路地裏
やばい、気がする。
廉はとっさに振り向いてしまったことを後悔していた。廉の中の危機察知センサーは、ものすごい勢いで警報を鳴らしている。
廃墟ビルが立ち並ぶ薄暗い通りに、明らかに堅気ではないスーツ姿の男たち。もちろんこんな場面に遭遇するのは初めての経験であったが、経験はなくとも今取るべきであろう最善の策はしっかりと理解していた。
ーー逃げよう。
そう結論を出すと廉は体を回転させ、利き足に力を込める。
しかしその瞬間、
「おい、お前今こっち睨んでただろ」
そんなお決まりのセリフが廉に投げかけられる。
男たちはニヤニヤとした表情でこちらへ向かって来る。
こんな一般の大学生に絡んで何が楽しいんだよ、と心の中で叫びながら廉は男たちの言葉を無視し走り出す。
しかし怖気付いているからか、体が思う様に動かず全速力では走れない。地面を蹴る足の感覚は何だかいつもと違く感じるし、ドキドキとうるさい鼓動のおかげで走るリズムも乱れてしまいそうだ。
案の定20メートル程走ったところで足がもつれ廉はその場に倒れこんだ。
「いってぇ⋯⋯」
すると追いついた男たちが倒れた廉を囲う様にして立ちふさがる。
「いつもならお前みたいな奴には構わねぇんだが、今はちょっと訳ありでな」
リーダー格の様な男が話し出す。
大きく開いたシャツの胸元からは鱗の様な模様の刺青がのぞいて見える。
「お前らなんていつも訳ありみたいなもんだろ」
訳ありという言葉に少し引っかかりを感じたものの、廉は反射的に言い返していた。
その言葉を聞くと男たちは声をあげて笑い、確かにそうだなと呟いた。
「だがな、今はその訳ありの中でも更に訳ありな状況って訳だ。」
すると一呼吸おいて、男が廉に問いかけた。
「何でこんなところにいたんだ?」
どうやらすぐに廉を袋叩きにするつもりはないらしい。さっきの訳ありという言葉からして、誰かを探しているのか、または何かの情報を得たいのだろうか、と廉は推測する。
「⋯⋯待ち合わせ」
「誰とだ」
間髪入れず男が問う。心なしか先ほどよりも目に鋭さが増した様に見える。まるで獲物を狙う蛇の様な目つきだ。
「知らない」
短く答える廉に男は苛立ちを覚えたのか、廉の胸ぐらを掴み勢いよく左頬を殴りつけた。
「知らないなんて都合のいい話が通用する世界じゃねえんだよ」
鈍い痛みが左頬に走る。咄嗟に歯を食いしばったものの、口の中には血の味が広がっていく。
痛みを堪えながら廉は必死にここから逃げだす方法を考えていた。
正面の道を左に曲がりツーブロック程走れば車道のある通りに出るはずだ。人通りの多い通りではないものの、そこまで出てしまえば助けを求めることくらいはできるだろう。
しかし問題は3人の男に囲まれた状態をどうやってすり抜けるかだ。いや、それだけじゃない。
さっき転んだ衝撃で足を軽く捻ってしまっていた。これでは仮に男たちをすり抜けたとしても、追いつかれずに通りまで出られる可能性は限りなく低い。
思考を巡らせている間にリーダー格の男とは別の男が背後から廉の髪を掴み、無理やり頭を引き上げた。
「誰と、待ち合わせてたんだ」
廉にとってそれを隠す理由はない。そもそも話したとしても、黒髪の女性という写真で見た情報しか与えてもらっていないため、大した情報源にはならないであろう。
しかし何故か、廉はそれを話す気にはならなかった。女性を売るわけにはいかない、という大義名分を持ち合わせているわけではない。理由を問われても正確に言葉にできる自信はない。ただなんとなく、これ以上何かの情報を漏らすことはいけない様な気がしていた。
黙っていると、リーダー格風の男の後ろにいた長髪の男がポケットから小さなナイフを取り出し近づいてくる。
「おいおい、黙ってたらさぁ、何もわかんないでしょ。あんまり手間とらせんなよ」
ひんやりとした冷たい感覚に神経が集中する。
長髪の男はそのままスーッと廉の頬をなぞる様にナイフを滑らせた。
血が頬をつたうのがわかる。
こんなところで訳も分からず死ぬのだろうか。地面を見つめ廉は思った。
頬の痛みやこれから起こるであろうことへの恐怖、それらは当然のごとく廉の中に存在してはいたが、廉は思いの外落ち着いていた。もしくはあまりに突然降りかかってきた死の可能性に頭がショート状態だったのかもしれない。
いずれにせよ、騒ぎ立てることも、泣き叫ぶこともしなかった。
何の反応もない廉を見ると、リーダー格の男は長髪の男と廉の髪を掴んでいた男に目配せをした。
すると廉の髪を掴んでいた男はその手を離し、長髪の男はリーダー格に男にナイフを渡すと一歩後ろに下がる。
「こっちも仕事なんだ。怪しい奴にはそれなりの対処をする必要がある⋯⋯」
そう言いながら廉の胸ぐらを掴み無理やり立たせると、そのまま廉の体をビルの壁に押し付けた。抵抗を試みるものの、男はびくともしない。
「もう一度聞く。誰と会う予定なんだ」
「だから、知らないって言ってんだろ!」
廉が言葉を言い終わるか終わらないかのタイミングで、リーダー格の男はナイフを持った右手を振りかざした。
ーーダメだ、避けられない。
反射的に目を瞑る。
ドン!
鈍い音だった。
想像していた痛みは感じない。咄嗟に目を開けると、目の前に立っていたはずの男はいなかった。
廉は一瞬目を疑う。
代わりに立っていたのは切れ長の目をした綺麗な黒髪の女性だった。