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男装の軍人と若き将軍は恋に落ちるか?

作者: さまり

全年齢向け初投稿です。お手柔らかにどうぞ。

 煌々と燃え盛る野営地の炎を見つめながら、張玲は内心一人、ため息をこぼしていた。

 —…ここまでやってきてしまった。

 張玲は歴とした士族の子女である。

 もうすぐ二十三歳を迎える年頃の彼女が、何故に男所帯の軍の野営地にいるのかといえば、ちょっとした事情を抱えているためだ。兄である張清が、流行り病に罹ったせいで、出征出来なくなったのである。

 高齢の父が代理で出征するかもめたのだが、父である張氏は十年以上前の戦で長年仕えた将軍の死と共に領地へと退いて久しい。これでは名家の名折れだ何だと、騒ぎ立てる連中を尻目に、張玲は誰にも何も言わずに、その晩のうちに兄の愛馬を駆って戦場へとやってきた。文句をいう人間は、言うだけ言って何かしてくれるわけではない。

 家を出て隊列に加わり早数週間が過ぎるが、今や生家は大騒ぎになっていることだろう。だが、今更背に腹は代えられない。勢いだけで飛び出してきてしまったがゆえに、ここがどこを見渡しても男所帯だということを実感し、今更ながらに、足がすくんだ。膝を抱えて振る舞われる酒をちびちびと口に含んでいると、気安い腕に肩を抱かれる。


「張清と言ったな。どこの出身だ?」

「安邑の生まれです」


 そこは偽りなく答えるべきだろうと、張玲は短く答えた。それほど高くはない声だからか、あるいはぶっきらぼうな返しにか、男たちが特に聞き咎めることはなかった。


「安邑の張氏か!」

「父上の武勇は聞き及んでいる。長年蛮勇を誇った禁軍左将軍の(つはもの)であられたとか」

「ああ、はい。まあ…」

「歯切れの悪い返事よな。もっと飲め!」

「気恥ずかしいのよ。察してやれ」

「貴公、張氏の倅か?!」

「それにしてもひょろいな、やたらと賢い小僧とは聞いておったが」

「女のような顔をしておる」


 女ですよ。と冗談交じりでも言えずに、じろじろと、不躾な視線に晒されながら、張玲は背筋を強張らせた。しかし、ここで挙動不審になっては出鼻を挫かれる。


「あー…いえ、私は別に。私には双子の妹がいるのですが、だからでしょうね。そっくりなんです!」

「双子なのか」

「美人か?ってお前と同じ顔か!」

「ふーむ。目を細めてみれば美女やもしれぬな」


 —…あれ? うそでしょ。乗ってきた。

 ほんの少しばかり虚を突かれて、張玲は笑顔で頷いた。こうなったら自虐ネタである。


「見合いの話も断ってばかりで、詩文はうまいんですが、楽器をやらせたらてんでダメで…いい貰い手はないですかね?」

「楽器だめなのか、でも詩文上手いなら才能あるなあ」

「まあ、美女であれば問題なかろう」

「いくつなんだ?」

「今年で二十三歳になります」

「うーん、うちの子、この間七つになったばかりだしなあ…」


 —…七つ!育て甲斐はありそうだけど、それは物凄い年の差婚。

 むろん却下である。


「あ、あいつは?若の側近の郭櫂は?」

「あいつ結婚してなかったっけ? いっそ若はどうだろう」

「若は結婚する気ないだろー、お城の侍女(おねえさま)方と楽しんでる方が気楽だって方だよ」


 若—…というのは、この七千の兵を野に率いている黄家の若君こと、黄梁のことである。彼の数代前の当主から国に仕え、国王からの覚えめでたく、若くして将軍の地位を拝領する傑物だとか。

 張玲は、実際に彼の姿を目にしたことはないのだが、様々な逸話が、世の中を渡り歩いている。一つ枠におさまらぬ神童やら、軍略に長けた智将だとか、城の美女たちを何人相手にしただとか、それこそ武勲の話から、下世話な話までさまざまだ。


