天使と死神58
空を覆い尽くしていた光の川も、徐々にその幅を狭めていく。地上に降り注いでいた光も細やかな線となり、キラキラと空に消えていった。
悪魔の被害に遭った人々のケアも済んだのか、倒れていた人々も起き上がり、何があったのか分からないでいる様子だ。
「これ、誤魔化せるか?」
「これ程、広範囲となると…」
皆が同じ時間、それも集団で倒れていたのだ、人々が混乱するのも原因を探ろうとするのも当然だ。記憶を操作する事も可能だが、死神の力で一人一人記憶を奪っていては、時間がかかり過ぎる。
かといって、この不思議な体験を植えつけたまま、人々を日常に戻すのも得策ではない。まさか、悪魔や神様が関わる事態に巻き込まれていたとは思わないだろうが、八重のように見える人間というのも稀にいるのだ。
それに、もしかしたらこの体験を機に人ではない者が見えるようになったり、今回の騒動を信憑性を持って触れ回る人間も現れるかもしれない。見えなくとも、抱えた不安が新たな問題を引き起こす事だってあるだろう。悪魔は人の心を欲する、これを引き金として、どこに手を回してくるか分からない。
悩んでいる間も時間は過ぎていく、意識を取り戻した人々が、不思議を抱えたまま日常に戻ってしまう。
他の死神や天使も集まり、どうすべきかとフウガ達は頭を悩ませていたが、事は思いの外、簡単に解決した。
空に消えかけた光の川が、消える直前、一瞬の閃光を放った。その瞬間、人々は、町は、時を止めた。数秒もない一瞬の事。その一拍後、何事もなく人々は日常の続きを始めた。
その顔からは、不思議や戸惑いが消え、倒れていた事など忘れてしまっているかのようだ。
「え?何が起きたんだ?」
「神様が、人々の記憶を消したのでしょう」
「マジかよ…何でもありだな…」
ぽかんとしてアリアは呟いたが、それでも解決は解決だ。これで一先ず安心だと、死神達はそれぞれ停めた愛車に、天使達は、問題なく町が日常を取り戻せているか、取りこぼされた人間はいないか、地形の変化のあった場所の修正にかかる時間の目安はと、町の状況を確認してから支部に戻るようだ。
アリアとフウガは、一度病院に戻ることにした。取り戻した夜空は静かに星を瞬かせ、町を見守るように、月が丸く夜を照らしている。
「しかし凄いな。皆、何で倒れてたのかも気にならないんだな」
「これだけ力が有り余っていながら、力がないとは良く言えたものですね」
「神様も、自分を追い込んじゃったんじゃない?これも愛の力だね」
それでは、あなたのあの力は?と、フウガは疑問が喉まで出かかったが、聞く事は出来なかった。愛がどうこうではなく、あの別人のようなアリアの力が何か分かってしまったら、今のアリアが消えてしまうような気がして、恐怖にも似た感情が渦巻くのを感じたからだ。
それは、強力な力を目の当たりにしたからか、呑気にだらけるばかりの、それなのに、誰かを信じる事が出来る、自分の知るアリアが、別人になってしまいそうで、手の届かない場所にいってしまいそうで、気持ちがざわざわとしてしまう。
「あ!狸もどき!」
不意に、アリアが地上に向かって声を上げた。その視線の先を追いかけると、病院の屋上に、赤い羽織がひらひらと動いているのが見える。
「あいつも、無事だったんだな」
ほっとしたように呟くアリアに、フウガはそっと眉を下げた。
今は、余計な事を考えるのはよそう。今のアリアは、自分のよく知るアリアだ。
フウガはそう自分を励ますと、落ち着かない気持ちを無理矢理押し込め、病院の屋上へと向かった。
空から病院の屋上に降りると、アリアもフウガの背中から降りた。
月の下に浮かぶ死神の車の側には、神様の姿がある。力を使い果たしたのか、それとも無理に引き出したからか、神様は子供の姿に戻っていた。それでも、見える表情からは、どこか吹っ切れたような様子が窺えた。
八重と、どんな話をしているのだろうと、アリアはぼんやりと二人を見上げた。何十年と、その瞳に映ることがなかったのだ、一方的なお喋りはどんなに寂しかっただろう。お互い、そこにいると分かっているのに、声も温度も届かない、それでも気持ちは繋がっていた。
今生で別れてしまえば、天界では転生の準備が始まる。記憶はリセットされ、八重は八重でなくなり、神様も彼女だと気づけないかもしれない。
神様は少年の姿で、涙を必死に飲み込んで、精一杯、笑顔を見せた。
「この次も…いい人生を。あなたの事を思っているよ、いつだって私はあなたを思っているから」
転生しても、この思いは届く。八重の幸せを、ずっと願っている。
八重は柔らかに微笑み、堪えきれず流れた神様の涙を、その指で掬った。
「…私はあなたに出会えて、とても幸せでした。とても…」
その手を最後に握りしめ、神様は祈るように額を寄せた。
「ありがとう…」
その一言では伝えきれない思いが、胸に詰まって声に出来ない。胸の内で、ごめんと謝罪を繰り返し、そのまま顔を上げられない神様に、八重はいつかのようにその額に口づけた。
「顔を上げて。大丈夫」
柔らかな声に、神様はそっと顔を上げた。八重の方が、神様みたいだ。きっと、この胸につかえてどうしようもない気持ちも、八重は分かっているのだろう。
それでも、突き放さず、こうして背中を押してくれる。いつだって、八重がここにいてくれた。その思いも思い出も、失われずここにある。それだけで、前を向いていける。
大丈夫、もう迷わない。八重の愛したこの町を、守っていく。
愛しいその微笑みに、神様は顔をくしゃくしゃにして頷いた。
どこまでも優しい温もりが、離れていく。
涙の一粒を胸に抱き、八重を乗せた車は、夜空の彼方へと消えていった。




