あなたに大切な人はいますか【海辺での少女との物語】
作者がふと思った物語を書き記しました
不出来な文章ではあるかもしれませんが、お暇があればどうぞ一時の思い出にでもしていってください。
あなたに大切な人はいますか?
突然、そんなことを聞かれれば誰しもが疑問符を浮かべるだろう。大切な人、言い方を変えれば、「明日も合いたい人」「一緒に居たい人」どんな形であれ、自分にとって唯一無二だと思える存在は大切の意味にそぐうと思う。
人は一人では生きていけない。心の拠り所になる他人を大切な人として、ある日とつぜんその人が自分の目の前から消えてしまったら――
そんなことを考えたら、私はあなたに質問する。
―あなたに大切な人はいますか―
―あなたは誰かの大切な人であれてますか―
『あなたに大切な人はいますか』
夏休み少し前の七月上旬。
電車に揺られること数時間、高校二年生の時浪 温【ときなみ のどか】はある海辺の町を訪れていた。目的は海水浴ではない。理由は本人からすればため息ものの事情であった。
◇
温は元々、都心部から少し外れた郊外に父親と一緒に住んでいた。
変化はなく、年に数回の里帰り以外では特に移動することもなくのんびりと過ごしていた彼であったが、転機は六月のある日――
「温、お父さん仕事の都合でしばらく家を空けるから、お前は祖母ちゃんのところに預けることになったからな」
突然、そんなことを言われた。
「え?いや、え?」
家は父子家庭で母親はかなり前に亡くなっていた。
だから、父親が家を離れるならその間は必然的に俺だけになるわけだ。しかし、俺に留守を任せるという選択肢はないのだろうか。まあ、言っても無駄だろうから言わないが。
あれよあれよという間に話は進み、現在に至る。
◇
真夏の猛暑に耐え抜きながら、目的地に向けて舗装された道を歩く。
俺が向かっているのは、父方の祖母の家。毎年何度か来ているから地の利は割とついているし道に迷う事はない。雰囲気は意外と田舎で、都市部と比べれば海が近い事もあってわりと涼しい。
田舎ではあるが近くには普通にショッピングモールや学校などもある普通の町なので、利便性の悪い土地ではない。
■
駅より歩くこと三十分。
「やっと着いた……」
目の前にはどこか懐かしさを感じさせる、木造がメインで切妻屋根などの要素が見受けられる和風の家あり、ここが祖母の家だ。
前庭に入り、玄関前まで来てベルを鳴らす。ほどなくして引き戸が開かれ、中から祖母が出てきた。
「あらあら、温くんじゃないかい。話は聞いてるよ、よく来たねぇ」
「うん、久しぶり祖母ちゃん」
昔から可愛がってもらっていたので、祖母ちゃんは快く今回の下宿を受け入れてくれた。
祖母の家というのはやはり落ち着く、普段とは違う空気だからだろうか。そう思う事はみんなもあると思う。
俺は毎回止まりに来た時は離れを使わせてもらっているので、今回もそうさせてもらった。これでWi-Fiもしっかり完備されているのだから、本当に不自由がない。
◇
荷物を一通り降ろして、ひと段落つき時間を確認すると午後の二時くらいだった。
「朝早くに出たからか、意外と時間があるな」
昼飯は電車の中で駅弁を食べたし、父さんへの到着の連絡も済ませた。実質、もう晩御飯までやることはない。
祖母の家では晩御飯はだいたい七時くらいなので、かなり暇な時間が長い。
「課題は来る前に家で終わらせたし、ゲームするのもなんだかなあ」
スマホを開いて見るがどうにもゲームの気分でもない。
少し思案して、俺はある案を実行することにした。
「よし、時間はあることだし久しぶりにあそこに行ってみるか」
思い立ったらすぐ行動、最低限の貴重品だけ持って家を飛び出した。
■
昔から好きな場所があった。幼い頃に一人で冒険と称して出向いたのが始まりだった。
家を出て海に向かって歩き海岸線に差し掛かったら、崖の方に見える灯台を目指して歩く。
目的地はあの灯台だ。途中までは道路が広く整備されているのだが、ある場所に差し掛かると割と急勾配で狭い脇道を通らなければあそこにはたどり着けない。
そして、一番近い地域の民家からでもかなりの距離を歩くため人がほとんど寄り付かない。
高さや立地、日差しなどあらゆる意味で最高のスポットなのだが、まあこのお陰であそこは幼い頃からちょっとした秘密基地みたいになっている。
向かう間の道もずっと海岸をいくわけではなく、例の脇道に入ればしばらくは緑いっぱいの細道だ。しかし、この道も適度に涼しく木漏れ日が心地よいので割と好きである。
そんな感じで、家を出てだいたい二時間くらい経った。
急勾配もかなり登り切り、目先にはすでに光があって細道の終わりが見えてくる。歩を進める度に、光は近づいてきて――
「やっと、着いた……」
心地よい木漏れ日の道を抜けて、光に飛び込むとそこには少し時代の劣化を感じさせる白色の灯台と、その足元にちょっとした広場がある。といっても、本当にベンチが一つ配置されているくらいの慎ましいものだ。
快晴の空の日差しに照らされるここは、町とは離れた別世界のようにも思える。
緑の芝を踏みしめて、歩いて行く。灯台は真正面に座していてまだ海の景色はひらけていない。だが、一度を灯台の前に出ればそれはそれは絶景なのだ。
子供みたいに心を躍らせながら、灯台の横を通り過ぎようとするとふわりと少し強めの風が吹く。
「――っ!」
芝や木の草葉がサラサラとなびく音を聞くころに、俺は反射的に目を薄く閉じた。
「……すこし風が強い、な」
閉じていた目を開けて、俺は見えたものに固まらざる得なかった。
木製の柵に手をつき、その透き通るほどの美しさの景色を背景に映すその姿はまさに美術品を彷彿とさせる。
――少女だった。純白のワンピースに身を包んだ、亜麻色の髪の少女。
背に届く長さの髪の質感は、サラサラしていて陽射しに呼応しきらめいている。
空色の双眸はこの景色のように透き通っていて、これほど照りつけているのに、肌は芸術品だと比喩しても遜色ないほどに綺麗な乳白色を保っている。
顔立ちは整っているという表現すら、安っぽくしているように思うほど美しい。全ての要素が理想的なバランスだからだ。
しかし、それは魅了する美しさではないから不思議だ。
いや、この景色が背景に映るからこそ思う事なのかもしれない。
「……ここが、好きなんです」
少女はこちらを向かずにそう言葉を発した。
俺は彼女に話しかけるか迷っていたので、あちらから越えをかけてきたのは意外だった。
「全てが透き通るみたいに、感傷を無に還してくれる。辛い事も苦しい事もここに来れば大抵は消えてくれるから、ここが私の居場所のような気すらしてしまいます」
「儚い」そう思った。放っておいたら、この海に消えてしまいそうなほどに――
