天使と死神54
*
遠ざかった悪魔の気配に、アリアは閉じかけていた瞼を起こした。
悪魔が意図した事なのかは分からないが、体を締めつける黒の動きが僅かに緩んだ。そして、数メートル先の光景に、アリアはその目を見開いた。
フウガに振りかざされるその長い指、広がる悪魔の翼、アリアの体を襲う黒の力が、その背中に向かっている事を知り、アリアは突き動かされるようにその腕を突き出した。フウガの目を覚まさせる為に、残っていた力はほぼ使ってしまった。悪魔が奪おうとしているのは、アリアの持つ力の核となる何かかもしれない、でも、それがこの体にあるのか、あったとしても、アリアはそれを扱えない。
アリアの感覚としては、もう力なんて残っていない。それなのに、まるで誰かに乗り移られたかのように、体が動いていた。胸の辺りの違和感が遠退く感覚、アリアはその手に空気を掴み、握り締めた。
「余所見してんなよ」
身体中、顔にまで浮き上がっていた傷跡が、一気に熱を帯びた気がした。だが、アリアはそれを、どこか他人事のように感じていた。起きているのに夢を見ているようなふわふわした感覚と、しっかりと地面を踏みしめている感覚の両方がない交ぜになっているような、妙な感覚だった。
アリアが握った拳に火花が散り、悪魔がはっとした様子で振り返る。猛スピードで迫り来る何かに悪魔は目を見開き、それが眼前でピタリと止ると、悪魔の髪が、わっと風に舞った。
「な、」
なんだ、と発せずに、悪魔は喉を震わせた。体は自由だ、それなのに、指先一つ動かす事が出来ない。瞳を大きく見開いたまま、悪魔は震える体の内側に気づいた。
「味を見たかったんだろ」
アリアの声が、いやに静かに響き、夜に木霊する。空気がピンと張りつめて、瞬き一つでもしてしまえば、限界まで引き伸ばされた糸が弾け、この夜が粉々になってしまうような、そんな危うい空気が目の前に横たわっていた。天界の者達の奮闘する声も、誰かの悲鳴も、遠い世界の出来事のようで。ここ一帯だけ、別の世界のような感覚だった。
そう思わせているのが、あのアリアなのだろうのか、フウガにはそれが信じられない思いだった。
アリアの頬にまで浮かんだ火傷のような傷が、緊迫を運ぶその眼差しに反して、熱く炎を滾らせているようだった。見慣れた気だるげな瞼も、呑気に笑う表情も、今の彼からは伝わってこない。
フウガはまるで別人のようなアリアの姿に、知らず内に息を飲む。これも、アリアの与える力によるものなのだろうか、限界を越えた先に現れた力は、アリアのものなのだろうか。
もしこれがアリアの本質だとするなら、アリアは本当に、ただの天使なのだろうか。
フウガが呆然とアリアを見つめていると、悪魔の体が、がくっと沈んだ。はっとして、フウガが悪魔に目を向けると、悪魔は地面に膝をつき、目を見開きながら胸元を両手で押さえていた。大きく開けた口は浅い呼吸を繰り返し、とても苦しそうだ。悪魔の胸元に目を向けると、そこに光が満ちているのが見える。とても柔らかな光だ、それは時折、七色に輝きを放ち、ガラスに木漏れ日が当たるようで、苦しみとは無縁の輝きに思えた。
アリアはどろりと肩から黒を滴らせながら、一歩、一歩と足を進める。もう悪魔の黒の縛りはないようだ。人々を襲う悪魔の手は、まだ空に蠢いている、悪魔は苦しみながらも、まだその力を緩めてはいない。
「アリア、」
フウガはアリアの名前を無意識に呟いた。悪魔の翼が大きく収縮するように羽ばたきを見せたが、アリアはそれを許さないとばかりに拳を更に強く握りしめる。悪魔の翼は震え上がるように強ばり、目の前に足を止めたアリアを、それでも勝ち気に見上げた。
「天使ごときが、ボクを消せると思うの?この程度じゃ、ボクの力はすぐに回復するよ。こんな縛りでは、ボクの足止めにもならない」
苦しい表情を浮かべながら、それでも強気の姿勢を崩さない悪魔に、アリアは一度空を見た後、口角を上げた。それにより、アリアの空気が和らぐのを感じて、フウガは戸惑いに目を瞬いた。