「なになに? 俺がなんだって?」

「若!」

「黄梁さま!」


 ひょい、と顔を覗かせたのは、鳶色の髪をした柔和な表情の優男であった。目元にある泣き黒子がどことなく不思議な色気を添えている。鎧の上から女ものの派手な打掛を纏っているせいで、男ということを一瞬ばかり忘れてしまいそうになる。商家出身の放蕩息子だと言われても違和感はないが、顔に似合わずがっしりとした体躯がひどく不釣り合いだった。

 惹きつけられずにはいられない風体の人、であった。

 周囲から上がる雄叫びのような野太い悲鳴に、この男が黄梁だと理解するのに、そう時間はかからなかった。そして何の因果か、柔和な笑みを携えた男は、こともあろうに張玲の横に腰を下ろした。屈強な男に肩を抱かれたままだった彼女は、盃を持ったまま暫しの間固まった。おそらく普通は拱手くらいはするものだろう。


「見ない顔だな、新入りかい?」

「こいつ、安邑張氏のせがれの、張清ですよ。若」

「張清と申します。拱手もせずご無礼を…」


 気を悪くしていないかと一言詫びれば、黄梁は鷹揚に首を振った。


「いいよ、俺そういう堅苦しいの好きじゃないからさ。はじめまして。俺が隊長の黄梁。我が部隊へようこそ」


 空の盃を差し出されて、酌をすると、彼は笑顔で張玲の盃にも酒を注ぐ。嫌な予感しかしない—…張玲は、目の前で微笑む男に反射的に笑みを返した。盃を合わせたところで、手荒い歓迎が始まった。

 一気に飲み干し、次の酒を注ぐ—…またそれを飲み干し、次の酒を注ぐ。昔、父親が家でそうやって若い武将を歓迎する姿を見たことがある。ここで潰れてしまえば可愛いものなのだが、もともと負けず嫌いの張玲は、盃を引っ込めることなく受け続けた。これを仕掛けた黄梁もまた然り。

 それを数十回ほど繰り返したところで酒が切れ、どよめきが起こりつつも引き分けとなった。ほんのり、張玲は目元を赤くするが、それでもまったくふらつく気配がない。もともと酒にはめっぽう強いのだ。それに気をよくしたのか、黄梁は、ひどく愉快そうに笑った。


「気骨がある」

「…はあ、」


 それはどうも、というのもなんだか違う心地がして、張玲は、言葉を濁しながら視線で応じる。


「ああ、その“ちょっと状況よくわからないけど、とりあえず返事をしておこう”って感じも、悪くない」


 これには、首をかしげざるを得ない。

 張玲がほんの少し眉根を寄せたところで、黄梁は一つ笑って、周辺の男たちと談笑し始めた。有難いことに、今晩はもう、張玲に構う気はないらしい。傍らの会話から察するに、明日からの隊の動きを伝えに来た様子だった。

 大規模な戦闘が行われている間の期間には、大遠征でもない限りは少しずつ領土の拡張に手を付けているというのが現状である。今回の出征も、その一つにすぎず、大規模な戦というわけではないのだ。一つ一つの城取りが国土の侵略と拡張に非常に大きな役割を果たす。


「今回はまた厄介な城でね。我が国の要塞というほどではないけれど、小規模ながら外からの攻めにはめっぽう強い」

「若、籠城すれば何日持ちそうですか」

「完璧な備蓄があればふた月くらいだろうが、そう悠長にも構えていられない」

「…なるほど」

「城門が開く時間も定刻で決まっている」


 張玲は軍略に明るいわけではなかったが、攻守ともにどのような戦闘を繰り広げるのか。自分ならどう、この戦の全容を創造するのかぼんやりと思い描いてみた。難攻不落と言われてしまえば、外側から落とすのは困難を極めるのではないか。ならば、どうするか—…。

