十五話
船の甲板にあるベンチに座り真っ直ぐな水平線をぼんやりと眺めていると、お姉さまが隣にやってきた。
「貴女、海が好きなのね。昨日もそうして見ていたでしょう?」
そう聞かれて、ハイとだけ答えようかとも思ったけれど、隣に居てくれるのがお姉さまなので、少しだけ自分の心の内を吐き出すことにした。
「この海を見ていると、戻れない選択をしたのだなって改めて思えるんです。未だに不安なところがあって、そうやって自分にもう動きだしたんだぞって言い聞かせているのかもしれないです」
「不安ね……確かに先のことを考えると色々浮かんできてしまうわね」
そう言ったお姉さまの横顔を確かめると、遠くを見つめるその顔が何だか少し寂しそうに見えてしまった。
そのため、つい弾みでこんなことを聞いてしまった。
「お姉さまは、後悔してますか?」
聞いてから声に出してしまってことを反省した。もう船には乗ってしまった。向こうの入学手続きもしてもらった。
後悔しているとお姉さまに言われても、自分にはそれに返す言葉がなかった。
そんなことを考えていると、こちらに体を向けたお姉さまが、表情をどこかさっぱりしたようなものに変えてこうおっしゃった。
「不安はたくさんあるの。でも不思議ね、後悔はしてないわ。だって自分で、自分たちで決めたことですもの」
穏やかな表情のままでお姉さまはさらに言葉を続けた。
「でもこうして飛び出してみて、他人に決められているって辛いけど楽なことでもあったんだなって初めて分かったわ。
自分で決めるってとても大変だった。それに今もそうだけど不安がたくさんあるわ。
私たちってあの人たちに守られていたところもあったのね」
「そうですね。私も家を出て初めてそういうことに気づきました」
「けれどそれと同時にやりたいこともたくさん出てきたの。今までは許されないって諦めてたこと、諦めなくていいんだって思うと少しわくわくもしてるのよ」
「お姉さまのしたいことって何ですか?」
「……聞いても笑わない?」
もちろん笑いませんと答えると、お姉さまは少しだけ照れ臭そうな顔をしながら、小さな声でこう言った。
「学園の帰りにね、寄り道をずっとしてみたかったの。レティシア殿下は向こうでは自由時間が多いっておっしゃっていたから、美味しい紅茶のお店とか、品揃えのいい書店とか、そういうところに寄ってみたいのよ」
お姉さまの意外な願いを聞いて、私はつい唇の両端をむずむずと持ち上げてしまった。だって意外だったけど、すごく可愛かったのだ。つい顔が笑顔みたいになってしまったけど、それは仕方のないことだった。
けど、お姉さまはそんな私を見て「笑わないって言った癖に」と少し拗ねたような顔をしていた。
「笑ってないです!けど、想像してみると楽しそうでつい口の端が上がっちゃったんです。いいですね、寄り道!私一緒に行きたいです。流行りのお店ばっちり調べておきますね!」
「貴女はそういうの得意よね。ええ、ぜひ一緒に行きましょう」
「やった!あ、あと本屋さんに行くときは私にオススメの本を教えてほしいです。最近、恋愛小説以外もちょっとずつ読んでるんですけど、本って色々面白いものがあるんですね。
有名な文学作品とか家じゃ読めなかったから、お姉さまが面白いと思った本、隣国でぜひ読みたいんです」
「任せて。色々見繕ってあげる」
そんな会話の最中、私は何だか楽しくなってきてふふっと思わず笑みをこぼしてしまった。
どうしたの急に、とおっしゃるお姉さまに私は改めてこう告げた。
「私、昔はお姉さまみたいになりたいって思ってたんです。甘ったれでしかいられない自分じゃなくて、賢くて、凛としてるお姉さまみたいになりたかった。
けど今は私は私で、お姉さまと違うのもいいなって思ってるんです。
だってこうしてお互いの持ってないものを補えあえるじゃないですか。
私でもいいのかもって思えるようになってきました」