気付けば俺の方から話しかけていた。
少女はそんな俺に多分驚いていたと思う。嫌だったかとも思うが、この選択は俺の中でもきっと正しいものだった。
これが、俺と彼女の出会いである。
灯台の元で起こり、ひと夏を綴っていく物語の始まり。
■
俺は次の日も、灯台に行った。
時間は朝一なので、昨日とは時間帯が違うので、もしかしたら居ない可能性の方が高いと思う。けれど、何故かそこに心配はなかった。「きっと、そこにいるという」そんな確信が、俺には有ったのかもしれない。
祖母ちゃんに持たせられた弁当やらが入ったリュックを揺らしながら、道筋を記憶の通りに辿る。
今日も天気は快晴で木漏れ日が心地いい。そして、目先には光の出口。
駆け足でそこをくぐり、灯台の方に目を向けるとその傍にその子はいた。
「本当にここが好きなんだな」
そう言葉にして声をかけた。
少女は振り返ると、俺を見てすこし意外そうな表情をしたが、すぐにまた優しい笑みをした。
「……はい、ずっと居たくなるくらいには」
続けて、少女はこう言った。
「あなたこそ、こんな朝早くから来て、『物好き』なんですね?」
その振りに対して、その言葉通りに捉えて俺は答えを返した。
「そうなのかもな。実際、ここって立地が悪すぎて地元の人はあまり来ないし」
だが、俺にとってはそんなことはどうでもいい事だ。むしろ、誰もいないというのは好都合ですらある。
「でも、そこは俺も君も同じだな」
それを聞いて、少女はすこし呆気にとられたような顔をした。その時間は長くはなかったが、その後、少女はまた別の微笑をこぼした。
「同じ、あなたにはそう見えますか……でも、それは当たらずも遠からず、ですかね」
曖昧な返事に首をかしげると、少女は面白そうにクスリと笑った。今度は、その意味の通りの楽しそうな笑顔。
「ふふ……いえ、気にしないでください。今のは独り言のようなものなので」
本当になんでもないようにそう言われては、気になったとしても追求する気にもなれず、俺は話題を変えた。
「そうか。……なあ、そういえば君はその格好でここまで来てるんだよな?」
そう言うと、少女は不思議そうに頷いた。
「ええ、そうですけど、それがどうかしたんですか?」
「いや、ここまでの道は結構ハードだし、サンダルとワンピースっていうのは中々にきついんじゃないかと思ってな」
少女の格好は、昨日と変わらずワンピースに靴はサンダルといった様子で、他に荷物も無く、お世辞にもここにくるような格好ではない。
少女自身もその言葉を聞いて、自身の格好を見返すが特に問題ないといった様子で向き直った。
「いえ、特にそういう風に感じたことはないですね」
「そ、そうか」
本人がそう言うならそうなんだろうが、にしても虫刺されとか怖くないんだろうか?
確かに、市街地と違って真夏でもこの辺りは極端に虫の類が少ないが……
しかし、俺はここに来るまでに割と汗もかくが少女にはそれすらもないように見える。ほんのりと肌に湿り気が見受けられるだけで、それほどではない。
不思議な少女だ。
改めてそう思った。
――いや、初めからこの特異性と、雰囲気に魅入られたのかもしれない。
今日ここに来たのだって、目的のほとんどはそれだと内心は自覚している。
そういう風に考えれば、自然と俺の認識からも少しの違和感すら消えていき、短い時間でまるで昔からの友人のように話せていた。
「ほら、これとか――」
スマホに保存してある写真などから、住んでいる都会の辺りの風景を見せると、少女は分かりやすく目を輝かせた。
二人並んでベンチに座って、他愛のない話をする。
少女の質問に答えたり、逆に何も喋らず静かに風を満喫したり、そんな喉かど心地よい時間を過ごした。
昼には昼食を持って来ていないという少女に、弁当をわけたりもした。
また、話題の尽きないままに話したりして、時間はあっという間に過ぎて行った――
夕日が落ちかけ、俺はそろそろ帰る時間になった。
「俺はそろそろ帰るけど、君はどうするんだ?」
「家の者が迎えに来てくれるので、私はもうしばらくここに居ます」
一人で帰るなら一緒に誘おうかとも思ったが、それなら安心だ。
「そうか、それならいいよ。今日はありがとう、それじゃあ」
そういって去るのに若干の名残惜しさを感じるが、気にしても仕方がないので俺は進路を帰路に向ける。
歩き出すと、後ろから声が聞こえた。
「私こそ、楽しかったです」
それを背に、俺はなんだか満足したような気になりながら、家路についた。
■
それからの日々に代り映えは、あまりなかったと思う。
俺は常に暇な日々が続くので、毎日のように灯台に通った。
そして、そこには必ず少女がいた。
出会うことも当たり前になってきて、他愛ない話をしたりして、数日を過ごすうちに、ふと、俺はなぜか今まで聞いていなかった彼女の名前を聞いていた。
「朝凪 幸【あさなぎ しあ】、朝の凪に幸せと書きます。そういえば今まで名前も言ってませんでしたね」
そう言ってクスクスと笑う少女にどことなく気恥ずかしさを覚えつつも、俺も自分の名前を言った。
「時浪 温【ときなみ のどか】さん、ですか。確かに……」
どこか納得したような様子の少女、朝凪にどういうことなのかを聞いても秘密の一点張りで聞かせてもらえなかった。でも、満足そうにしている彼女を見るといいかなと思った。
■
一週間以上が過ぎたある日は、俺たちはビニールシートを敷いて一緒に昼寝をしたりした。
もちろん、俺は本気で寝入るわけにはいかないので、静かに眠る彼女を見守っていたのだが……
その柔らかな寝顔と、いつも通り心地よい風に導かれて俺すらも寝てしまって、気付いたら俺は先に起きた朝凪に頭を撫でられながら熟睡していた始末。
「可愛い寝顔でしたよ」
なんて言われたのだから、流石に恥ずかしかった。
■
そして、日は週へと移り変わり夏休みが早くも折り返しに近づいてきた。
「それじゃあ」
「はい、また」
そういっていつも通り別れて、また同じように家に帰ると時間的に丁度ご飯が用意されていた。
手を洗い、汗を拭いてから席に着き、手を合わせた。
「いただきます」
今日の夕飯は焼き魚がメインで大根おろしなど、和食の定番ともいえる組み合わせだ。祖母ちゃんは味付けとかが本当に美味いので、俺も参考にさせてもらっている。
「うん、美味い!」
いつもそう言いながら、勢いよく食う。骨などに気を付けながらになるので、ペースは落ちるがそれでも美味いものはうまい。
「ゆっくり食べな、喉を詰まらすよ」
祖母ちゃんはそう言いつつも嬉しそうだ。
祖父ちゃんはもういないから、一人だとやはり寂しいのだろう。
あっという間に食べ終わって、俺は後片付けをすると風呂に入って、その後は居間でゆっくりする。