 兵糧を奪うか、それとも…それとも、真っ向勝負で攻め上げるのか。


「おや、何か言いたそうな顔をしてるね」


 不意に黙り込んだ張玲に、黄梁が問いかけてくる。ほんの少し歯切れ悪く、張玲は答えた。


「ちょっとばかり、酔いが回りまして」


 無遠慮にも中座を申し出た張玲を咎める声はなかった。





**




 翌日の朝、偵察を兼ねた先遣隊—…として、十五人が各国を渡り歩く商人に扮し城下町へと放り込まれた。張玲も、昨晩隣に座っていた恰幅の良い男に連れられ、下男のふりをしながら街の様子を伺った。

 情報収集には、人に溶け込むことが上手い者たちが選別され、町の飲食店などにふらりと立ち寄りながら、中の人々へ城の様子の探りを入れる。城主はどんな人物なのか、好みの酒、食べ物、女、聞き分けるのは様々だった。

 大抵の人間は、商売の種になりそうなことを探っているのかと快く情報を教えてくれる。街の様子がそれほど活気づいていないのに安定している雰囲気がするし、治安の悪い雰囲気も受けない。にもかかわらず、若い女の数が異様に少ないのだ。

 立ち入った食堂でも、若い男は多い様子だったが、どうも釈然としないのだった。張玲たちが余所者と見るや、警戒してあまり会話をしないのか、終始不気味なほど食堂の中は静まり返っていた。


「気づいたか?」


 傍らに立っていた男が、張玲にそっと耳打ちする。彼女は頷いた。


「女の数が少ない。かといって、栄えていない感じもしないが、人の顔に緊張感がある」

「戦乱の世の中だからだろ?」

「そうなのかな」


 周囲を見渡せば、確かに、女の数は圧倒的に少なそうだった。母が恋しいのだろうか、男の腕に「おっかあ」と言って抱き着く子供の姿も見られた。その表情の無邪気さに、胸の奥が疼く。

 結婚が嫌だ、と拒んでいたくせに、ああいった親子の情にはめっぽう弱いのだ。


「税が多いってわけでもないようだが、」

「みな従軍しているとか? それか、城の中にいるとか」


 思いつくものは、何か賦役を課されているか、徴税されるか。様々だった。


「いや、それにしても極端だろう。この規模の城で、それはないだろう」

「うん、」

「だが酷吏だという噂もなかったな」


 徴税が厳しいだとか、私腹を肥やしているだとかそういった噂は、自然と広まるものだがそういった様子もない。しかしながら驚くほどの活気のなさ。どこか妙な緊張感を孕んでいる。頷きながら、頭を捻ったところで答えは出なかった。

 城門が定刻に閉まるというので、二人は結局、そのまま城の外に出て元いた野営地に戻ろうと歩き始めた。大きな門を潜り終えて山道を歩きながら、張玲はふと背後を顧みる。


「こんなに早く門が閉まることもなんだか気になる。こっちでは普通?」

「普通ではないだろうなあ」

「…城主は、猜疑心が強いのかな」

「勘がいいな。こんなに早く門を閉じる奴は往々にしてそういう野郎だ」

「ふうん」


 どこか釈然としない思いを抱いて頷きながら、野営地手前の合流地点で味方の数名と落ち合った。帰りもきちんと十五人、揃っている。

 報告を兼ねて、中央に張られた天幕に集合した彼らは、それぞれが持ち寄った情報を整理しながら話が進められた。こういった情報の整備の仕方は珍しい。

 情報の一極集中、あるいは必要な情報のみかいつまんで聞きたがる将は多いが、黄梁の場合、情報を精査するよりも、あらゆる角度から整理することを好むため、この方法がとられた。


