによ酢昆布って。だれがそんなの買ってきたのよ?」
「あ、ごめん。おれだ。好きなんだ、酢昆布」
運転しながら軽く手を上げて答えると、後部座席のピグとバンビがなにやらくすくすと笑いあっている。バンビ曰く、
「ボスに酢昆布って、なんかかわいい」
「か、かわいい?」
助手席のリップが得体の知れないものを見るようにしておれの方を振り向いた。しかし、かわいいと言われてもおれもなんとも答えようがなかった。
すると、今度はピグが身を乗り出し、おれとリップのあいだに顔を突き出してきて、
「だって、ボスが酢昆布の小さいケースを大事そうに抱えながら酢昆布を啜ってる姿を想像してみてよ。なんか可愛くない?」
「……女の思考はようわからん」
今度はハルが重く嘆息を漏らす。呆れ顔で車窓を流れる風景に目を流していた。
茹だる様な暑い夏。空は快晴。一直線に続く高速道の遥か先に見える逃げ水を追いかけて、おれたちの乗せた車は快調に飛ばしていた。おれたちのぶっとんだ夏休みもまだ始まったばかり。
「それよか、オレしょんべんしたくなってきた。ボス、わりぃけど次のサービスエリア止まってくんね?」
「おまえは、じじぃか? なんでそんなに催すのが早いんだよ?」
「メーデーメーデー。ボス隊員応答せよ。こちら、貯蔵庫担当班。現在、御菓子の備蓄が底をついているであります。次のサービスエリアへの緊急停車を要請するものであります」
「であります!」
「おまえらは、食いすぎだ!」
相変わらず車内は騒がしい。夏の暑さも入り込む隙がない。このテンションのまま、窓を全開にして札をばら撒きながら走るのもいいかもしれない。
バックミラーで車内の様子を見遣りながら、
「はいよ。んじゃ、次のサービスエリアまでゴー!」
『イェアー!』
ハンドルを握る手に力を込めて、この先どんなことになっても後悔はないと心が呟いた。
2、リップ・ガンアンドジャンク
オレは自分のことを天才だと思ってるよ。なにか悪さをするときの、オレのヒラメキ様はかなりなモンだぜ。
でも、この広い世の中、上には上がいるもんだな。正直、アイツには適わないって思ったよ。手先の器用さならまだオレの方に歩があるけどな。
「よぅ、高瀬。今年の夏休み、お前ヒマしてるか?」
そういって声を掛けてきたんがとなりのクラスのハルだった。
三年二組の森晴之。銀縁メガネの典型的なマジメくんさ。
それまで話しをしたことなんてまったくなかったヤツなんだぜ? どっちかっていえば物静かっぽい、オレなんかとはなんの接点もなさそうなヤツさ。見ためはな。それがまるでガキの頃から付き合いがあったみてぇに声を掛けてくるから少しムッとなったんは正直なとこだな。
だけどさ、ふつう一学期が始まったばっかの時点で夏休みの話なんかしないだろ? 進路希望の紙にニートって書いてセンコウに叩きつけたオレに予定なんかあるわきゃねえから、ムッとしながらも暇だって答えたんだよ。そしたらアイツ、なんて言ったと思う?
「なら、高校最後の夏休みにオレとでかいことをやってみないか?」
な? 笑うだろ?
オレもさ、始めは間に受けなかったんだ。こいつもしかして、ヤクでもやってラリッてるんじゃねえかって思ったくらいさ。
だけどな、
「この計画を実行するにはおまえの力が必要なんだ。もし、おまえが参加できないっていうならこの計画もナシになる」
そう言って話し始めたアイツの計画っていうのがバカバカしいくらいとんでもない計画でさ、金持ちの同級生を拉致って身代金要求するなんて普通考えないだろ? しかも、拉致られるその同級生もグルと来たもんだ。
「成功すればでかいし、たとえ失敗してもちょっとしたいたずらだったって言い張ればなんの罪にもならない。被害者が同時に加害者でもあるから逮捕・監禁罪の適用もない。オレたちはなにひとつ法に触れることをしないんだよ」
なんの代わり映えもしないこの生活のなかで、こんなおもしろそうな話に飛びつかないなんて損だろ?