ほどほどに湯を冷ましつつ、まったりとしていると一通りの用を済ませた祖母ちゃんが話しかけてきた。
「温くん、ちょっといいかい?」
「ん、いいけど、なに?」
普段は祖母ちゃんから話しかけてくることは意外と少なく、いつもは俺から父さんとか向こうでのことを話している。
だから、なにを聞かれるのかすこし身構える。
「なぁに、すこし気になったことがあってねぇ。温くんはあの灯台まで行って、誰とあっておる?」
そう聞かれて、内心では遂に聞かれたかと思った。
祖母ちゃんは当然、いつも灯台に通っていることを知っているし、そして、毎日の事である以上は誰かとあっている事くらい察しが付くだろう。
だから、特に意外でもない質問だし、解答は事前に用意していた。
「ああ、ちょっと仲良くなった子がいてさ。多分、俺と同じくらいの歳の――」
「少女かい?」
言葉を遮ってそう聞かれて、一瞬呆気にとられる。
「そ、そうだけど」
それを聞くと、祖母ちゃんはほうほうと納得する。
「まさか、あの場所で……ねぇ」
そう一人で完結されても、俺には何一つわからない。
「どういうこと、祖母ちゃん」
そう聞くと、祖母ちゃんは懐かしむような目をした。
「……うむ、すこし長い話になるがいいかい?」
俺が頷くと、祖母ちゃんは一泊おいて話し始めた。
「祖母ちゃんがまだ温くんと同じくらいの歳の時だった。
わしも幼い頃から、あの場所にいくのが好きで、いまよりも舗装も碌にされておらず急な道を通ってよく通っておった。
そして、その年にわしの夫、祖父さんに出会った。
その時のわしと祖父ちゃんの接点は間違いなくあの場所だけだった。だから、なぜだかわからんが、あの立地の悪い場所をいつも約束の場所にしていた。互いの家も聞かずにな。
色んなことはあったが、わしと祖父さんは妙に打ち解けた。性格は真反対なのに、それが成ったのはあそこの独特の空気故だったんだろうか……」
そこから先の話は、祖母ちゃんと祖父さんの結婚するまでを話して一先ず区切りとなった。
祖母ちゃんは最後に「思い出話の聞いてくれて、ありがとうねぇ」、そう言って居間を出た。
俺も電気など一通り消して、母屋の鍵を閉めて離れに戻った。
布団を敷いて、床に就くとふとこれまでの朝凪との時間について考えた。
「朝凪、確かに不思議な子なんだよな」
今までは大して気にしていなかった。いや、これからもそうするつもりだ。
けれど、祖母ちゃんの言っていた「あそこの独特の空気」という単語には妙に自分としても得心がいった。
なんだろうか、上手く言葉にできない。
寝た方がいいということだろうか。
「いや、きっとそうだな」
そういえば、今日もあそこに行くのに結構体力を使って疲れた。明日、寝坊しないためにも寝よう。
誰もいない室内で「おやすみ」、そう言って眠りについた。
■
翌日も、翌々日も、一週間も灯台に通って朝凪に会った。
そして、遂に夏休みも折り返しに差し掛かった日に、俺は朝凪にふと聞いた。
「朝凪はいつもここにいるけど、親にはなんて話してるんだ?」
無意識に、ふと、いつもように、他愛ない世間話のつもりで、他意なく聞いた。
だけど、その何気ない話題は確実に朝凪の心を揺らしただろう。いや、そうに違いないと思う。だって、それまでは優しく柔らかであった彼女のおっとりとした表情を明らかに曇らしたからだ。
それは一瞬の変化であったが、彼女の表情をよく知る俺は見逃さなかった。そして、それと同時に「しまった」と心の中でつぶやいた。
「……両親ですか」
話が続けられようとしているのに対して、俺は慌てて弁解しようとした。しかし、それは止められた。
彼女の「あの時」と同じ儚げな微笑みに――
俺は言葉に詰まって、何も言えなくなった。口が直接ではなく、心そのものが鉛になってしまったかのようだった。
「そうですね」
彼女は遠慮なしに言葉を続けようとしていた。俺は止めたかった。
言いたかった「無理しなくていい」と、それ以上は言わなくていいと、そう言って、自身の心と相手の心の間に予防線を張りたかった。
朝凪との関係性を壊れがたい物にしていたかった。
そして、そんな感情は口ではなく顔に出てしまった。
それを見た朝凪はどう思っただろう。今度は儚げではなく、むしろに悲痛そうな微笑みをこぼしてから、最後にこう言った。
「時浪さん、あなたに――」
その言葉は心理ついているものだった。なによりも重かった。
「大切な人はいますか」
彼女とはその日に別れて以降、会わなくなった。
■
一週間、軽くそれくらいの月日が過ぎた。
俺は退屈そうに離れで寝ていた。外は快晴だが、とても出る気にはなれない。
体は至って健康だし、問題があるとすれば心だった。
祖母ちゃんは心配してくれたけど、待つ方を選びあまり口出しをしてこなかった。俺にとってその対応は素直に助かった。
『あなたに大切な人はいますか』
この問いは何度も頭の中を駆け巡り、その意味を問うように反復した。それを答えてくれる唯一の人に、俺自身が会おうとしないのに……
たった一つのミス、たった一瞬と一時のもつれで俺は彼女の傷つく要因を作り出したことは想像に難くない。
そして、謝る事もできなかった。
考えうる限り最悪の展開だ。
「朝凪……」
自分でも女々しい男だと思う。この感情はまさに少年だ。
だが、それの発生源は甘酸っぱい青春などではなく、ドロドロとした思考のジレンマだ。
気分が悪くなる。
やはり俺は体調が悪いのかもしれないな。
「はぁ、もう」
吐き捨てるようにそう言いながら、布団から出た。
スマホを確認すると、すでに時刻は昼だ。こんな長く布団の中で過ごすのは高熱を出した幼少期以来かもしれない。
起き上がって布団を畳み、離れ内にある洗面所で顔を洗ったり歯磨きして、母屋に向かった。
居間にいくと、俺は用意されていた昼食を食べた。
そして、パッとしない思考でテレビをつけた。地方のマイナー放送や古いDVDのCMなどが映し出される画面を見ながら、物思いにふける。
ちゃんと起きてきたからか、思考は先程よりはマシではっきりとしている。
だから、俺はちゃんと自覚していることを正しく認識できた。
この朝凪に会っていない一週間は酷かった。生活とか精神状況がそれを容易く物語っているし、そして、俺にとってこの短い期間での付き合いでしかない朝凪との関係性はそれほど大事であったこと。
人には時間どうにかできることとできないことの二通りが存在するが、朝凪との関係を巡る思考の渦は間違いなく、この時間という概念を敵に回していた。
これでは悪くなる一方だ。
「しかし、どうしたものかな」
うなだれる自分を許したい。
だって、これは初めての経験なのだ。先人に頼るべきことだが、今更そうするのは個人的に嫌だし、朝凪ならそうしないだろうからしたくない。