「街の様子は?」

「のどかなもんですね。あちらも戦続きで少し緊張感があるようでしたが…」


 街の見取り図を盤上に示しながら、偵察部隊の一人は呻いた。


「宿は少なく、行商の姿も少なかった」

「旅芸人の一座もなかったな」

「道楽の類は少なそうだった。取り締まられているという話は聞かないが、すぐに城に召されて一晩宴に参加させられるらしい」

「召されてどうこうってわけでもないらしい。周辺諸国の国の様子を聞いたら城主はすぐに離席するそうだ」


 東西南北、町中の様子を観察して、一致したのはこの結論だった。


「やたらと男の数が多い」

「若い女の数が少ない」


 ここまで報告される内容を整備しながら、黄梁は進軍を完全に渋っている様子だった。策があるのか否か、その場にいた誰もが一挙一動を見守る中、彼は重ねて問う。


「…兵士はどれくらいいるのかわかるか?」

「兵の数は少なかったですね。一城の相場が五千とすると、あの様子だと一千…」

「すごく機敏な連中だったら梃子摺りますね」


 そこまで話す男たちを尻目に、張玲は脳裏に閃くものがあった。


—…女より男の数が多い街

—…なのに、兵士の数は少なく

—…周辺諸国の様子を聞いて返される旅芸人

—…男の腕に、母の名を呼んで縋った子供

—…緊張感の走る街

—…早く閉じられる門


「おい、張清。大丈夫か?」


 隣で張玲の肩をゆする男に、思わず彼女は首を振った。


「違う…この街、男が多いんじゃなくて、女が多いんだ」

「はあ?」


 何を馬鹿な、と表情を歪める男の肩を掴んで言い募った。


「女より男の数が多いんじゃない。女がみな、男装してるんだ」

「はあ?」

「見ただろ、あの食堂の感じ、あれは喋りはじめたら女だってすぐに割れるからだ」

「じゃあ、子供が若いあんちゃんにおっかあって言ってたのも…」

「そうだよ。きっと本当の母君だから、だとすれば辻褄が合う。城門を早く閉じるのは—…」


 引き継ぐように、凛とした声が響いた。


「そうか、城門を早く閉じるのは、ほとんど女しかいないから、万全の安全策をとるため、か」

「あくまで、仮説だけど…」


 控えめに添えた張玲の一言を、黄梁は一笑したりはしなかった。それどころか、真剣に耳を傾けはじめた。


「そうすると、どう攻めるのが良いと思う?」

「えっ、いや…私は、軍師でもないのに…」

「十五人送って、気づいたのは君だ。あくまで意見を聞かせてくれないか」


 思ってもみなかった反応とその勢いに、たじろいでしまう。

 だが、射抜くようなその真剣な眼に、張玲は背を引きたくなる思いをぐっと堪えて切り出した。


「開城を促す文か、使者を送れば…。あるいは聞き届けていただけるやも、しれません」

「城主が使者を切り伏せたら?」

「城の四方を取り囲んで…否、帯剣できない場所に来ていただく…とか」

「さすがにそこまで策はない?」

「あ、はい。すみません、思い付きで…」

「相手が応じてくれそうだと思う根拠は?」

「女性を安全のために、男装させていたなら、聞き分けてくださるのではないかと。あとは、その…勘です!」


 ぐっと目を瞑って言い放つと、どっと周辺から笑いが起こった。

 無理もない、あれだけ理にかなったことを列挙して周囲を圧倒しておきながら、その根拠がただの勘である。あまりのことに、黄梁も肩を震わせながら、笑った。

 笑うことないでしょうが!と思わず言い縋りたくなる気分をぐっと堪えて、張玲は居住まいをただす。


「筆と竹簡をもて、親書を書こう」




**




 数日後、張玲の姿は楚の城門の上にあった。

 城内は、数千の兵が闊歩するが、その表情は明るい。黄梁の親書を送り届けたのち、無血開城に成功したのだ。

 互いの国境を隔てたあちらの国の北端にあって、こちらから言えば南側から見渡せる広大な森を含めた領地は、たった一人の女の領主が治めていた。夫である城主が死した後から数十年の長きにわたって領地を支えていた。度重なる戦争で男手を取られ、女が蹂躙されて死んでいくことを見ていられず、城内の門を夕刻前に閉めることや、女たちに男と偽らせて街に遺していたのも彼女の策であるという。

 何人たりとも女子供に手出しはさせないと誓ったうえでの無血開城—…本国での、黄梁の評価は十分なほどに高まっただろう。黄梁は半数の兵をこの城に残した上で、残りは王都に戻り国王への報告を済ませることが決まっていた。ほぼ半分が、この城で解散となる。