にしても、ハルのヤローはオレのことをどこで調べてやがったんだかな。
アイツがオレに用意しろって言ったのが中古の車と偽ナンバープレートだった。ふつうそんなもん用意できないと思うだろ? でも、オレにはそんな難しい話じゃなかったんだ。
なんでだかは知らないが、アイツはオレのオジキがレッカー業者をやってるってのを知ってた。つまりは、運び込まれたばっかの放置車両や廃車の中から選んでパクっちまえば簡単な話だった。実を言えば中学時代にもやった事があったから、自分で言うのもなんだけど慣れたもんだよ。それも、アイツには調べが付いていたことらしいな。
「っつーかこれ、間違いなく犯罪だろ?」
「犯罪は露呈しなければ犯罪にはならない。放置車両の一台くらいなくなってもどうってことないだろ? ナンバープレートにしたって同じさ」
真面目そうな顔しやがって、アイツはそんなことをさも当たり前みたいに言うんだぜ。世の中わからねぇもんだよ。普段、おとなしくしてるヤツほどキレたらヤバイって言うけど、ハルはその範疇をはるかに越えてやがった。
まあ、そんなハルのことだ。ボスのこともピグのことも、たぶんバンビのことも調べはついてたんだろうな。
ボスが運転免許を持っていたことも、ピグが援交やって小遣い稼ぎをしてたのも、バンビの家庭環境のことも全部、アイツは計算づくだったんだ。
なんかよ。ここまで先を見越されてるっていうのもなんだか癪だよな?
だからオレはアイツの想像を越えてやろうと思ったんだ。飛び切りの悪さには飛び切りのスパイスが必要だろ。だからさ、オレはハルに言われたよりも余分にもうひとつのものを準備したんだ。
「知ってるか? 東京の、特に物陰に入ったとこにある駅のコインロッカー漁ってみな。使い捨てのゴムが入ってることもありゃ、赤ちゃんのミイラも入ってるし、こんなもんも時おり入ってんだよ」
ギャングやるには銃が必要だ。そう言ってオレが新聞紙に包まれたブツを投げ渡したときのアイツの顔がいまでも忘れられない。
あの驚いた“ような”表情。
明らかに動揺した“ような”表情。
「おまえ、さすがにこれはヤバイだろ」なんてうろたえてたけど、今から考えりゃあれはぜんぶ演技だったんだろうな。よく考えれば、車や偽のナンバープレートを用意するくらいアイツなら出来たはずさ。わざわざそれだけのためにオレに声をかけたとも思えない。だからたぶん、アイツはオレがどっかから銃を調達してくることすら想定済みだったんだろう。むしろ、そうなるように願っていたかも知れねえな。それでもなお、自分の“本当の計画”が他のヤツに知れないようにわざと演技しやがったんだ。
これじゃあ、『リップ』のコードネームが台無しだよな。この誘拐事件をやらかすあたって、面白半分でバンビがコードネームで呼び合おうなんて言いだしたんだ。まあ、ハルとボスはまんま、普段のあだ名を流用しただけだけっどさ、バンビもピグも、オレのリップも自分で名乗り出したコードネームさ。
一応、頭の切れるヤツって意味でつけたつもりだったのによ。本当のリップはハルの方だったのかもな。
3、ピグ・フェイルズマスカレード
私の名前は鹿野綾香だった。
いま、その名前は私には物足りない。鹿野綾香という型に私は当てはまらない。鹿野綾香という響きは私には相応しくない。
だから、わたしはピグと名乗ることにした。ピグ(牝豚)という名前こそ、いまの私には相応しい。
この世の中には二種類の人間がいる。女の身体のことしか頭にない男とその下心を利用する女だ。そのふたつは日常の表舞台ではほとんど交わりを見せることはない。平和バカの惚気た恋人たちを除けばね。だけど、ほんのちょっとでもその裏側に入れば、まったく同じ日常の中に男の性欲と女の物欲が、お互いの尾に食いついて放さない二匹の蛇のように交じり合った世界が現われる。
その世界を私が知ったのは中二の時だった。「あんた、かわいい顔してるからかなり儲けられるよ、ぜったい!」って部活の先輩に誘われたのが始まりだったかな? 売春とか援助交際とかいわれているやつ。登録をして電話をもらって、男の人と待ち合わせをしてつかの間の恋人ごっこ。言ってしまえば、それだけのこと。