そもそも、やるべきことは決まっているだろう。
―会って謝る―
「これしかないよなぁ」
至極単純かつ最も俺がやるべきことだ。
謝って済む問題かはわからないが、それは謝らなくていい理由にならないことは流石に知ってる。そして、謝るまでに時間をかけていいのは互いが同じくらい悪い喧嘩の時だけ。それは、ここまでの短い人生で手に入れた数少ない経験則のひとつだ。
決まっているじゃないか。
初めから、御託を並べていたのはこの心の方だった。そうなれば、後は俺自身の気持ちの整理だ。これは、可及的速やかに完了させる必要がある。
「よし、そうと決まれば」
俺は気持ちを切り替えて、居間を出た。
しかし、俺はここでまたしても失敗した。
消し忘れたテレビに映るニュースの天気予報、そこにうつる豪雨注意の知らせを見逃していたこと。致命的な失敗の二つ目だった。
■
その日中に俺は外に出てやったこと、それは至って単純な散歩だ。
まずは外に出てなかった分、それへの免疫をつけるため、そして俺の心に少しでも余裕を持たせたかったのだ。
本当は怖いだけだ。でも、そうでもしないと成功しない。心は決めても思考は別だ。気持ちに整理をつけないと向かっても喋れなくなりそうだから……
そう思いながらも、歩いたことで結構な迷いに決着がついたのも確かだった。その日は一通り歩いて祖母ちゃんの家に戻った。
戻る途中で、彼方に聳える灯台を見て呟いた。
「朝凪、明日必ず会いに行くから」
◇
飯などを食べて、いつも通りのルーチンを一通りこなし、そこからは普段なら居間でまったりするところを俺は早めに寝ることにした。
明日はさっそく行動する。
「よし、大丈夫だ」
心のコンディションは悪くない。
祖母ちゃんも安心してたみたいだし、傍から見ても悪くないという事だろう。
ここで目をつむり、明日の朝に起きれば、そこから行動開始だ。
「朝凪、待っててくれよ。おやすみ」
そうして、俺は眠りについた。
■
夜中の海は荒れていた。
空は夜の漆黒以上の陰りを見せて、ぽつぽつと空から雨粒が落ち始める。
まるで、乱れた心を表すように――
■
「え?」
朝起きて外を見ると、凄まじい大雨だった。
昨日は快晴だったはずなのに、流石に想定外の事件に思考が混乱する。
「い、いやいや、さすがにおかしいだろ」
そうは言っても現実は変わらない。とりあえず、顔を洗って思考を冷まして母屋に向かおう。
居間にくると、祖母ちゃんがテレビを見ていた。
「おはよう、祖母ちゃん。今日すごい雨だね」
そう言うと、祖母ちゃんも外を見つつ物鬱げに返した。
「そうだねぇ。予報では豪雨になると言われていたが、まさかここまでとは」
俺は当然、豪雨という言葉に反応する。そして、映されているテレビの映像の内容に意識を向ける。
『○○地方では記録的な豪雨ということで、河川や海の反乱が予想される為、危険を感じた場合はすぐに避難を――』
どうやら、ただの大雨ではないらしい。映像からその凄惨さが伝わってくる。
これでは海は大荒れだ。
「ほ、ほんとうにすごいな」
そんな感想言った後、俺はある言葉をもらした。
「朝凪、大丈夫かな」
そう言った瞬間、祖母ちゃんが心底驚いたような顔をした。
「温くん、朝凪の家の子を知っているのかい?」
そういう祖母ちゃんに、俺は疑問符を浮かべながら答える。
「ええと、前まで灯台に通って会っていたのが朝凪 幸って子で……祖母ちゃん?」
驚きの表情は深刻なものに変わっていく。さすがの俺もなにか良からぬことを予感した。
「なにか、知ってるの?」
そう聞かれると、祖母ちゃんは珍しく言い渋った。
「……そうだねぇ。いや、話しておくべきことか」
しばらく考え込んだ後、ようやく決心がついたらしい。真剣なまなざしで俺を見ながら話し始めた。
「これは、この辺りでは有名な話だ。朝凪の家は、この辺りでは有数のお金持ちで、知らないもんは居ないくらいだからねぇ。しかし、最近起きた事件は随分と薄ら暗いものだから、皆はなしには出さない」
祖母ちゃんはそう前置きをした上で、本題に入る。
「朝凪の家には、一人娘と両親の三人がおった。
この家族は裕福な上に仲がとても良くて、皆にうらやましがられとった。温くんの会っとる『朝凪 幸』という娘は間違いなくこの子だ。
そして、物の二年ほど前のことになる。
ある夏の日、両親が仕事の都合で遠くにいっていて、それで帰ってくる途中だったそうだ。
その日は雨だったそうだ。丁度こんな日、二人の乗った車は悪天候など様々な運の悪さに見舞われ、帰ってくる途中で海に落ちた」
その言葉を聞いて、息をのんだ。
海に落ちた。つまり、それは――
「そう、死んだんじゃ。二人そろって、海に飲み込まれ亡き人となった。
近隣の住民とも仲のよかった夫婦だったから、様々な人が悲しんだ。しかし、一番ショックを受けたのは当然、肉親である娘だろう。
それも、大好きな両親とようやく会えると楽しみにしていた日の惨事、心に負った傷ははかり知れん」
悲劇的、その言葉通りの惨い話。
俺も母を失った時のショックは大きかった。でも、まだ父はいたし友人や周りの人達のおかげでどうにかなった。
でも、朝凪は二人共、それもそんな形で……
「海には死んだ人の魂が宿るとも言われとる。そうか、灯台に通っておったのは……」
そして、俺の聞いた事の軽率さと非情さ。知らなかったとはいえ、デリカシーがないにも程がある。いや、それだけじゃない。
俺は、頑張って話してくれようとした彼女を手前勝手に拒絶した。
俺は、俺自身が朝凪に二度目の絶望を与えたかも知れないんだ。
「すぅ……」
罪悪感に押しつぶされそうになる。でも、必死に冷静であろうとする。
朝凪は常にあの場所にいた。それは恐らく、俺が行っていない日も欠かさずに、時間の許す限りずっとだ。
それなら、この場における最悪の展開は容易に想像がつく。「まさか!?」だなどと言っている場合でもない。
「祖母ちゃん、ちょっといってくるよ」
そう言うと、祖母ちゃん頷きこう言った。
「外はこの雨だ。気休めにしかならんだろうが、雨合羽はきていきなぁ。こっちは暖の準備をしておくからねぇ」
それを聞いてから俺は、準備を最低限度に済ませて家を出る。
■
外は凄まじい雨と風で進むのはかなり危険だ。当然、人はいないし、怪我などをしても助けはすぐに来ないだろう。
スマホはあるが、残念ながら朝凪の連絡先など知らない。こんなことなら世間話のついでに聞いておけばよかった。とは言っても、この状況で連絡したところでどうにもならんだろうがな。
しかし、動けないほどではなく、確かに俺は道筋を辿っていた。
できるだけ早く、いつものように海岸には近づかないルートを必死に走る。
くじけそうだ。もしも、朝凪になにかあったら――