 張玲も例にもれず、ここから一路実家へと戻ることを決めていたため、既に荷造りは済ませていた。あとは、夜明けと共にやってくる開門を待つだけだった。


「宴にいないと思ったら、ここにいたのかい」

「あっ、黄梁さま」


 ふらりとやってきた黄梁に、張玲は目を丸くした。

 おもむろに、隣に腰を下ろした黄梁に、ほんの少しだけ距離を取るように後ずさりながら、問いかける。


「宴は、いいのですか?」

「後はみな、適当にやるだろ。俺がいない方が後のことは盛り上がるって」


 確かに、指揮官がずっと側にいたのでは気も休まらないかもしれない。が。

 相変わらず、柔和な表情で何を考えているのか分からないような顔をする。実態を掴ませない、煙のような男だ。

 張玲からしてみれば、彼に意思を持って近づこうとする女たちの気が知れない。やはり、あの柔らかな物腰に惹かれるのだろうか。好いた男からは優しくされたいというのが女の常だ。たとえそれが、身の内を通り過ぎていく一時のものであろうとも。そしてこの男も、それが分かっていて、女たちにそういう上澄みの喜びを与えているのかもしれない。鳶色の髪が、はらりと落ちるのを見つめながら、張玲はぼんやりと愚にもつかないことを考えていた。


「張清といったね」


 呼び止める声は、相変わらず落ち着き払っている。


「あ、はい」

「明日、領地に戻ると聞いた。これを機に軍に残る気はないのかい?」

「はい」

「はっきり言ってくれるなあ…」


 居住まいをただすどころか、片膝を抱えながら、張玲は笑った。初日の頃とは打って変わった、穏やかな笑顔だった。


「家族が心配なもので」

「なるほどね、でも戻ってからまた復帰はできるじゃない」


 戻ってこないかという思わぬ提案に、張玲は顔を顰めた。


「なんでそこまでして?」

「そうだなあ、勘がよくて、機転も利く兵というのはなかなかいないし。それに…」

「それに?」

「張清むさ苦しくないじゃない?」


 ぐっと顔を近づけられて、一瞬ばかり呼吸が止まる。女ものの打掛を羽織っていても、この距離になれば嫌でもわかる。やはり、黄梁は武人だ。

 輪郭の線がまろやかだというだけで、あとはどこもかしこも男の匂いがする—…実際のところは、香を焚いているのか白檀の香りがほんのりと漂うだけなのだが。それでも、張玲の心を引っ掻くような、不用意な感傷と警戒心を植え付けるには十分だった。


「俺はソッチの気はないけど、なんだかクラっと来るという奴がいるのもわかるなあ」

「ゲッ」


 これには思わずはしたない声を上げてしまう。明らかに一歩引いた張玲の様子に、黄梁の方が慌てるのだった。


「嘘だよ嘘!冗談です。冗談!」

「嘘に聞こえませんでしたが!」

「ある意味光栄…、じゃなくて。まあそういうことだよ。今回の無血開城はうちの手柄だ。そしてその立役者は君だった」

「でも、親書を書かれて実行されたのは、黄梁さまです」

「まあそうだけど、それは俺の仕事だもの。出来なきゃ将じゃないでしょう」

「それもそうですが…」

「俺は自分の幕僚に君を欲しいって言ってるのになあ。勘はいいくせにこういうところが鈍いねー、女の子口説く方がよっぽど上手くいく気がする」


 苦笑する黄梁に、張玲は力なく首を振った。


「私には、とても務まりません。折角ですが…お受けすることはできません」

「うん…。なんとなく、意志は固いという気はしていた」

「ご意向に添えず、申し訳ございません」

「あまり謝られると傷つくな」


 頬を掻いた黄梁に、張玲は思わず口元に手を当てて笑いそうになるのをぐっと堪えた。女らしい仕草をなるべく見せぬように、押し黙った。


「領地に戻って、どうするんだい? 田畑でも耕すの?」

「まあ、父親の補佐でしょうか。詩文を嗜んで、へたくそな琵琶でも弾きますよ」

「詩文を嗜むのか。いい趣味だね」


 戦に明け暮れている人々にとっては、あまり興味のない者も多い詩歌だが、一部の士族たちには広く嗜まれていた高貴な趣味である。首をかしげる張玲へ、黄梁は懐から小さな筒を取り出して捧げ持つ。


