鶴賀田組
「昼間から飲む日本酒もなかなか良いものですね」
同日午後3時、神楽坂の料亭の個室にて冬夜は日本酒を楽しんでいた。
冬夜の座る向かいには、かなり年配と思われる白髪の男性が座っており、その男性もまた冬夜と同じく日本酒を嗜んでいた。
落ち着いた緑色の着物と菩薩顔が相まって、男性からは穏やかながらも妙な貫禄が感じられた。
「もう少し時期が早ければわしの家で桜でも見ながら酒盛りができたんだがなあ」
残念だ、と言いながら老人はゆっくりとお猪口を置く。
障子の先の中庭からは水のせせらぐ音が聞こえ、まるで東京ではない場所にいるかのようだ。
「東京を牛耳る鶴賀田組の邸宅で日本酒を楽しめるほど僕は肝の座った男じゃないですよ、千次郎さん」
「どうだかな」
鶴賀田千次郎。この国の裏社会に生きる者の中で、その名前を知らない者は一人としていないだろう。千次郎は東京を牛耳るヤクザ鶴賀田組のトップであり、東京の裏社会の頂点とも言える男だ。
それ故、名前が出るだけでもその場に緊張が走る様な存在ではあるが、当の本人はどちらかと言うと温厚なタイプの人物であった。
綺麗に盛り付けられたお造りから刺身を一枚取ると、千次郎はゆっくりと味わい静かに口を開いた。
「どうやら最近、招いてもいない小童たちのせいで庭が騒がしくてのう」
静かな部屋をゆったりとした重圧感が埋め尽くしていく。
冬夜はふふっと笑うと、でしょうね、と言って話しを切り出す。
「その件で、新しい情報というにはいささか新鮮味がないですが、一応お見せしたいものがありまして」
すると冬夜はタブレットを取り出し、一枚の写真を見せる。先日リロイが撮影した中国マフィアと派多部グループのNo.2、城ノ島正の写真だ。
「なるほど⋯⋯確かに想定内、新鮮味はないが、今まで奴らの繋がりに関しては決定打に欠けていたところだ。これはこれで悪くはない」
「お気に召していただけた様で何よりです。これが現像したもの、データは後ほど」
そういうと冬夜はカバンから封筒を取り出し、千次郎に渡す。
デジタル社会になったといえど、皆が皆デジタルに強いという訳ではない。現物を一緒に渡すのは千次郎に対する冬夜なりの気遣いであった。
「それにしても、中国マフィアと派多部グループか。奴らに何らかの繋がりがあることは気づいておったが、実際に並んだところを見てみると実に気に入らんのう」
冬夜から受け取った封筒から写真を取り出し千次郎はまじまじと見つめる。
表情こそ読み取れないが、どこかピリついた空気を放っているように感じる。
「この前ニュースになっていた六本木の事件も、中国マフィア関連ですか?」
冬夜はふと思い出したかのように、千次郎に尋ねる。
「この間の話か。わしの倅がちいと派手にやりおっての」
伏し目がちにそう言うと、千次郎はため息をつく。
「あいつとは目的は同じでも、どうも辿り着くまでの過程が交わらんくてな。いくつになっても世話を焼かせる」
千次郎の息子である鶴賀田久信は鶴賀田組の若頭だ。
久信はいかにも裏社会の人間であるというような雰囲気の男である。大柄な体格と鋭く冷たい目つきは、久信の存在を知らない者であっても堅気の人間だとは思わないだろう。
そんな久信は見た目通り、かなり好戦的な人物だ。じっくりと根回しをしながら敵を貶める千次郎に対し、久信は敵とあらばすぐさま潰しにかかるタイプだ。恐らく今回の六本木での発砲事件も千次郎の思惑とは別に、久信の独断で動いた結果なのだろう。
「招かれざる客をさっさと始末して、あなたを安心させたいのかもしれないですよ。彼らはなかなか過激だっていう話ですし」
「はっ。あいつはそんなこと考えちゃおらんよ。手っ取り早く手柄を上げて、さっさとわしを引きずり落としたいってところだろう」
からりとした様子で話す千次郎。
今のご時世、親子仲が悪いというのは珍しい話ではない。特にその親子が裏社会の人間という立場であれば尚のことだろう。
しかしそれ以降千次郎が久信の話を続けることはなく、千次郎の言葉がどれだけ現実味を帯びている言葉なのかは分からずじまいであった。
「そう言えば⋯⋯前から気になっていたんですけどあなた方もこれ、つけてるんですよね?」
冬夜は自分の左腕に付けているヴェールを指差す。
「もちろん。国民の義務、だからな」
まるでテストの解答のような、ヤクザのトップにはあまりにも似つかわしくない返答だ。
「それにこの国ではもうこれなしでは生活など出来んだろう。全くあやつら、余計な腕輪をはめさせおって」
その言葉はわずかに怒りが感じられた。
千次郎の言う通り、この国で生活するにはヴェールが不可欠である。何しろヴェールがなければ金銭のやり取りをすることは不可能であるからだ。
ヴェールを利用するには、個人情報の登録が必要となる。ヴェールが普及された当時、国民は一斉にその登録を強いられた。
恐らく裏社会の人間にとってはその個人情報の登録という行為が実に厄介なことなのだったのだろう。
そのこともあってか、千次郎はヴェールの開発をした派多部グループを嫌悪しているようだった。
「しかしその余計な腕輪をつけながらも、今も問題なくあなた方が生活できてるのは東京の七不思議というやつですね」
冬夜の言葉にはははと笑うと千次郎はくいっと日本酒を飲み干した。
そしてポツリと静かに呟く。
「わしからしてみれば、お前さんの存在の方が七不思議だがな」