プロローグ
「そこの黒いバン、止まりなさい!!」
白バイがサイレンを鳴らしながらどんどん迫ってくる。
バックミラー越しに見る白バイは、たかだか一台のバイクだというのにとんでもない迫力だ。
やばい。本気でやばい。何でこんなことに⋯⋯!!
鹿田廉18歳は都内に通うごく普通の大学生である。
今年の春大学に入るタイミングで上京しており、慣れない環境に悪戦苦闘しながらも、比較的無難に学生生活を送っていた。知能、運動能力、体格、家柄にいたっても特別秀でたものがあるわけではなく、まさに普通の大学生という言葉がぴったりの青年である。強いて言えば男にしてはやや童顔な顔つきで、どこか人懐っこい印象を与えなくもないが、特別モテるだとか、人気者だということもなかった。
そんなどこを取っても平均点の様な廉は、当然高校を卒業するまでの間、これといった問題も起こさず、また巻き込まれることもせず平穏に生きてきた。
いや、正確に言えば大学に入学した4月中旬くらいまでは。
ーーそうだ。あの日、あの場所を通らなければ。あの男と話さなければ。古書店のバイトなんて引き受けなければ。
廉の頭の中には次々と“あの日”の後悔が浮かんでいた。
“たられば話なんて意味はないよ、子鹿君”
頭の中であの男の声が響く。
わかってる、わかってるんだけども⋯⋯!
「あーもー何で白バイとカーチェイスしてんだ俺は!」
信号が赤に変わる直前にそのままのスピードで交差点を右折し、更にスピードを加速させる。法定速度など、とうの昔に超えていた。
車体の揺れの大きさに咄嗟に後部座席を見ると、手足を縛られた男はまだ気を失ったままだった。
その姿を見て廉はにわかに安堵の表情を浮かべる。手足が縛られているものの、目的地に到着するまでなるべくこいつには目覚めてほしくはない。廉はズレたサングラスを元の位置に戻しながらそう思った。
しかし一瞬安心したのも束の間、気がつくと先ほどよりも更に白バイが迫っていた。
その姿からは何としてもお前を捕まえるぞ、という気迫が車越しにもひしひしと伝わってくる。
どちらかと言えば廉は運転が得意な方だった。しかし果たしてこのまま白バイを振り切れるのだろうか。頭に不安がよぎったが、廉はすぐに振り払う。
すると車のスピーカーから男の声が聞こえてきた。
「廉、聞こえるか?その先の信号はあと3秒で青に変わる。そのままなるべくスピードを落とさず交差点に突っ込んで⋯⋯」
男の言葉に廉は言葉を失った。
正気かよ。レーサーでもスタントマンでもないっていうのにそんなことできる訳⋯⋯。
一瞬、アクセルを踏む足の力が弱まる。それを見透かす様に白バイは更にスピードを増してきた。ジリジリと白バイとの距離が詰められていく。物理的な距離も精神的にもギリギリまで追い詰められている状態だ。
このままだと追いつかれるのも時間の問題だな⋯⋯。
ふぅっと息を吐くと廉は覚悟を決めた。
ーーできる出来ないじゃない、やるしかない!!
違法行為中には全くふさわしくない言葉で自分を鼓舞し、ハンドルを握り直す。今までに経験したことのない程の集中力でただひたすらに正面を見る。
ーー神様、天使様、女神様!どうか、ここを切り抜ける力を⋯⋯!
都合よく神頼みをすると、俺はアクセルを思い切り踏み込んだ。一つ先の交差点は丁度青信号になったばかりだ。そのまま直進するか⋯⋯いや。
廉は右足に更に体重を乗せ目を見開く。毛穴という毛穴から汗が吹き出て手も顔も脇もびちょびちょだ。ハンドルを握る手は力が入りすぎて最早感覚もよく分からない。
交差点まであと3メートル。
2、
1。
全神経を集中させて一気にハンドルを切り交差点のど真ん中で大胆にサイドターン。
そしてそのままアクセルを踏み込み反対車線に流れ込む。
「俺のドラテクやばいかも⋯⋯」
鹿田廉18歳。
普通すぎる大学生は、現在猛スピードで殺人犯を配達していた。