そう考えるだけで、気がきじゃない。そうなっていた場合、そうならないために行くのだが、今も彼女が雨風にさらされている事実を想像したら、自然と足取りも焦りだす。
ようやく山道に入ると、予想通りここからが大変だった。雨は木々が多少緩和してくれているが、道は急勾配な場所も多い上に真っ暗だし、足元がかなり危険だ。
俺自身の身の安全のためにも慎重に進むべきだ。
そんなことは分かってる。だけど、どうしても焦りが増して意識が散漫になる。
「く、うおッ!?」
ふと何かに足を引っかけて、滑るため踏みとどまる事も出来ず勢いよく転ぶ。
そこは丁度くだりの所だったため、転がり泥だらけになる。
「う、ぐ……」
うつぶせの体に痛みが走る。
木々を通り抜けて落ちる雨も体に打ち付ける。
「はぁ、はぁ」
息をついて、体の状態などを感覚だけで推測する。
足は動くし、腕と手は見た感じ大丈夫そう、体は正直かんだが悪くても打撲程度だと思う。
手をついて、なんとか立ち上がって前を向いて足を動かす。
くじけそうな気持ちも、罪悪感もあとでどうにかしよう。
今は前を向いて、あの場所を目指すんだ。
膝に力を入れて、再び走り出す。今度は進むことにただ集中して、怪我をしたことで迷いが吹っ切れたのかもしれない。
温はただひとりの少女の為に、自分を捨てて走った。
■
目前には荒れ果てた海が広がる。
ここは晴れた日には透き通るほどに美しい景色を織りなす。しかし、今はこんな風でまるであの日のよう。
「お父さん、お母さん……」
随分長い間、口にしていなかったその名が出た。
こんな日に、こんな場所に居れば無事では済まないと思う。いつものように、形式だけの使用人は迎えには来ないだろう。
この海が私の最期になるなら、その先で父と母に会えるなら――
楽しかった日々が脳裏によぎる。
吸い寄せられるように、柵に近付いて行く。一歩、一歩と重ねるうちに大好きだった父と母に近付けているみたいで、恐怖はなかった。
ずっと、この海に消えてしまいたいと思っていた。
むしろ、そうする為にあの日、私はこの場所に来て――
「……そうだ、時浪さん」
彼に出会った。
不思議な少年だった。このあたりの人ではないらしく、私のことを知らず話しかけてくれた。
それが私にとってなんだか、生きる理由になっていた。
誰かいるなら、どうせ無感動な命なら、死ぬ前に彼との時間を作ろうと思ったのかもしれない。
はっきり言って、楽しかった。
もう何も存在意義を見出せなかった私に、彼は温かさをくれた。
他人が心にぽっかりと空いた穴を少しでも埋めてくれた。それは、死にたいという願望以上に欲した感覚だった。毎日が楽しく月日はあっという間で、だからこそ終わりはよく覚えてる。
「時波のように優しくて、温かな人。ああ、もう終わったんだ」
ようやく、最後の心残りが吹っ切れた気がする。
私の死を彼は悲しむだろうし、自分の行いを悔いると思うけど。でも、彼には周囲の人達がいるし傷は時間がなんとかしてくれる。幸い、過ごした時間は関係の濃密さに比べて短かった。
柵に手をかけて、最期の言葉を――
「さような――」
そう言いかけた。その時だった。
「待て、朝凪!」
声のした方を向くと、ボロボロで息も絶え絶えの時浪さんがいた。
■
ようやく、灯台まで辿り着き目にした光景に叫んだ。
そして、彼女はこちらを向いた。
間一髪、朝凪はすでに柵に手をかけていてあと少しでも遅ければ取り返しのつかないことになっていただろう。だが、間に合った。
「はぁ、言いたいことは、言わなきゃいけないことは山ほどある。でも、その前にこんな場所に居たら危険だ。一緒に帰ろう、朝凪」
そう言って、歩み寄ろうとすると彼女は悲痛な表情を俺に向けた。
「どうして、せっかく吹っ切れたのに、せっかく両親のところにいけると思ったのに、なんで邪魔をするんですか。あなたは……」
いつも優しく微笑んでいた柔らかな表情など、どこにもない。それは、彼女の本心であり、この表情も状況も、作り出したのは俺自身だ。だから、受け止めなければならない。
「悪かった。本当にごめん。許せないかもしれないけど、俺はこうしかできない」
払える代価を持ち合わせていない。だから、初めから言葉を尽くすしかないんだ。
「私の話、聞いたんでしょう?それなら、私が何を望んでいるのかも知っているでしょう?時浪さんは優しくて頭もいいから、どうにもならない時って多分、わかると思うんです。今がその時ですよ」
強い言葉は使わない。それは彼女の最大限の優しさの表れだ。しかし、それを今は部分的に否定しなければならない。
「いいや、その時だとは思わない。そう思ってたら、命の危険を犯してまでここに来ないよ」
どんな言葉がきても、受け止めて俺自身の気持ちを返すしかない。
「朝凪の望むものは確かにわかる。俺も母さんにもう一度、会えるならあいたいよ。でも、死んだ人になり替わるなんて出来ないから、会う事なんて出来ないから、諦めるしかないんだよ。朝凪は死ねば同じ場所にいけると思ってるかもしれないけど、そんなことはない。死とは消えることだ。生きている人とはもう、会えなくなることなんだよ」
自信の語彙のあらんかぎりを尽くして伝える。けれどまだ、朝凪は俯いてこちらに来てくれない。
「……一緒の場所にいけないのなんてわかってますよ。どれだけ旅をしても、もう両親の胸で泣くことはできません。ただ、死にたいだけ……でも、それが切り離せないんです」
思考を整理するのは容易な事じゃない。それは今回の件での、俺の精神状況からもあきらかだ。しかし、彼女にはこの場で両親への未練を断ち切ってもらうしかない。
だから、俺はまた彼女に残酷なことをいう。
「そう思うなら、どうして、そんな辛そうな顔をするんだよ!」
そう叫ぶ、朝凪は俺の顔を見つめて固まった。
「本当に人生を諦めたやつの顔を、俺は見たことがある。儚げで、透き通るように溶けてしまいそうで、美しいんだ。でも、今の朝凪はそんなんじゃない。ただの生きたいと願う、普通の人間だ」
死んだ人の顔は安らかだ。そして、人生を諦めた人の表情もそれに似た何かを感じた。少なくとも朝凪はそうだった。
「一緒に帰るんだ。全部謝るから、朝凪の悲しみも埋められるように頑張るから」
手を伸ばして、少しずつ近付いて行くと朝凪は最初のように拒絶しない。ただ、壊れそうな自分を必死で繋ぎとめている。
あと少し、もう少し手が届く。
しかし、そこで急な風が吹く。
「きゃっ!?」
朝凪はその風に煽られて、後方にバランスを崩す。
俺は叫んで手を伸ばした。
「朝凪ぃ!」
その言葉が届いたのか、彼女も俺に手を伸ばした。
風も雨も関係なく。なによりも早く彼女の手を俺は掴んだ。
「ぐ、おおぅ!」
気合いを込めて強引に朝凪を引き戻す。