悪いことをしているという意識はもちろんあった。それがわかっててやめられないのは、きっと背徳こそが人間の本質だからでしょうね。無辜なんて虚構。幼稚な悪戯かキチガイの猟奇殺人か、法に触れるか触れないかの差があるだけで、すべからく人は悪というものに恍惚を覚えるものだから。
その時から私の中の“鹿野綾香”は死んだ。というより、本来の私自身であった鹿野綾香がただの仮面に変わったって言うべきかもしれない。
それからわたしは、何度となく男の性欲の捌け口という役割を演じ、見返りとしてそこそこの、満たされる程度の金額を受け取ってきた。といってもそんなに数多くこなしたわけじゃないからいままでにバレたことはない。こういうとき、三つ編みにメガネがトレードマークの“鹿野綾香”という仮面は本当に役に立つ。そういう類いの噂が学校内に流れて、関係を迫ってくるのや恐喝じみたことをしてくるヤツもいた。そんな時でも、この仮面を使って「そんなわけないわよ」なんて微笑んで返せばすべてが霧散して消えてしまう。テストの成績がすべての、頭の固い教師のなかに私の真実を見破れるのなんて一人もいなかったから、結局のところ噂が噂以上になることもなかった。
けど、ハルは違った。
「よぉ、フッカープリンセス(売春姫)。最近の稼ぎはどうだい?」
隣のクラスの男子があなたのこと呼んでたわよ、って言われて屋上に向かった先で、開口一番に投げつけられた一言がそれだった。
その濁った鋭い眼差しを目の当たりにしてわたしは直感した。彼もわたしと同じ、“森晴之”って仮面をつけた確信犯だってね。まあ、類は友を呼ぶってやつ。英語だと、Birds of a feather flock together.(同じ羽根をもった鳥たちは群がる)だったかしら? もっとも、ハルには飛ぶための本物の翼があって、わたしたちを置いて向こう側に飛んでいってしまったけれど……。結局、どれだけ足掻いてもわたしは鳥かごの中の文鳥でしかなかったのかしらね。
ただ、ハルが持ち出してきた計画にのったのは彼に自分と同じものを感じたからってだけじゃないの。
高校最後の夏休みに決行する同校生徒の誘拐計画。でも、なにをするにも元手って必要でしょう。必要経費は五十万。
「手段を選ばなけりゃ簡単だろ? そのためのサポートもつける」
「……納期はいつまで?」
「そうだな。出来れば今月中」
「――まったく、いきなり呼び出しておいてホントむちゃくちゃ言うわね。でもいいわ。なんとかしましょう」
こんな話をしてる時点でまともじゃないわよね。でも、「それはこの世界そのものがまともじゃねぇんだから仕方ねぇさ」。まあ、これはリップの受け売りだけど。
「それともうひとつ。鹿野にはターゲットへの接触を図ってもらいたい」
「……それは、つまり明神雪乃に“誘拐されてください!”って交渉しろってこと? だけど、それはあなたの方が適役じゃない。その様子なら明神家のことについてもいろいろ調べはついてるんでしょう?」
ハルが誘拐する同級生として指名してきたのはわたしたちと同じ三年の明神雪乃だった。花も羞じらうとはまさに彼女のためにある言葉だろう。可憐でありながら薔薇のような棘もない。そのうえ有名な大会社の社長令嬢ときている。
といっても、そのことを知ったのはハルの計画を聞いてからだけれど。無関心が売りのイマドキの高校生は、同学年にどんな経歴の生徒がいるのかなんていちいち覚えてなんかいない。同じクラスの生徒ならまだしも、他のクラスとなるとまるで眼中になどなかった。
だからなおさら、調べをつけたハルのほうが交渉には適していると思ったのだけれど、
「いや、オレさ。こう見えて人見知りするほうなんだ。女子の前だと特にな」
「へえ、じゃあいま目の前にしているのは女子以外の何かってことね」
キツイ目付きで返してもおどけた顔ひとつで煙に巻いてしまう彼のことがすこし妬ましかったけれど、
「んもう、やなヤツ。まぁ、でもいいわ。そっちのほうもなんとかしてみる」
そんなやりとりを経てわたしが明神雪乃との交渉役をかったのは――いいえ、そもそもこの誘拐計画に乗ったのも明神雪乃という人間に少し興味が出たからなのよ。実のところを言えばね。