「これをあげる。今回の褒美にしては値打ちはそれほど高くないけど」

「えっ、受け取れません」

「いいのいいの、詩文作るんでしょ。使ってよ」


 改まった様子で恭しく張玲の掌に有無を言わさず押し込められる。彼女はその中身を確かめるように、そっと筒を開くと、中から一本の筆が飛び出した。普段、人々が使用するものよりも丁寧に漆の塗られた美しい筆だった。


「すごい、綺麗」


 宝石を眺める少女のように、張玲は目を輝かせる。朝日が昇ろうとしている。地平線から昇る黄金色の光が、闇を抱いている空の方々を染めていく。その光を抱くように、大事そうに筆を筒に戻して、張玲は笑った。


「黄梁さま、ありがとうございます」




**




 王都は快晴だった。

 文官として戦後処理を対応する黄梁の弟である黄天は、無傷で帰還した兵の数に単純に驚いたものの、帰還した兄の様子を単純に心配していた。

 王への報告を終え、黄梁といえば、心此処に在らずという言葉がまさしくしっくりとなじむほど、どこか空を掻くような生活を送っていた。いつもはあまり、ぼんやりとしている印象のない彼が、牧草を食む牛のようにのんびりと、悪く言えばぐうたらとしている。要するに腑抜けているのだった。


「兄上、どうしたのです? らしくないではありませんか」

「らしくない?いつも通りだ」

「いつも通り?いつも楽しんでいらっしゃる夜遊びもせず、どうなさいました?」


 黄天の容赦のない一言に、黄梁は肩を落として苦い笑みを浮かべてみせる。


「お前、言うようになったな…」

「檄ですよ、檄。これを皮切りに南を攻められるのでしょうから、」

「その前に西だよ」


 南側の城を無血開城した一件から、もう二か月が過ぎようとしているが、どこか呆然としたままなのには理由があった。

 別れ際が良くなかった。

 青い空を割るような光を浴びた、振り向きざまの笑顔—…頭の奥に、こびりついて離れない残像に、黄梁は呻いた。女といっても差し支えないだろう線の細い横顔がまろやかな陰影を際立たせる。そのうえ、近づいた瞬間に分かった。余分な匂いがしないのだ。

 相手を心底愛したいと思うことはあまりなかったが、短い間に互いの求める隙間を埋めあうことは得てしてあった。女という存在は、男の荒んだ魂を癒してくれ、生きることに潤いをくれる。だが、そのどれともつかない不思議な存在に、心かき乱されている己がいることに気が付いたのだ。

