価値の意味
翌日、廉は9時に起床すると、眠たい目をこすりながらダラダラと準備を始めていた。
昨夜遅くまで電子書籍の新刊をいくつも漁っていたせいで、寝たのは4時過ぎ、完全なる寝不足である。
⋯⋯眠い。この状態であの人のテンションについていけるだろうか。
一抹の不安が頭をよぎったが、今日から働く事実は変わらない。心配するだけ無駄というものだ。
廉は眠気覚ましのインスタントコーヒーを飲みながらヴェールに向かってテレビのニュース、と呟く。するとヴェールはすぐに応答し、一瞬でテレビがついた。
「昨夜未明、東京都港区で複数の発砲音がしたとの通報があり、現場に警察官が駆けつけました。発砲による負傷者はおりませんでしたが、警察によると鶴賀田組の幹部がこの辺りで目撃されたとの情報が出ており、何らかの形で鶴賀田組がこの件に関与していると見て、捜査を続けています」
ーー鶴賀田組。
数ある東京のヤクザ組織の中でも最も力を持つと言われている、東京の頂点に君臨するヤクザ組織である。4代目組長である鶴賀田千次郎は高齢であるものの、未だ権力は衰えておらず、東京の裏社会を牛耳っているという。
近頃目立った動きはなかったものの、最近東京で幅を利かせている中国マフィアとは一触即発の状況にあるという噂だ。
「東京は物騒だなぁ」
ニュースを見た廉はポツリと呟く。
廉の地元で起こる犯罪といえばせいぜい万引き程度で、発砲事件など無縁の世界なのである。
残りのコーヒーを飲み干すと、廉は古書店へ向かった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「来ない⋯⋯!!」
約束の10時から30分は経過していた。
今から30分ほど前。廉が店に着くと、待っていたのは昨日の変人店主ではなくシャッターの閉まった古書店であった。
なんとなく嫌な予感がし、昨日もらった名刺の番号に電話をかけてみるものの、着信音が続くだけで一向に出る気配はない。
連絡がつくまで近くのカフェで時間でも潰そうかと思ったが、変なところで律儀な性格の廉は結局店の前で冬夜が来るのを待ち続けているのだった。
約束の時間から40分が経過しようとした時、ようやく冬夜が現れた。
なんで電話に出ないんだ、と抗議しようとしたが、冬夜を目にした瞬間廉の中では苛立ちよりも驚きが勝っていた。
なぜなら今日の冬夜は着物姿だったからである。
「いや〜ごめんごめん。完全なる寝坊をかましてしまって」
謝る気が全く感じられない謝罪に再びイラっとしたものの、廉は怒りを飲み込み冬夜に質問を投げかける。
「てかなんで着物なんですか」
「気分だよ。今日はね、日本文学を読みたい気分なんだ。そうと決まればやっぱり着物を着ないと」
ため息すら出ない。
しかし昨日の時点で冬夜が相当な変わり者だということは分かっていたので、廉はこれ以上深掘りするのもイライラするのもやめることにした。
「まずは何から覚えたら良いんですか?」
ガラガラとシャッターを開けながら冬夜はそうだねー、と呟く。
「とりあえず、積み上げてある本を本棚に片付けるところからかな!」
廉は店に入るとまじまじと店内を観察する。昨日と同様、店内にはいくつもの本の山が築かれている。今日の服装から察するに、冬夜はこれを自ら片付ける気は無いのだろう。
昨日も思ったけど、よくこれで営業してたな⋯⋯。
廉は特別綺麗好きという訳ではなかったが、それにしても営業中の店内の至る所に本が積み重なっている状態は、流石に受け入れ難かった。
「冬夜さんって本が好きなんですか?」
そう廉が問いかけると、冬夜は不思議そうな顔をして廉を見つめる。
「好きだよ。どうして?」
「だって本が好きな人って本の配置とかにもこだわってるイメージだから⋯⋯床に山積みにしてるのが不思議で」
すると冬夜はなるほど、というように頷くとまるで大人とは思えない理屈を言って述べる。
「本は好きだけどね、片付けは苦手なのさ。苦手というかね、嫌いだね。だいたい綺麗に整頓されていたってどうせすぐ手元に持って来たくなるんだから片付けることに大した意味なんてないと思うんだよなぁ」
「⋯⋯冬夜さんいくつですか」
「28歳♡」
なるほど。これから自分はこの頭の中がお花畑で鬼マイペースな28歳の元で働くことになるのか。
そう理解すると一瞬気が重くなったものの、これも社会経験だ、と自分に言い聞かる。実際、大学を卒業したら、もっと厄介な上司と働く羽目になるかもしれないのだ。
本の並び順は任せるよと冬夜は言うので、とりあえず著者の名前順になる様、近場にある本から一つ一つチェックをしていく。
店の中にある本は洋書が多く、中にはまるで古くから受け継がれて来た伝説の魔導書のような重厚そうな本もあった。最早読むためではなく、インテリアとしての方が重宝されるのではないかとさえ思える代物だ。
この変わった店長が営む古書店の品揃えとしては納得がいくものの、果たして本当に商売として成り立っているのか、廉は疑問が増えるばかりであった。
「お客さんって1日にどれくらい来るんですか?」
廉は両手に持った本の著者を確認しながら聞く。
「んー、ほとんど来ないね!1日4、5人ってところかな」
パソコンをいじりながらまるで何も問題ないかの様に答える冬夜に対し、廉は驚いた様な声をあげた。
「それって全然売り上げにならないんじゃないんですか!? ていうかそもそも俺なんか雇ってる場合じゃないんじゃないんですか? 家賃も光熱費もかかるのに⋯⋯」
確かにこの土地は銀座の一等地でもなければ渋谷の駅前でもない。しかし23区内である以上、廉の地元の家賃とは比べ物にはならないし、仮に家賃が同じだとしても、たかだか4、5人の売り上げでは支払えるはずがないのである。
「初日から売り上げの心配をしてくれるなんて、子鹿君は本当にやる気の塊だね!若者の鏡だよ!いやー僕の目に狂いはなかった。もうマネージャーにでも昇格させても良いかもしれない」
名案だろう、と言いながら冬夜は楽しそうに笑っている。
「いや、そんな話じゃなくて⋯⋯」
廉が困った様にそう言うと、冬夜は落ち着いた口調で話し始めた。
「ここはね、僕が趣味でやっている店だから、そもそも採算なんて度外視なんだ。今はネットで何でも帰るけど、海外まで足を運んで僕が買い付けてるものも多いしね。自分で、自分自身のために、お気に入りを詰め込んだ場所を作りたかったんだ」
まるで我が子を慈しむ母の様に穏やかな表情で話す冬夜を見ると、彼自身にとって、この店がとても大事な場所なのだということが伝わってくる。売り上げなんて立たなくても、この店は存在するだけで、きっと彼にとって何にも変えられない価値のある場所なのだろう。
自分で自分自身のために何かを出来るって、ちょっとかっこいいな。
廉は冬夜と出会って初めて、ひっそりと彼を尊敬した。
「それに、収入源は別にあるから売り上げは本当に気にしなくて良いのさ。ちなみに僕はこう見えて高級デザイナーズマンション住みだから」
自慢げにそう言うと、冬夜はふと何かを思い立ったのか、手を叩いて僕を見つめる。
「子鹿君、今晩空いてる?」
「え? まぁ空いてますけど⋯⋯」
「よし。遅刻のお詫びに今晩はピザパをしよう! ピザパをしたら最早親友も同然! あー楽しみ楽しみ」
さっきの尊敬の念とは打って変わって、この人友達いなさそうだな、と廉は静かに同情するのであった。