この世の中には光と闇とがあって、間違いなくわたしは闇の中にいた。だから、光の中にいる彼女に興味があった。牢に入れられた囚人が格子窓から差し込む外の明かりを眩しそうに見つめるみたいに、わたしは明神雪乃を、その先にある光の世界を覗いてみたかったのかもしれない。もとはわたしも住まっていたはずのその世界を……。
そしてそれ以上に、なんの後ろめたさも鬱屈感も、日々の生活にひとつの疑問も感じていないだろう彼女のことを壊してみたかった。そうやって、彼女のことを闇へと引きずり込もうとしたんだ。引きずり込めないまでも、こちらの世界を垣間見せてやるだけでもよかった。あんたみたいのがのうのうと暮らしているその下で、わたしのようなヤツが影となり毒となってあなたたちの光を光たらしめ、そうやって世界が成り立っているの。それを知らしめてやりたかった。
この世界が光だけで成り立っていると思ってた? 無辜なお嬢さん。
けれど、それは到底出来ない話だった。
なぜなら、
「……わたしは、ただの人形だから」
なぜなら、彼女は光のもとに住みながら、その身体の中にわたしよりも色濃い闇を内在させていたから。彼女は、バンビはわたしなんかよりよっぽど深い絶望の中にいたのだから。
4、バンビ・バタードドールシンドローム
テレビのモニター越し、薄暗い部屋の中で一人の少女が頭から布を被せられ椅子に身体を括りつけられた状態で座っていた。しばらくの後、覆面の男が少女の元に立ち、少女に被せた布を取り外した。布の下から覗いた顔は、明神雪乃という少女のものだった。クチをガムテープでふさがれ、潤んだ目がテレビモニター越しに必死に助けを求めている。
覆面の男が少女の後ろに回り、手にした銃を少女のこめかみにあてがう。そのまま、覆面の下から音声変換器で変えられた機械的な声が事務的に告げた。
「明神泰寅。あなたの孫を誘拐させてもらった。明後日までに身代金三千万円を用意しろ。受け渡し場所、時間は同封した紙を見ればわかる。くれぐれも、警察に連絡はするな。もし警察に通報するようなことをしてみろ、彼女の命はないぞ」
おもむろに、少女のこめかみに向けられていた銃口がテレビモニターのほうへと向けられ、
「これは脅しじゃない、本気だ」
そのひと言を置いて、爆発音が響きテレビモニターにヒビが走り、映像はそのまま砂嵐に切り替わっていた。
そのビデオは部室長屋の隅にある空き部屋で、休み時間のわずかのあいだに撮影されたものだった。その日の帰り、録画したビデオと身代金の受け渡し方法をタイプした紙を同封した大きな茶封筒を明神邸のポストに投函したのは私自身だったりする。
誘拐計画の決行は七月十九日。茶封筒を投函した後、私は家には帰らずそのままひとり暮らしのハルのウチへと転がり込んだ。空白の二十日をハルのウチで過ごした後、いよいよ身代金の受け渡しの二十一日を向かえることになった、のだけれど……。
『警察には通報するな』。ビデオでは確かにそう告げている。しかし、それで本当に警察に通報しないというのはどういうことなのか。
それは、あの人にとって三千万という身代金は端た金程度だったこともあるだろう。子供が成人するまでに掛かる養育費も明神の人間にとっては装飾品の数個分という感覚でしかない。でも、本当の理由はたぶん違う。
あの人が警察に通報しなかったのはたぶん、あの人と私とのあいだにある事実が露見することを恐れたから。それは、あの人が私の心と身体に刻んだ癒えない傷痕。
私は明神泰寅の長男、明神泰一の次女としてこの世に生を受けた。そう思い込んでいたし、そう信じて疑わなかった。けれど、明神雪乃を取り囲んでいた日常の風景はある日突然、卑猥な暴力によって脆くも崩れ去っていた。
「おまえは明神の名を汚す忌み子だ。雪乃。おまえはな、三咲の、わしの娘がどこの馬の骨とも分からん輩と寝て作った不浄の子供なのだよ。もっとも、おまえが生まれてすぐに、三咲は事故で死んでしまったから、おまえはなにも覚えておらんだろうがな」
それは、中学三年のある日の夜。祖父である明神泰寅が私の部屋になんの前触れもなく訪れ発した言葉だった。
「本来なら、おまえを育てる義務なぞなにもない。それを、今まで生かしてきてやった。この意味が分かるかな?」
当惑する私を尻目に、彼はその痩せ細った外見からは想像もできないくらいの力で私を組み伏せ、淫靡な笑みを浮かべて続けた。