その事実に「やった!」という暇もなく、次の出来事がおこる。
「あ、バランスがっ」
強引に引き戻した反動で、朝凪は次は前方に姿勢を崩して今度は見事に俺を下にして倒れた。
朝凪が俺の胸に覆いかぶさるような体勢で倒れたおかげで一瞬息が詰まったが、それよりも朝凪が心配で自然と声が出た。
「朝凪、大丈夫か?」
かすれ気味だがなんとか聞き取れる音量で、朝凪は頭を押さえながら手をついて起き上がろうとする。
「う、時浪さん、すみません」
その様子で一先ずは無事だと判断して、俺は安堵する。
「いや、謝ることなんてないよ。支えきれなかったのは俺の方だしな」
多分だが、引き戻すならもっとやりようがあったと思う。死の危険をただの転倒だけで済ませたのは我ながら名誉賞ものだが、にしても「支えきれなかった」という言葉の通り。ここまでの動きが褒められたものじゃないのは、確かだ。
しかし、それでも――
「本当に、無事でよかった。朝凪……」
俺は彼女を抱きしめた。
そうせずには居られなかった。濡れた肌でもしっかりと感じる体温に安堵の息がもれる。そんな俺を朝凪は何も言わずに受け止めてくれる。
雨の降りしきる灯台のふもとで、人知れず二人は抱き合った。
互いの生きた心地を分け合うように、確かめ合うように――
■
あの後、俺と朝凪はどこか雨風を凌げる場所はないかと探して、すぐそこにあった灯台は中に自由に出入りできることを思い出して、そこでしばらく時間を過ごした。
温はその間に朝凪から様々なことを聞いた。
両親のこと、この数年のできごと、今の生活、そして――自ら命を投げ出しかけたこと。
その全ては、他人である温にでもわかるくらい重苦しいものであった。
しかし、それと同時に意図せず俺との邂逅が生きる意味になっていたことを打ち明けられた。そして、その俺からの拒絶ともとれる行動が彼女の心にどれだけの傷を負わせたのかも……
俺はその場で必死に謝った。
朝凪は焦りながら何度も謝罪を受け入れ、頭を上げるように言ってくれたが、むしろそれが俺にはきつかった。
許さないで欲しかった。
謝ってはいてもそれを受け入れてほしくなどなかった。拒絶してほしかったし、それを償いにしたかったのだと後になって思う。けれど――
彼女は決して責めるようなこと、傷つける目的の罵りなどしなかった。それは単純な優しさとは少し違って、彼女自身、今回の事には責任を感じているらしく、自分こそ謝りたいといった様子だった。
俺たちは互いを許し合うことで根本的な解決を図った。
それからは気分も楽になって、互いにいつも通り話す事が出来た。高揚した気分が収まると彼女の雨に濡れた艶やかな姿を姿を直視できず、目をそらしたりもした。
そうしてかなりの時間が経ち。
雨音が聞こえなくなったと思ったら、すでに時刻は深夜だった。ゲリラ豪雨だったみたいだが、かなり長いこと降り続いていたみたいで地面はぬかるみ荒れていた。
周囲が暗い事もあって、今日中に帰る事は諦めて一晩を灯台で過ごすことにした。携帯で祖母に連絡して、朝凪の家には自分が連絡しておくと言ってくれたのでそれに甘えさせてもらった。
電灯が少なく暗い灯台の中で一晩男女が二人きり。
よからぬ連想をしてしまいそうな展開だが、そんな創作物みたいなことにはならず、俺と朝凪は疲れ切ってそのまま寝てしまった。
そして、翌日の朝――
◇
目を覚ました俺と朝凪は灯台を出た。
暖かな陽光が差し込み、目の前にはいつも通り幻想的な美しさを誇る青の景色が広がっていた。
「綺麗ですね」
朝凪の瞳にはちゃんと色が映っていた。透明なんかじゃない。未来を見据える希望と光の色。
もう溶けてしまいそうな儚い印象はない。
「ああ、そうだな。でもそれは、きっと、朝凪と見ているからだよ」
純粋に俺も思いを言葉にしよう。彼女に答えて――
「……嬉しいです。あなたに、そう言ってもらえて」
彼女の顔は朱色に色付いている。
俺も多分……
その場では、もうお互いに顔を見ないようにした。きっと、そうなれば思いのすべてが完結するからだ。
けれど、俺達には――俺にはまだまだやらなきゃならないことがある。幾つもの約束をしたから。
◇
その後、俺達は一緒に帰り道についた。
そういえば、今まで一度も帰り道を共にしたことはなかった。いつも俺が先で、朝凪はあそこに残っていた。
今にして思えば、あれも一種の臆病だったんだ。朝凪に過度に干渉するのが怖くて、俺自身が踏み出す勇気を持っていなかった。だから、こんなことになった。
けど、もうそうはならない。
「悲しみを埋める」と、「一緒に帰る」と、誓ったから。約束したから。
遂に山道を下り終わって、住宅街を歩く。
雨に濡れた建物、道、草葉が陽光を反射する。眩しく暖かな道を朝凪と歩く。
しばらく、歩いてようやく馴染み深い和風建築の家が見えてきた。
「やっと、帰って来たな」
そう独り言をこぼしてしまう。
「ここが、時浪さんの……」
なんだか感慨深そうに目の前の家を見る朝凪が、なんだか可愛らしく見えてしまう。
「やっぱり、一人で帰ってくるのと、全然違うな」
「ふふ、そうですね」
俺の言葉に朝凪は優しく微笑み返してくれる。それだけで、満ち足りた気持ちになれる。
そうして、笑いあっていると家の引き戸が拓く音がした。
「あら、帰ってきていたのかい」
出てきたのは祖母で、俺達二人を見るなりなんだか安心したような表情を浮かべた。
「祖母ちゃん、ごめん。心配かけて」
俺がそう言ったのに対して、祖母ちゃんは朗らかに笑った。
「良いんだよぉ。ちゃんと、そちらの娘さんを連れて帰って来たんだ。よく頑張った、温くん」
祖母ちゃんが朝凪に視線を向けると、彼女はなんだか緊張したような面持ちになった。
「あ、あの、その……この度は、ご迷惑をおかけして――」
言いかけたのを止めるように、祖母ちゃんが朝凪の両肩に手を置いた。
「若い娘さんが、細かいことは気にするものじゃない。男が女を迎えに行くのは当然さ。朝凪の譲さんも、よく頑張ったねぇ」
その言葉に、朝凪はどれほど救われたのだろう。
俺だけじゃない。俺以外の人からの言葉も必要だった。それを、祖母ちゃんは言ってくれた。
朝凪は涙をこらえて、言葉をかみ締める。
「ありがとう、祖母ちゃん」
純粋な感謝、祖母ちゃんは頷いて俺達は家に招き入れてくれた。
◇
居間で一息ついて、寝転がり、大きく伸びをする。
「ふふ、大きな伸びですね」
背後からそんな声が聞こえたかと思うと、隣に少女が座った。
「色々とあったからな。これくらいは許してくれ」
俺はそう言って視線を彼女とは反対方向にむける。しかし、これは彼女を見ないようにするためでもある。
なぜなら、彼女はお風呂上がりだからだ。俺達は、昨日から雨にびしょ濡れボロボロで帰って来たわけで、当然そんな状態だから、最優先は風呂だった。
