五話
学園では家族のしがらみから解放されるため、私にとって学園は少し息を抜いて過ごせる場所であった。
既に習得している内容を単調に語る教師の言葉を聞き流しながら、私は昼休みのことを考えていた。
らしくないことをしたとは思っている。自分にとってメリットも恐らくないことだ。
なんであの子のためなんかにと悪態をつこうともしたが、自分があの子のことをそこまで嫌ってはいないことは自覚していた。
羨ましく思ったことは幾度となくあった。嫉妬もたくさんした。けれどもそれは彼女の立ち位置についてであり、フェリアのこと自体はそんなに嫌いという訳ではなかった。
遠い昔のことだが、あの子は私に懸命に話しかけようとしてくれたことがあった。彼女の母親の圧に負け、それが続くことはなかったがそれでも確かにあの子は私に笑顔を向けてくれた。
それに今もあの子は両親たちの嫌みっぽい会話を止めもしないが、それに加わることもなかった。
敵ではない、というぐらいの立ち位置かもしれないが、彼女の立ち位置も考えると、それはあの家ではかなりマシな位置にいるということだった。
結局とりとめのないことばかりを考えている間に午前が終わり、昼休みになってしまった。いつも通り昼食をとり、慣れた足取りで私は図書館に向かった。
階段を上がり図書室の二階にある自習室に向かうと、一番奥の席に既にフェリアが座っているのが見えた。彼女はこちらに気付くと、大きく手を振ってきた。
「お姉さまっ!今日からよろしくお願いします!」
図書館だというのに、フェリアは大きな声で私にそう言ってきた。私は呆れた顔を隠さないまま「静かになさい」と答えてから、彼女の前の席に着いた。
「で、どこが分からないの?」
時間は限られている。私は端的に彼女に聞いた。
すると彼女は教本をにらんだまま、こう答えた。
「分からないところが分かりません」
フェリアは真剣な顔でそう言った。
「……ふざけているの?」
思わずそう聞き返すと、フェリアは慌てながらこう続けた。
「ふざけてはいません。けど、本当に分からないんですぅ」
信じがたいことに目の前の妹が涙目で言うセリフに嘘はないように感じた。彼女が真剣であったため私はため息を飲み込み、切り口を変えることにした。
「なら、まずはこの問題を解いてみなさい」
初歩の問題を指さすと、彼女はノートを開いて真剣に問題に取り組みだした。しかしその手はすぐに止まり、幾度と迷った末に誤った答えへと到達していた。
何問か同じように解かせてみたところ、どれも同じような結果であった。
「分かったわ、そもそも基礎を理解していないのね貴女。1学年時の教本は持っているの?」
「それも自分のものはお母さまに没収されています」
「そう、なら図書館の受付で頼めば寄贈されている教本を借りられるから明日からはそれを持って上がってきなさい。基礎からやり直しよ」
淡々とそう伝えたのに、フェリアは目をきらめかせたままこちらをじっと見ていた。
「何よ」と不気味に思いながら尋ねると、彼女は嬉しそうにこう答えた。
「こんなすぐに私の分からない原因が分かるってお姉さまって本当にすごいんですね。しっかり自分をお持ちだし、憧れちゃいます」
ニコニコと言われた悪意のない言葉に、私は思わず言葉を詰まらせた。自分がある人間はきっと誰かの言いなりになんてならない。祖母の操り人形などしていないだろう。自分はそんな人間ではないと知りつつも、それを認めるのが怖くて、私は彼女の言葉にあえて答えず「明日も同じくここに集合よ」とだけ返した。
そうして私たちの姉妹の交流は、ぎこちなさを含みつつ始まっていった。
家では不干渉な姉妹のままであったが、昼休みの図書館の奥、人もまばらな静かな空間で私たちは一緒の時間を過ごしていった。
共にいるとフェリアは根はまじめであることがよく分かった。流行りの恋愛小説の間に差し込んで持ち帰る課題は解けているかはともかく、全てまじめにやってきた。飲み込みがいいとは言いづらいが、何度間違えても腐らずコツコツと勉強を続けていった。
その甲斐もあって、一か月もするとその効果は目に見えて表れるようになった。
「お姉さま、ここはどうしてこの公式を当てはめると分かるのでしょうか?」
最近は分からないところがはっきりとしてきたのか、きちんと的を射た質問もできるようになってきていた。解ける問題も少しずつ増えてきた。
今まで勉強は字のごとく強いられるものだと思っていた。楽しさなんて感じたことはなかった。
けれども自分で問題が解けたときのフェリアの嬉しそうな顔を見て、私が学んできたことで人をこんな顔にすることもできるのかと新たな側面を発見できた気持ちになった。
時間を共にすることが増えることで、最初は会話と言っても勉強に関することばかりであったが、徐々にそれ以外のものもぽつぽつとフェリアとするようになっていった。
学園への登下校の馬車の中で、外の御者に聞こえないような声量でコソコソと二人で会話をした。
最近の流行りのスイーツのこと、みんなの憧れを集める令息のこと、友人に勧められた恋愛小説のこと、フェリアの話は今まで私が耳にすることがないようなことばかりであった。
感銘を受けた文学作品のこと、生徒会の業務のこと、植物園に咲く季節の花のこと、私の話なんて興味がないものもあるだろうにフェリアはどんな話もしっかりと聞いてくれた。
正直お互い相手の話題に興味がないこともたくさんあったのだと思う。けれども馬車の音に紛れて、こっそり話をする時間は私たち姉妹にとって大切なものとなっていった。
そんな空気にも慣れてきたある日、いつも通り図書館に足を運ぶと、そこには真剣な顔をして教本も開かずに座っているフェリアがいた。
思えば今朝の登校時も、彼女はどこか考え込むような素振りを見せていた。
いつもと違う様子が気になって、「フェリア、貴女何かあったの?」と聞いた。するとフェリアは黙ってぽたぽたと涙を流し始めた。
あまりに突然のことに驚き、私は急いでハンカチを彼女の目元に押し当てた。
いつものように子供のようにわんわんと泣く訳でもなく、ただ小さく肩を震わせる彼女の横に座りただその肩に手を添えた。
こういうときにどうしてあげるのがいいのか、慰められたことのない私には分からなかった。数多与えられてきた教本にもそれは書かれていなかった。
涙を流す妹一人慰められない自分の無力さを感じながら、私はフェリアの手を握りしめた。