「なにひとつ拒むことのない人形。それが、おまえの生きる唯一の道だ」
私の身体の上を這いずり回る祖父の手は、私の喉元に触れる祖父の吐息は、年月を重ねた粘度と臭気で私を覆いつくし、漏れる声も溢れる涙も撥ね退ける力も掻き消えて、私の世界は抗うことを許されぬ漆黒の闇の中に閉ざされていた。
もとより不浄の子である私に助けの手が差し伸べられることはなかった。意を決して、祖父の凶行を両親に、本当の両親だと信じていた人たちに告白したけれど、彼らが私の話に耳を傾けることはなかった。それどころか、高校入学と同時に別邸に移るようにとまで言われた。
「むこうに住んだ方が、高校に通うには便利でしょう?」
その時の、背筋が凍るほど清々した母の笑顔はいまでも私の瞼にこびり付いている。その言葉を受けて、私はいったいどんな表情でいただろう。
なにひとつ拒むことのない人形の私に、逃れる術はなかった。
否応なく私は高校入学と同時に祖父が隠居生活を送る明神の別邸へと移り住んだ。
地獄が始まった。
それからの生活がいったいどういうものだったか。これ以上は敢えて話さない。もし知りたいと思うなら、人間のいちばん奥底に潜む暗部を目の前にしても正気を保っていられる自負と覚悟を……。
なにひとつ拒むことのない人形。だからというわけでもないけれど、鹿野さんが、ピグが私の誘拐計画を持ち寄った時、私に拒否権はなかった。
報復自殺ではないけれど、誘拐事件を自ら装ってあの人に復習してやろうという気持ちがなかったわけじゃない。だけど、そんなことをしたってなにも変えられない事くらい私にはわかっていた。自由になんてなれるはずがない。身代金が受け渡されれば、私の身柄はあの人の元にもどされる。結局、私があの人から逃れられるのは身代金の受け渡しが行われるまでのほんの数日間だけ。たまさかの夢。かすかな幻想。
夢が覚めてしまえば、再び地獄が始まる。逃げ道なんてどこにもない。
それでもよかった。ほんのひと時の安息でも、私はよかったんだ。
だけど、
「なあ、バンビ。もし、おまえさえよければ、オレたちと一緒に来ないか? オレたちがおまえの悪夢を終わらせてやる。そのための準備も、もうしてある」
思いがけずハルから告げられたその言葉は、私にとって一度として差し伸べられることのなかった救いの手に他ならなかった。その暖かさに優しさに触れて、人形になりきって空っぽになっていた私の中に心が芽生え、感情が生まれて、
「おまえを自由にしてやるよ」
ハルの肩に顔をうずめ、ハルに背中を擦られながら溢れ出る涙は、数年間に渡って続いた地獄の濃度で流れ続けた。
※
場所は寂れた港の寂れた倉庫。時間はもうすぐ日付も変わろうかという夜半時。豊かな白髪を湛えた老人がひとり、黒いバッグを大事そうに抱えて軒を連ねる倉庫の前を駆け足で走っていく。多くの倉庫が、搬入出用の巨大なシャッターも人が出入りする為の出入り口も閉ざしている中、『D-2』という看板が掲げられている倉庫だけ出入り口が薄く開かれていた。わずかにだが中の灯かりも細く漏れている。どうやら老人は、そのD-2の倉庫に向かっているようだった。
「ここで、いいのか?」
倉庫の入り口を前にして、せわしなくあたりを伺う。ひとつ小さく息を吐いてから、ゆっくりと扉を開けて倉庫の中へと老人は入っていった。
入り口の真上と倉庫の一番奥まったところ、その二箇所だけに切れ掛かった電灯が点けられているだけで、倉庫の中は仄暗い。それでも、ほとんど貨物が入っていないおかげで見渡しはよかった。
老人が立つ場所からは一番遠く、もうひとつの電灯が燈すところに人影があるのにすぐに気付く。頭からは布を被せられ、身体は椅子に固定されたまま身動きの取れずにいるその姿は犯行声明のビデオで見た孫娘の姿そのままだった。
見たところ、囚われているもの以外に人のいる気配はなかった。しかし、そんなはずはない。
「か、金は持ってきたぞ! どこかに隠れているなら、さっさと出てこい!」
しばらくの躊躇いの後、老人は姿の見えない犯人に向かって声を張り上げたが、倉庫のなかにむなしく響いただけだった。なにか反応があるものかと思って待ってみたが、老人の声に気づいた囚われ人が布のしたからウーウーと助けの声を漏らすだけで、ほかにはなんの返答も返ってこない。