俺は離れの、朝凪は母屋の風呂に入り、今に至る。
時刻はすでに正午近い。
「「……」」
二人の間に、静かな時間が訪れる。
いつまでもこうしてられない。何か、言葉を紡がなければ、約束したから。
俺の若干の焦り、それを感じ取ったのか朝凪が沈黙を破る。
「焦らなくていいんですよ」
そう言って、俺の目の前にくると同じように寝転がる。
「私達は、二人なりのペースで、空気感でやっていけば良いんです。すぐに、何かを変えるんじゃなくて、こうして」
目線を合わせ、体を寄り添わせて、互いの存在を感じるように手を繋ぐ。
「時間かけてゆっくりと、私達で、私達を育んでいけばればそれで」
最後に満面の笑みを見せて。
「私は満足なんです」
それが彼女の本心であることは、俺にはすぐにわかった。目を見れば分かるのだ。
だからこそ、俺からも言葉を尽くす。
「そうだな。ありがとう」
朝凪の頭を撫でると、彼女はふわりと柔らかな表情をする。
「それにしても、朝凪の目は正直だな」
これは俺なりの表現だ。彼女に対して紡がれるであろう数多の言葉の一つ。
「私の目が正直、ですか?」
朝凪はよくわかっていないといった様子だ。
「そう、君の目はよく感情を映している。優しい気持ちの時は安らかな色をしていて、悲しい気持ちの時ほど透き通っていて……俺はそれがとても好きだ」
告白の一歩手前。いや、もうこれはそう捉えられても仕方がない。
けど、もう自分の気持ちに嘘をつきたくない。彼女に嘘をつきたくないから、何度でもこうして確かな気持ちを口にする。
しかし、言われた方は気が気でないようで、すこし頬を朱色に染めた。
「ありがとうございます。嬉しいです」
朝凪は照れ隠しをするように、俺の胸に顔をよせる。満ち足りる。そんな感情が溢れる。
「うん。これから、何度でも言うよ。約束したからな」
こうして、いつまでも互いの存在を確かめ合い。歩いていこう。
そうすることで、きっと……
それから、俺と朝凪はそのまま並んで寝てしまい。それを見た祖母ちゃんが微笑ましく見ていたとか。
◇
八月も終わり辺りに近づく中、俺と朝凪の関係はというと特に変化はない。
でも、朝凪はよく祖母ちゃんの家に来て俺と話すようになった。あの灯台ではない場所でも、俺と朝凪は一緒に居るようになった。
昼下がりの時間、そんな朝凪と二人であの灯台まで足を運んでいた。
夏の猛暑ももう少しで終わる。九月、十月にもなればこの辺も肌寒くなるだろう。そして、夏が終わるという事は……
「朝凪、俺さ……」
いつ話そうか悩んで、結局こういうタイミングしかないと思った。
「分かってますよ。帰るんですよね、都会に……」
朝凪は俺の言うことが分かっていた。確かに、都会の話は何度もしてたから時期的に察するのは当然だ。
「ああ、朝凪にもしばらく会えなくなる」
来年は俺も受験だし、これから色々と忙しくなる。だから、次の年のお盆休みや正月にまた来て会うなんて言うのも難しい。
それを知っているからか、朝凪は穏やかな表情でこう言った。
「仕方ないですよ。時波さんの将来にとって重要な時期なんですから」
その言葉を聞いて、朝凪は俺なんかよりもずっと大人なんだと思った。俺はというと、正直いってちょっとしんどい。
「そうだよな。仕方ない……別に今生のわかれって訳でもないしな」
俺は下見きながら、そう言う。
自分で何をやっているんだと思う。朝凪はこんな気丈に振舞っているんだ。俺がこんな調子でどうするんだ。
でも、顔を上げる事が出来ない。
「はい。絶対にまた会えます。……いえ、会います」
そう言って、朝凪は優しく俺の背中に手を置いた。その優しさが嬉しい。でも、こうして触れられてわかったこともあった。
顔を上げて、朝凪を見た。彼女は優しい表情をしている。多分、それは俺のためだ。
「こんなに手、震えてるじゃないか」
「――っ」
俺の背中に置かれていた手を取ると、小さく震えていた。
朝凪は困ったような顔をした。
「……ごめんなさい。私は臆病なんです。だから、こうして、折角巡り会えた大切な人と会えなくなるからどうしても」
そんな朝凪を見て、俺の中にあった寂しさは和らいだ。彼女が傍にいない不安や寂しさ、それは大きな事だ。でも、彼女が感じる寂しさはもっと大きい。
彼女がどれだけ大人であろうとしても、過去が与えた傷はそう簡単には消えない。隠すことだって難しい。
「そうだよな。大切だもんな。俺も同じだよ。朝凪と会えなくなるのが寂しくて、現状のまま止まってしまいたいだなんて思ってしまった」
でも、それは俺の願う事じゃない。
その願いは彼女の物だ。
「朝凪、君は俺の事を引き留めてもいいんだ」
その言葉に、朝凪は目を丸くした。
「え?」
俺は言葉を続ける。できるだけ、彼女に届くように――
「俺は約束した。君の悲しみを埋めると、その為に頑張るって――でも、離れるっていう事はそれを果たす事が一時的に出来なくなるって事で……要するに、俺は嘘つきってことなんだ」
「嘘つき?」
「そう、俺は嘘つきなんだ。だから、そんな男のために君が我慢することはない。我儘いって、泣いて困らせて、引き留めてもいいんだ」
それが、俺のかけるべき言葉なのかはわからない。でも、これしか今の俺には思い浮かばない。
それ聞いた朝凪の瞳が、少しずつ潤い涙がたまりだす。
「やめてくださいよ。そんなこと言うの……時波さんはそんな人じゃなくて、この言葉だって私のために言ってるんです」
「いや、本心だよ。事実、俺は君にとって一番大事な時期に傍に居ることができない」
彼女が成長していくのはこれからだ。過去を本当の意味で乗り越えて、年月があと少し経てば幼い様子は鳴りを潜めて立派な女性になるだろう。でも、俺はその間を共に歩むことはできない。
「その言葉だって、全部私の為じゃないですか……自分のことを悪く言って、あなたは何も悪くないのに、私を感情的にしようとしている」
「無責任な約束をして、悪くないも何もないだろ。だから俺は、君に怒ってほしいんだ」
その言葉が引き金になったのだろう。
「支離滅裂ですよ。……そんなの、離れたくないに決まってるじゃないですか!でも、それは仕方ないことだし、時波さんには時波さんの人生があって、私の人生はあなたに救われたから、せめてあなたの重荷ならないように、頑張って笑顔で送り届けようって思ったのに」
堰を切ったかのように、朝凪は言った。大粒の涙を流して、必死で……
「こうして、またあなたに対して泣いて叫ぶくらいなら、人知れない夜に部屋の中で嗚咽を漏らす方がずっといい。……それを、こんな形で気持ちを発散しろと言われたって、あなたを『嘘つき呼ばわりして罵れ』なんて言われたって、嫌に決まってるじゃないですか!?」