 文官用の御簾で仕切られた簡易的な執務室に据えられている長椅子でぐうたらと横になっている姿に、黄天は苦笑しながらも話を続けた。


「それにしても、無血開城の一件には感服いたしました」

「あれは、ちょっとした理由があって…」


 言いかけた黄梁は、御簾越しに聞こえてきた文官たちのはしゃいだ様子におや、と首をかしげる。


「良く戻ってきたな!」

「お前、流行り病だったんだろう。よかったな、無事で…」

「なんとか…。家族には迷惑をかけてしまって」

「いや、お前が戻ってきてよかったよ。張清」


 聞こえてきた名前に、思わず黄梁は眉根を寄せた。同姓同名の人間など、いくらでもいるだろう—…が。急に足を止めた兄の姿に、黄天は気を利かせて教えてくれる。


「ああ、彼、文官の張清ですよ。剣の腕もそこそこで…。この間まで流行り病にかかって伏せていたんです。快癒したようで、一昨日ようやく領地から戻ってきたんですよ」


 黄天とは、どうやら顔見知りであるらしい。御簾から顔を出して呼び掛けて手を振り合っている様子から見ても、親しい間柄のようだ。


「黄天殿、これは久しく…そちらは?」

「兄上だよ」

「黄梁将軍でいらっしゃいましたか。張清と申します」


 拱手し起礼する男の年のころは黄天と同じくらいだが、その顔を見てはっとする。目の前の男の方が幾分か厳ついが—…似ている。


「失礼、貴殿の生まれは?」

「安邑ですが…」

「父上は禁軍左将軍の兵でいらした?安邑張氏か?」

「え、ええ…」


 これには張清の方が、どことなく気まずそうな表情になる。思い当たる節でもあるのだろう。すべて憶測でしかないことだが、もしやという思いが黄梁の胸に過る。


「似ているって言われる兄弟はいるかい?」

「双子の妹が一人、おりますが…」


 にこやかな笑顔で、黄梁は問いかけた。


「その妹君、どこにおられる?」





**





 一週間ほど前から、邸はにわかに騒がしかった。

 父である張氏に大事な客人があるとかないとか、侍女たちが噂をしていたものの、張玲が問いかけても一切詳細は教えてはくれなかった。

 無理もない。張玲が黙って戦に行ったせいで、邸の中は意気消沈—…毎日が通夜のようであったらしい。

 あの無謀を絵に描いたような蛮勇を誇った父ですら、先祖の祭壇に毎日張玲の無事を祈っていたというのだから、親不孝は出来ないものだ。無傷で帰ってきたことに泣いて喜ばれた。

 馬で遠出をすることも禁じられ、ほとんど軟禁状態にあるが、要するにおとなしくしていろということなのだろう。

 しかしながら、家で大人しくしていたところで、詩歌を詠むにも限度がある。その上弦楽器も笛も一向に上手くなる気配はない。また琵琶の弦を三本折ったが、これについてはもはや咎められることはなかった。家にいてくれる方がマシ、ということらしい。


「今日は父上にお客様なのでしょ?」

「もしかしたら、ご挨拶される瞬間もあるやもしれませぬ!」

「えーっ、これ着るの?」

「つべこべ言ってないで、お召し変えを」

「容赦ないよー…」


 朝から侍女たちが張玲に何を着せるか悩んでいた様子だったが、いつもよりも数段仕立ての良い着物を羽織らされ、張玲は素直に戸惑っていた。


「まさか見合いじゃないわよね」

「お嬢様をもらってくださる殿方がいらっしゃれば、わたくしども侍女たちは平伏して歓迎いたしますわ」

「…あーうん…。私にとっても信用ないって事がわかった」


 薄く化粧を施され、髪を結われたところでくるりと一周回って見せる。


「張玲さまは黙っていらっしゃれば宮女になられる器量ですのに」

「それって無理じゃないかなあ」

「そういった気安いところは、宮女には向いていないのでしょうね」


 応えながら、到着したのだろう客人をもてなしに戻っていく侍女たちを見送り、自分は読みかけの書物を取りに書庫へと向かう。読んでいる途中だった書物を傍らに、卓上に置かれたままの筆をそっと手にとる。

 普段使っている筆よりも、滑らかで書きやすく、墨をたっぷり含ませなくても字が躍るように書けた。


 そして—…この筆を見るたびに、不意打ちのように黄梁のことを思い出してしまう。

 君を幕僚に欲しいと言われた時は、正直なところ、胸の奥が疼いた。張玲が武将の道を志すのならばこれ以上にない口説き文句だろう。それと同時に、彼の腕に抱かれる女たちを馬鹿にしながらも、きっと悉く嫉妬するのだと思う。我ながら矛盾している。

 男の身では側にはいられないと突き放しておきながら、女の身で一回でも口説かれてみたかった、だなんて、とんだ自己矛盾だ。

 あの読めない笑みの向こうに、一体何を隠し持っているのか知りたくてたまらない。相手は国を代表する若手の武将だ。とんでもない相手に心を奪われてしまったものだ。筆を箱に戻し、ごろりと寝そべった。髪型が崩れることも厭わずに、横になる。