これでは埒があかない。
早々に痺れを切らして、老人はバッグを抱える腕にギュッと力を込めて静かに倉庫の奥へと歩を進めた。息を潜め、まわりに注意深く視線を走らせながら、一歩一歩慎重に。
しかし、
「おっと、それ以上は動かないでもらおうか?」
いつの間にか背後に現われた二人組みによって老人は取り囲まれてしまう。ひとりが素早く老人の後頭部になにか固いものを押し当ててきた。ゴリッという冷たい感触は、いままで一度も経験したことがなくても押し当てられたものがなんなのか容易に想像がつくものだった。恐怖に身が縮み、小さく声が漏れてしまう。
「中身が本物かどうか確かめさせてもらうぜ」
緊張至極の老人の腕が一瞬ゆるんだ隙に、もうひとりが老人の抱えていたバックを奪い、手際よく中身を確認し始める。黒いバッグの中から出てきたのはまぎれもない、身代金として要求された三千万円の札束。
それを確認して、二人組みは頷きあう。
「これで交渉は成立だ」
「人質は返してやる。せいぜい、大事にするんだな」
言うが早いか、二人組みは老人の背中を蹴り上げそのまま倉庫を後にした。
背中をしたたかに蹴りつけられ、地面に突っ伏した老人は痛みに顔を歪めしばらく立ち上がることもできなかった。
倉庫の入り口からは車のエンジン音と走り去っていくエキゾーストが聞こえてきた。おそらくは、二人組みの誘拐犯が乗った車が走り去る音だろう。
まあいい。かわいい孫娘が返ってきたのだから。そのために捨てる三千万なら惜しくはない。
老人は蹴られた背中を擦りながらゆっくりと立ち上がった。失くしたと思っていた大事なオモチャを探し当てた子供のような高揚した笑みを浮かべ、いまだ布を被せられたまま呻いている孫娘のもとへと歩み寄る。
それにしても、まさか攫われるとはおもわなんだ。そうだな、これからはもっと大事にしなければならない。これ以上、外に出しておくのは危険だ。家からは一歩も外に出さない方がいいだろう。そのために学校を辞めさせたって構わない。なんなら、鎖で部屋に繋ぎとめておこうか。そのためには一段と厳しい躾けも必要か。とにかく、大事に大事に育てなければ。
「わしの、かわいい雪乃」
いまだ椅子に縛り付けられたままの孫を目の前に、老人は狂気にも似た笑みを浮かべていた。
この布を剥がしたら、この娘はどんな表情で自分を見るだろう。そこにあるのは、希望の眼差しか? それとも、色濃い絶望か? その一瞬を見逃すまいと、縄を解くのも後回しで、老人は少女の頭に被せられた布をことさらゆっくりと剥がしていく。
しかし、
「……だ、誰だおまえは!?」
そこにいたのは明神雪乃ではなく、ボサボサの髪を後ろで強引にまとめた、みすぼらしい見ず知らずのホームレスだった。
5、ギャングス・ブリージングブルーサマー
おれたちを乗せた車は、ときおり横浜ナンバーになったり相模ナンバーに変わったりしながら快調に走り続けた。
もっとも、ナンバープレートの付け替えはハルがやってるだけで、ほかのメンツはそんな必要もないだろうと高を括っていたところがある。けれど、その余裕も夏休みにはいって二週間と続かなかった。
ある日、たまたま目にしたニュースでおれたちの起こした誘拐事件が全国的に報道されていたのだ。もっとも、テレビ画面に映し出されたのは泣きながら我が子の無事を願う(もちろん演技だろうけど)明神泰寅をはじめとする明神家の面々と、誘拐された明神雪乃のバストアップの写真だけだった。語られた犯人像は二十代から三十代の二人組みとてんで的外れ。どうやら、ハルが日給1万で雇ったバンビの身代わり役のホームレスは、約束どおりおれたちのことをなにも話さなかったみたいだ。それに、バンビのバストアップの写真もいまじゃなんの役にも立ちはしない。
テレビモニターに映った内気で真面目そうな女子高生の写真から、長い黒髪をばっさり切り落として金髪に染め、ボーイッシュスタイルに身を固めたいまのバンビを想像できる人間なんてほとんどいないだろう。
わかりゃしない。絶対に見つかりはしない。みんながみんな自分にそう言い聞かせようとした。だけど、妙な緊張感はどうしても拭えなくて、徐々にピリピリした空気が流れるようになった。
そして、
