天使と死神36
「八重…!」
その瞬間、ビリビリと広がる空気が波打つ感覚に、神様はしまったと思ったが、もう遅い。八重の手を掴むこの手は、子供のそれではなく、青年の姿のものに変わっていた。
八重よりも大きな手が、華奢なその手を掴むのを、八重だけが見えている。そして、驚いた彼女の瞳が徐々に力を失っていくのを、神様はその体を抱き留めながら呆然と見つめていた。やや遅れて、花火の打ち上がる音に紛れて、周囲に悲鳴が上がった。神様の突然解放されたその力に当てられ、周囲にいた人々が倒れてしまったからだ。
少年への嫉妬が焦りを呼び、不安と戦っていた心が大きく揺らいだ。その上で行動を起こしたからから、神様は無意識の内にその力を解放させてしまった。それは一瞬で、僅かなものだったが、それでもその力は、周囲の人々の、八重の意識を奪ってしまった。
救急車をと叫ぶ声に、腕の中でぐったりと瞳を閉じた八重を、神様ははっとして揺り起こす。八重、八重と名前を呼んで必死になる神様に、狸もどきは遅れて駆け寄り、神様の着物の袖を咥えて引っ張った。
「神様!彼らは気をやられただけです!ここは人間達に任せましょう!」
神様は気が動転している、もしまたここで誤って力を使うような事が起これば、人間達に更なる被害が及ぶ。そうなれば、気を失うだけでは済まない者が出かねない。
それから間もなく、神使達も神様の力に気づき飛んできて、神様は狸もどきと神使達に引きずられるようにその場を後にした。駆けつけた救護班に八重が抱えられるのを、神様は遠くからただ見つめる事しか出来なかった。
神様の力によって意識を失った人々は、命に別状はないようだった。病院に運ばれた人々も、その場で意識を取り戻していた八重も、その日の内に家へと帰る事が出来たという。病院の医師達も、現場に駆けつけた警察官達も、大勢が一斉に倒れる事態に、何らかの中毒を起こしたと思っていたようだが、現場や患者の体に原因を解明する手立ては残っておらず、ただただ頭を抱えていたという。まさか、神様の力によるものとは思いもしないだろう。
神様は、八重が家に帰ったと聞き、八重の家を訪ねていた。しっかりと子供の姿に戻り、ふわりと空に浮かぶと、二階の部屋の窓を控えめに叩いいた。部屋に居た八重は、その音に気がつき窓を開けてくれる。そのほっとしたような、嬉しそうな表情に、神様は何とも言えない申し訳なさが込み上げてくるのを感じた。
「本当にすまなかった」
その思いのまま頭を下げれば、八重は目を瞬き、それから困ったような、照れ臭そうな表情で、あの時、神様に掴まれた手首を擦っていた。
「ちょっとでも、ほんとの顔が見れた気がして、嬉しかった…なんて言ったら、倒れた人達に申し訳ないよね」
華奢な手首に残る思いに触れ、その大事そうな眼差しに胸が苦しくなって、今すぐにでも抱きしめてしまいたくて、神様はこっそりと拳を握った。
八重は、何故神様がその手を掴んだのか、何故あの姿を現すに至ったのか分かっているのだろうか。
それによって、多くの人々を、八重を傷つけたこと。人と共にあるには、この力は大きすぎること。
それに、それだけじゃない。これ以上、彼女に近づいては、その命が危ないということ。もう天界は、これ以上の接近を見過ごしはしないだろう、それを八重は当然だが、何も知らないのだ、だから、自分が近づかないようにしなくてはいけないのに。
それでも尚、溢れ出る思いに、神様は瞳を揺らし、ただその顔を伏せるだけだった。
「…あの桜、来年も咲くかな」
八重は、神様が皆を傷つけたと落ち込んでいると思ったのだろうか、窓に腕を掛けて庭の桜の木を見つめながら、明るく声を掛けた。
「どうだろうか…もしかしたら無理かもしれない」
今年も、咲かす花が少なかった。来年はどれだけ花を咲かしてくれるだろうか、もしかしたら、幹さえもたないかもしれない。
桜の木の葉が頼りなく揺れる姿を見て、神様はそれに自分の気持ちを、その行く末を重ね見ていた。
八重はその寂しそうな横顔を、どんな思いで見ていたのだろう。彼女は、どこか意を決したように顔を上げると、少し緊張した面持ちで神様を見つめた。
「…じゃあ、その…もしあの花が咲いたら、一緒にお花見してくれる?」
「…勿論だ、毎年してるだろ」
「ふたりだけで」
「…それは、」
「咲いたら!咲いたらだよ。そうしたら、私の話、聞いてほしい」
真っ直ぐな決意に満ちた眼差しが、神様の胸を刺すようで。
その瞳には、決意を感じると同時に、諦めが滲んでいるようにも感じられた。八重も、来年は咲かないかもしれないと思っているのだろうか、それでも願いを伝えたのは、この思いの終着点を決めなければならないと思ってのことかもしれない。
神様はその瞳に頷いた。
だが、神様が八重の話を聞く事は出来なかった。