 不意に、見知った香りが鼻先を掠めて、急に意識が鮮明になる。なぜ—…、身を起こすよりも早く、大きな影が視界を過った。


「えっ、どうして…黄梁さま?」


 なぜ、彼が安邑の張氏の邸に居るのか、全く予測のつかない事態に、張玲は目を丸くした。目を丸くするだけには留まらず、口もわずかに半開きになっている。


「本当はおなご、だったんだね」


 咎める響きはなかったが、叱責されているようにも感じ、張玲は身を起こして静かに首を垂れた。傍らに、膝をつく気配に、張玲は覚悟を決めて目を閉じた。


「申し開きもございません…。兄と偽り入隊し、軍の風紀を乱しましたこと、深くお詫びを…」

「謝罪はよしてくれ。別に今日は咎めにやってきたわけじゃない。真相を知りたかったから来ただけだ」

「黄梁さま…」


 顔を上げるように促され、しっかりと袍を纏っている黄梁の姿に、張玲は目を瞠った。


「おいで、少し話そう」


 手を引かれ、控えていた侍女に渡された靴を履き、邸の裏手にある庭園を歩きながら、張玲はどこか落ち着かない心地だった。逃げられないように手を掴まれていることもそうだが、自分が想像していた姿とはまた違った装いに身体の奥が重くなる。


「どうしてここに?」


 問いかければ、ゆったりとした笑い声が響いた。


「偶然、君の兄上に宮中で会ってね。驚いたよ、安邑の張清だというから、君の父上のもとに挨拶もかねて」

「…それで堂々とそんな恰好で邸の中に」

「惚れ直したかい?」


 微笑む声が、無邪気に心の奥を引っ掻いていく。呼応するように溜息をこぼすと、喉の奥で笑う気配がした。


「ため息ばかりで君の今日は、憂い顔ばかりだな」

「もう、会わないかと思っていました」

「なぜ?」

「だって…私、男じゃないですし。ただ兄の代わりに戦場に出ただけで、領地に戻ったらもう、会うことはないかなって」

「俺が探し出すとは考えなかった?」

「ちっとも」

「随分な言われようだな…」


 ため息交じりに天を仰ぐ黄梁に、張玲は困ったように眉を下げた。


「男ではなくて、がっかりされましたか?」

「いや、むしろ、ちょっとほっとしていた」

「どうして?」


 振り返った黄梁が、張玲の頬の輪郭をなぞるように撫でた。その視線の甘さに耐えきれず、張玲は視線を逸らす。その拍子に、指先が頬の柔らかさに沈む。黄梁にしてみれば、その喉元を抑えて、力を籠めれば折れてしまうのではないかと思える細い首筋がわずかに震える。


「しばらく、そっちの気があるんじゃないかと、ちょっと不安になったものでね。あははは」

「はい?」

「君のことが忘れられなかったってこと、」

「この…女ったらし」

「まあ、否定はしないけど」


 困ったように頬を掻く黄梁は、張玲に問うてくる。


「本当の名前は?」

「張玲」


 短く応えた張玲に、彼はほんの少し屈んで視線を合わせてくれる。


「では、張玲…無茶を承知で申し上げる。妻になっていただけないだろうか」

「うわぁっ、ダメダメ、無理です」


 遮るように声を上げた張玲に、むくれるのは黄梁の方だった。


「早っ。ねえ、判断早くない?もうちょっと考えても良かったんじゃないの?」

「えー…だって。私、もうちょっと、お互いのことを知りたいといいますか。いきなりは無理ですって!」


 慌てて声を上げた言葉尻を捕らえ、黄梁は嫣然と笑って見せる。


「いいよ。元より長期戦は覚悟の上だ。存外しつこい性分だからね、覚悟しておくように」


 不意を突かれて胸が疼く。

 もう、己の中でも答えは見えているはずなのに、時間が欲しいなど、ただの言い訳だ。そんなことすら見透かしたように、黄梁の指先は、張玲を逃すまいとその唇をなぞるように辿る。

 宣戦布告するように、彼は囁いた。


「言ったろ?おなごを口説く方が、幕僚を誘致するよりも上手くいく気がする、って」







おしまい

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