「ふざけんじゃねえ! いまさら後に引けるかよ! オレたちはもう行けるとこまでいくっきゃねえんだよ!」
引き返すなら早めの方がいい。ピグのそのひと言に、銃を片手に詰め寄るリップの姿を見て、おれは終わりが近いんだと思った。
だけど、おれたちの旅の終わりは誰もが予想していなかったかたちで唐突に現われた。
おれたちはどこかに宿を取る時は必ずラブホテルと決めていた。顔を見られる心配もないし名前や住所を残すこともないからというのがその理由で、誓って言うけど変なことが目的だったわけじゃない。少なくともおれはそんな気分にはなれなかったし。
ラブホテルを利用するには男女のペアで入るのがいちばん自然だ。だから、男の三人のうちひとりは残されて車での寝泊りという“ハズレくじ”を掴まされることになる。
その日、ハズレくじを引いたのはハルだった。リップの、銃を使っての恫喝事件が起こった直後だったので自然におれとピグ、リップとバンビの組にわかれていた。
「ねえ、ボス。わたし、不安で不安でたまらない。ほんとうにわたしたち、このままでいいの? わたし、とても恐い」
やっぱりおれはどうしようもなくデクだった。部屋に入って早々、ピグが涙を流しながら声を詰まらせながらおれに縋ってきているのに、おれには体をさすって宥めてやることも返す言葉も出てこなかった。ベットに腰かけたままただただ彼女の顔を見つめているしかできなかった。
泣きつかれたのか、それとも昼間のリップとの言い争いで疲れていたのか、しばらくするとピグはおれにもたれかかったまま寝息を立て始めた。起こさないようにそっとベッドに寝かしつける。
テレビの脇にある備え付けの冷蔵庫になにかないものかと思い、おれは冷蔵庫の真ん前に直に座り込み中身を物色した。
ちょうど目の前に缶ビールがあった。キリンよりはアサヒの方が好きなんだけれども、贅沢は言ってられない。ひとつ手に取り、プルトップを引き上げて一気に煽った。独特の苦味が口の中に広がる。
わたし、とても恐い。普段は気丈な姿勢を決して崩すことのないピグの、まるで小動物のように震える姿を見せられてさすがに堪えた。付け加えて、ピグに対してなにもできなかった自分に対する不甲斐なさと苛立ちも大きくて、とてもじゃないけれど酔っ払いでもしなければ眠れそうになかった。
けれど、こういうときに限ってなかなか酔いが廻ってこない。一缶空け、二缶空けて、三缶めの水割りウィスキーは不味くて、半分も飲めないまま捨ててしまった。酔うどころかますます頭は冴えてしまう。
わたしたち、このままでいいの? そんなの、おれに答えられるはずがない。
でも、ハルならどうだろう? この誘拐ごっこを計画してここまで実行してきたハルなら、この先のこともなにか考えているんじゃないだろうか。ふと思い立ち、おれは寝ているピグを起こさないように静かに部屋を出てハルのもとへと向かった。
ハルももう寝てしまっているんじゃないかとは思わなかった。この時期は夜の蒸し暑さも半端じゃない。自分も経験しているから、窓を全開にしていてもなかなか寝付けないことを知っている。たぶん、ハルも蒸し暑さに舌打ちしながらまだ眠れずにいるだろう。なにか冷たい飲み物でも持っていってやりたかったけど、さすがに怪しまれそうでやめた。
フロントでマイク越しに「ちょっと荷物を取って来たい」と嘘をついて駐車場へと降りる。ホテル全体を照らすけばけばしい位の電飾とは対照的に、駐車場は薄暗く物静かだった。おれたちの車は、たしか一番奥に停めてあったはず。しかし、
「……あれ?」
停めてあったはずの場所に車はなかった。もしかしたら、記憶違いをしているのか?
だけど、念のために他の駐車スペースも見回ってみたけれど、見覚えのある車はどこにもなかった。ひと通り見てまわり、もう一回停めてあったはずの場所に戻ってきたとき、それを見つけた。駐車スペースの奥、縁石の上にそれはポツンを置いてあった。そこにあったのは、
「……なんだよ、これ? なにかの、冗談だろ?」
真新しい百万円の束と、ハルの字で走り書きされた「good-by、Gangs」というメモ書きだった。
その夜、おれたちを残してハルは忽然と姿を消していた。
6、ハル・レイジアンドファイアフラワー
まったくよぉ、ムカツク話じゃねえか?