朝凪はポコポコと俺の胸を叩く。
「そんな時波さんは嫌です……あなたは私にとって大切な人なんです……」
胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らす彼女に俺は苦笑をこぼす。
そう、朝凪幸とはそういう女の子なのだ。そして、その女の子に俺は惹かれた。
「すまないな。でも、大丈夫、俺はずっと君の大切な人であり続けるから」
朝凪は強い子だ。一度泣いたら、きっとそれからは寂しくても耐えていける。万が一にも、この子が折れてしまわないように今やるべき事をする。
朝凪を一度離して、しっかりと目を見て俺は言う。
「約束だ。三年後、夏の日にまたここに来る。きっと、ここでまた会おうぜ」
朝凪は涙をぬぐって、目一杯の笑顔でうなずいた。
「――はい!」
ここなら、俺と朝凪はまたきっと会える。
不思議な灯台下、いくつも出会いを紡いできたであろうここなら――朝凪と俺を出会わせてくれたここなら、必ずまた巡り合える。
時波温と朝凪幸は、夏の灯台下で約束をした。
◇
それから一週間後、温は支度を済ませて祖母の家を出た。
最初にきた道を辿って、駅に着くと列車を待った。
「おし、それじゃあ」
電車に乗り込み、夏の思い出を刻んだ地にしばしの別れを告げる。
座席に座り、窓の外を見る。
トンネルを抜けると、素晴らしいほどにきれいな海の景色が広がる。そして、その視界の奥に小さくあの灯台が見える。
「……あ」
俺はふと、灯台下の広場に一人の少女の姿が見えた気がした。
目を凝らそうとすると、すぐに次のトンネルに入って見えなくなってしまった。
なんだか脱力して、俺は呟いた。
「まさかな」
■
大海原の風を受けて、草葉がたなびく。
「さよなら。また会いましょう。私の大切な人――」
一人の少女は、遠方でトンネルに隠れてしまった列車に向かってそう言った。
□三年後……
舗装されているにしては急な傾斜の細道を、木漏れ日を受けながら歩く。
もうこの道を行くのも慣れたもので、数年ぶりでも難無く光の出口へと抜けた。
「はぁ」
息をついて、三年ぶりに来たその場所を見る。
灯台は劣化を感じさせない佇まいでそこに立ち、地面に生える草葉は潮風をうけて揺れている。
目の前に広がる幻想的な景色を瞳に映して、懐かしさに浸りながら前に進む。
約束した。この場所で会うと、また必ず巡り合うと――
「……」
柵の近くまで行き、そこを見た。
三年前に、少女がいた場所。
そこには……
「さすがに、きついか」
彼女いた名残すらもないままに、ただ整然としていた。わかっていた。我ながらガキ見たいな約束をしたって、この世界は物語じゃないんだって……
それでも、最後にここに来たのは確かめたかったからだ。
「元気にしてるかな」
別に、ここで会えなくても会いに行けばいい。今日は居ないだけかもしれない。大人になれ俺。
「……はぁ、こんなんじゃ笑われるな」
苦笑交じりにそうこぼした時だった。
「ええ、そうですね」
声が聞こえた。
聞こえたのは後ろで、その声の主と思われる人物は一歩、また一歩とこちらに来ている。
「案外かわってなくて、安心しちゃいましたよ」
少女の声に儚げな色はなく、むしろこの景色以上に輝いているように思う。
「――だーれだ?」
その言葉と共に、後ろから手が回されて俺の視界が暗転した。
「そうだな、ヒントがないとわからないな」
そう言うと、少女は優しい声音で笑って、こう続けた。
「そうですね。あなたのことが何よりも大切で、でもちょっと面倒くさくて、ずっとここで待っていた。ここで、ある人とまた会う約束をした女の子」
俺は微笑して、それでもしっかりとした声音で答える。
「答えは、朝凪幸――だろ?」
そう言って、手の目隠しを取って後ろを振り返ってその少女を見た。
「正解。お久しぶりです。時波温さん」
嬉しそうに笑う朝凪がそこにいた。でも、彼女はもう少女ではなく立派な女性だった。
薄化粧をしたあどけなさが残る顔立ちは、それでも昔とは違った気品がある。透き通るように綺麗な亜麻色の髪はハーフアップに編み込まれていて、柔らかそうな唇には薄くリップが塗ってあり、彼女の変化が見て取れた。
服はあの時と似たワンピースのようだが、完全に同じではなくしっかりとオシャレに気が使われている。
それでも、空色の双眸に映る色は変わらず元気な彼女のままだ。
「ああ、久しぶり。遅くなって悪かったな。綺麗だよ、朝凪――いや、幸」
そう言うと、幸はすこし顔を赤らめて俺を見た。
「そっちこそ、心はあの頃のまま純粋なのに、外見はすっかり大人になりましたね」
お互いに成長した。その姿に気恥ずかしつつも目を離せない。
これから、再会した俺達には色んなことがあるだろう。でも、その未来に進む前に言うべきことがある。
「改めて待たせてごめん。約束通り、迎えに来たよ。もう絶対に一人にはしないから――俺は君が好きだ。一緒に生きてほしい」
俺はずっとこの言葉を彼女に言いたかった。でも、子供だったあの頃は言えなかった。
大人になった今だから、ようやく彼女に言えた。
「もう、言うのが遅すぎます。私、ずっと待ってたんですから……」
幸は涙が溢れそうになるのを抑えている。
「まあ、成長した朝凪幸には、俺の存在なんてもう無くても良いかもしれないけどさ」
そう言うと、幸は俺の目を真っ直ぐに見て答えた。
「冗談じゃないです。ずっと、あなたの事だけを思ってました。私もあなたが好きです。大好きです」
好きな女性からそう言ってもらえると喜びと、幸の成長で俺も感極まってしまいそうだ。でも、男が泣くのはそれこそ一人の部屋で良い。だから、今は――
「ありがとう。俺も大好きだよ」
目一杯の愛情を伝えよう。
幸はすでに頬に涙が伝っている。それでも、言葉を紡ぐのはやめない。
「……あの日、あなたが言った通り。沢山我儘を言って困らせてやるんですから、今まで寂しかった分、寄り添って離れません」
そうだ、これからは寄り添って二人で生きるんだ。
「ああ、ずっと一緒だ。幸」
そう言って、彼女を優しく抱き寄せた。
「はい……ずっと一緒です!」
幸はそれを受け入れて、彼に答えた。
二人は幻想的な景色の中、暖かな陽光に照らされて誓い合った。
■
物語はここで一時の終幕となる。
少年と少女は歩いていくのにだろう。未来という光の中を――
誰かにとっては変わらない日常であっても……
誰かにとっては大切なものに出会う夏のひと時。
私はまた、あなたにこう聞くのだろう。
「あなたに大切な人はいますか」
終
読了ありがとうございます!
しっかりとした短編は初めてだったので、出来が良かったとは言い難いかもしれませんが
これからは季節ごとにこんな感じでひっそり短編を書いていこうと思います