「そうね。私も貴女の立場に憧れたこともあったけど、今は貴女は貴女で、私は私でよかったかもって思ってるわ」
「愛想を振り撒くことしかできない自分のこと好きじゃなかったけど、今は私にもできることがあるってちゃんと思えます。
あ、もちろんできないことがまだまだあるって自覚はしてますし、勉強はこれからもがんばりますよ。レティシア殿下にも『フェリアは編入試験ギリギリだったわよ』って言われちゃいましたし」
「私も無いものばかりを気にしていた気がするわ。自分のこと勉強ばっかりの面白味のない人間だと思って好きではなかったけど、あの頃に身に付けたものが今の私に繋がっていると思うとあの勉強漬けの日々にも意味があったのだと思えるわ」
私は海から吹く風に髪をなびかせながら、穏やかな表情でそうおっしゃるお姉さまを改めて見つめた。
髪と目の色は同じ色合いだけど、顔立ちだって好きな服装だって趣味だって私たちは相変わらず全然似ていない。
中身だってそうだ。
お姉さまはレティシア殿下に同行するご令嬢たちと少しずつ社交をしているけど、まだ社交は苦手だと言っている。
私も勉強は続けているけど、ギリギリだしお姉さまには全然届かない。
昔はそんな違う二人だし、異母姉妹という難しい関係だし分かりあえる日なんて来ないだろうと思っていた。
けれど今、私の横にはお姉さまがいる。
誰よりも心を開くことができる相手としてお姉さまがいてくれる。
きっかけは決して良いことではなかった。まさかあの日の深夜の出来事がこんな未来に繋がるとは思ってもいなかった。
けれど今、私たちは確かにここにいる。
自分で未来を選んで、楽しみなことがあって、不安になって、そして自分のことを少しだけ好きになっている。
そう思うとなんだか無性に嬉しくなって、私は目の前にいるお姉さまにこう伝えた。
「自分でいられる未来を選ぶことができたのも、自分のこと好きになれてきたのもきっとお姉さまのおかげです。一人ならきっと私はお母さまのお人形のままだった。
ありがとうお姉さま。大好きです」
言ってから少し恥ずかしくなって視線を下げようとしたそのとき、目の前のお姉さまが柔らかく、温かくふんわりと笑っているのが見えた。
その笑みはあの頃遠くから見ることしか叶わなかった、お姉さまの本当の笑顔だった。
それが自分に向けられているのが嬉しくて、嬉しくて、うっかり出てきた涙を誤魔化すために私は盛大にお姉さまに飛び付いて、ぎゅうぎゅうとお姉さまにしがみつくように抱きついた。
そんな私の髪をそっと撫で、お姉さまは少し涙を滲ませたような声でこう答えてくれた。
「私も一人じゃきっと勇気が出なくて、祖母の求める孫娘にされ続けていたわ。私も貴女が私の妹でいてくれてよかった。
ありがとうフェリア。私も大好きよ」
お姉さまの言葉で誤魔化せるぐらいだと思っていた涙が、全然誤魔化せないものになって私の瞳からぼろぼろとこぼれ落ちた。
私たちは二人、抱き締めあったまましばらく泣いて、そしてその後に顔を見合せて照れ臭そうに笑いあった。
隣国まではあと三日船旅が続くそうだ。
隣国に着いてからの私たちの生活がどうなるか、色々お話は聞いているけれど正直まだ上手く想像はできていない。
不安も楽しみもたくさんある。乗り越えなければならないこともきっとあるだろう。
これから決断をしなければならないことも多くあるはずだ。間違った選択だって多分しちゃうだろう。
でも今回の決断をしたときみたいに、自分で全力で考えて、もがいて、時に人に助けられながらも乗り越えていきたい。
誰かの求める私ではなく、私がありたい私として。
私はそう思っていた。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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