結局、最後までオレたちはアイツのいい様に踊らされてたってわけだ。
ハルが姿を眩ましたあと、オレたちは急に力がぬけちまって、手元に残された百万を均等に振り分けてそのままその場で解散した。そのあと、オレは持ち金がなくなるまで放浪して身体の中に言いようのないむなしさを蓄え、結局はもといた街へと帰ってきていた。他の連中がどこをどうほっつき歩いてたのかなんてオレは知らない。ただ、他の三人も夏休み前のもと居た場所にきれいに戻ったことは確かだ。二学期の始業式にみんなで顔を合わせたからな。
ただひとり、アイツだけは戻ってこなかった。
ちなみにオレたちが起こした誘拐事件は、警察が介入してすぐにバンビのじぃさまが彼女に対して行っていた性的虐待の事実が露呈して事件そのものがうやむやになっていた。大手企業の元会長がやらかした婦女暴行事件となりゃかなりのスクープだろう。まるで、誘拐事件なんか最初からなかったような扱いだ。自作自演説まで唱えるところさえあったのには笑ったけどな。
バンビもしばしば警察の事情聴取を受けているそうだが、その内容は誘拐事件のことより祖父とのこれまでの生活のことを聞かれるほうが多いという。
「ほんと、デリカシーがないっていうか、すごい露骨な聞き方するのよ。まったく、気が滅入っちゃうわ。もう取調べなんかウンザリ」
内容が内容だけに学校の全体集会でも軽く触れる程度にしか話題に上らなかった。いや、むしろもっと話さなければならない重大なことが起こったからだと言ったほうがいいな。
それは、オレたち高校生ギャング団が起こした誘拐事件よりも大手企業の元会長が起こした婦女暴行事件よりも大々的に報道された連続爆弾事件。五つの新聞社と出版社、民放六局に次々に小包を模した爆弾が送りつけられ、そのうち九つが爆発、負傷者を出した。
そして極めつけは神奈川県県庁の爆破銃撃事件。新庁舎の一階ロビーの椅子の下に置いてあったバッグが突如爆発した。ちょうど県議会の本会議で重要懸案が審議されていた最中で、その模様は一階ロビーのテレビにも映し出され、普段よりも多くの市民がその場に集まっていたという。ただ、爆弾そのものの威力は微々たるものでこの場では一人の怪我人もなかったらしい。……この場では。
ほんとうの惨劇が起こったのはこの爆発のわずか数分後だった。
多くの警備員や職員が爆発現場での処理に追われている隙を突いて、犯人は銃を手に本会議場へと乱入し、居並ぶ議員にむけて次々と発砲した。なんの躊躇も動揺もなく、いっさい無言なままに。
おまえさ、いくらなんでも映画の観すぎだよ。
もし生きて帰ってくることがあったなら笑いながらアイツに言ってやりたかった。バカがカッコつけすぎだ、ってな。
でも、県議会の本会議場を襲撃した犯人は、弾倉に入っている弾の数も把握していたのか、最後の一発を自分に向けて打ち込んだ。顔半分を覆ったバンダナの下、最初から爆弾でも咥えこんでいたのか、犯人の頭部はその一発で跡形もなく吹っ飛んじまってた。どこの誰だかも分からないくらいにな。
犯人はいったい誰だったのか。それは、いまだにわかっていない。けどな、残されたオレたち四人にはハッキリとわかったよ。
バカが、ほんとにカッコつけすぎだぜ。
爆弾といっしょに各社に送りつけた犯行声明文。『これは粛清だ』だの『悪は滅するのみ』だのキチガイ染みた文章が並べられた最後、本来なら自分の名前を記すだろう場所にはこう書かれていた。
『good-by、Gangs』
いろんな番組で、いろんなかたちで報道されてたからな。それは間違いない。
あいつの目的がなんだったか? そんなの、オレが知るかよ。
けど、わかる範囲で推察できることはあった。
三年前、神奈川県議会の副議長を勤めた人物に汚職事件の嫌疑が懸けられた。副議長は県議会の審議で叩かれ、さんざマスコミ連中に追い回されたあげく自殺。妻も道連れの心中だったらしい。しかも、事件そのものも完全な濡れ衣で、真相はいまだに明らかにはなっていないそうだ。濡れ衣が晴れてもこれじゃあな。
でもそんなことはどうでもいい。
問題なのはその自殺しちまった議員が誰なのかってことさ。
濡れ衣を着せられ、謂れのない揶揄を受け、さんざんに叩かれた末に自殺してしまった、その副議長の名前は森聖太郎。森晴之の、ハルのオヤジだった。
自分の両親を死に追いやった報道機関への報復。父親に濡れ衣を着せた何者かの存在。
そこから、この事件の動機を察するのはあまりに容易だ。
もっともそれは、ピグがひとりで調べて導き出したひとつの可能性に過ぎないけどな。
なあ、ハル。おまえ、ほんとにこれで満足だったか?
すげえ短かったけど、オレはおまえとすごした高校最後の夏休みが楽しかった。
またいつか、こんなバカ騒ぎを、おまえと組んでやらかしたかったぜ。
でも、死んじまったらそれもできねえじゃねえかよ。
おまえは、すげえヤツだけど、最高のバカだよ。ほんとに。
まあ、いまさらだけどな。
それに、あの犯人がおまえだって決まったわけじゃないし、もしかすりゃおまえはオレらからくすねた大金で遊びまわってるのかもしれないしな。
もし、またバカ騒ぎしたくなったら呼んでくれ。
じゃあ、またな。
‐了‐