序章その1
ミーン、ミンミンミン……。
ミンミンゼミの鳴き声と、大きな大きな入道雲。 人通りの少ない海辺の町を、潮風が通り抜けた。
そんな光景の中で、町の表通りを歩く人間が二人。
「ねぇ、雷牙ー、あづいよー。 アイス買おうよー」
喋っているのは、高校生くらいの少女だ。 背中まで伸びた黒髪に、やせた頬。 『スーパーGUTS』のロゴと光の巨人がプリントされたTシャツが風にはためいていた。
「やめとけ、病み上がりで喰うと腹を壊すぜ」
雷牙と呼ばれた青年が応える。 赤茶けた髪に、鋭い目つき。 隙の無い眼だ。 法被のように裾の長いベストは一張羅で、開けた胸元と肩口からは岩のような筋肉が見えていた。 そして、ベストの首元には、『六』の文字が刻印された黒いバッヂがつけられていた。
「それに、今夜の飯を買わねーといけねーのよ。 愛羅も、今日は食っていくんだろ?」
「ちぇ、わかったよぅ。 でも、雷牙がアイスを作ってくれたらいいのになー」
愛羅と呼ばれた少女がむくれた顔を向ける。 二人は腕がくっつくくらいに密着して歩いているので、雷牙の顔を見上げるような姿勢になった。
「……んー、体調がよくなったら、アイスくらい作ってやるよ。 そんなに難しいもんでもないしな。 だから、それまで我慢だぜ」
「やった! さっすがダーリン! 頼りになるぅー!」
「ダーリンはやめろ。 付き合ってても、それは恥ずかしいからよ」
そう言いながらも、雷牙は笑顔を零している。 その表情を見る愛羅も、満足げな笑みを浮かべた。
雷牙は、愛羅の顔色が優れないことに気付いていた。 ここのところ、ずっとだ。 ほんのわずかだが、顔がやつれている。 暑さのせいで、疲労がたまっているのかもしれない。 そう思うと、うまい飯を食わせてやりたいと思った。 生まれ育った環境のせいか、それとも、遺伝か。 どちらにしても雷牙の洞察力は人一倍である。 わずかな体調の変化を見逃さないのもその一端だ。
”””だから、アイスとか食わせらんねーんだけどな””” そんなことを考えながら見上げた空には、大きな入道雲ができていた。 今日は、夕立が降るかもしれない。 早めに帰るべきだ。
「さて、熱いけど、急ごうか。 振ってくるかもだしな」
「うん。 そうだね」
愛羅が頷く。 その顔は、やはり少し顔色が悪い。
~~~ 黒駒 ~~~
「へいらっしゃい! って、六道んとこの若頭の坊主と、その彼女か! いやあ、二人とも大きくなったなぁ!!」
「大将……、それ、毎回言ってるぜ」
地元民御用達の魚屋『海虎屋』の店主は、日焼けした顔にいい笑顔を浮かべて二人を出迎えた。 雷牙はあきれた顔で返すが、その口調は上機嫌だ。
「この人、また日焼け濃くなってるよね」
「まぁ、漁師だからなー」
隣に立つ愛羅が耳打ちする。 すぐ横で微笑む彼女は病的なほど白いのに、ここの親父は小麦色の肌がまぶしい。
店主は額の汗をぬぐいながら、段ボール箱を店の隅に置いた。
「そうだったっけか? ずいぶんとでかくなってるもんでよぉ。 坊主、今身長何メートルだ?」
「176だよ。 そっちこそまた日焼けしたんじゃねーの?」
「ガハハハハ! 毎日この日差しの中で海に出てんだ。 いい男になってるだろ?」
店主が豪快に笑う。 そこから一メートル離れたところで愛羅が生け簀の魚を眺めていた。
「まったく、大将は元気そうでなによりだぜ。 まぁいいや。 んじゃあ、ここのカワハギの氷漬け、五つな」「あいよ! 毎度ありっと。 あぁ、ついでにこれもってけ。 おまけだ。 お得意さんだからな!」
そう言って店主は雷牙の口に手のひら大の鯣を押し込んだ。
「ムグッ。 ありがとよ。 また来るぜ」
「あぁいや、雷牙、帰る前にちょっと聞きてぇんだけどよ」
店主が顔を近づけてくる。 この店主は元々893の関係者だ。 雷牙のことを若頭の坊主、と呼ぶのもそのためだ。 そんな男が、雷牙に何の話があるというのか? 雷牙は目を細めた。 その表情からは、張り詰めた雰囲気が感じられた。
「雷牙。 お前さんの立場なら、もう知ってるかもしれないんだけどよ。 ここんところ、きな臭い外人が店に来るんだ」
「……外人? それが、どうしてきな臭いってわかんだ? この町にだっていろんな国の奴が住んでんだぜ」
「あぁ、それがな」と、店主は声を潜めた。 生け簀を眺める愛羅に聞かれたくないらしい。
「───そいつら、クスリの匂いがする」
「……!!」
雷牙は思わず息をのんだ。 が、すぐに表情を戻す。
「確証はないけどよ。 ありゃあ売人だな。 どこの組とつながってるかはわからないが、警戒しておけよ。 お前さんも、六道衆の若頭なんだろ? こういうことも、お前には無関係じゃないはずだ。 ……アンタら、クスリはやってないんだろ?」
「あぁ。 ウチはオヤジの意向でヤクの取引は厳しく見張ってる。 前に向こうの組のモンが来たのを最後に、俺たちの目の届かないところでの取引は全滅してた、はずなんだけどな」
「坊主が蹴散らしたって聞いてるよ。 その武勇伝はまた訊きたいとこだけどな。 だけど、今は俺も情報がない。 ……オヤジには世話になったからな。 坊主にも協力してやりたいんだが……すまねぇな」
「いや、いい。 それを知れただけで、十分だぜ、大将」
~~~ 白駒 ~~~
数分後、勘定を済ませた雷牙は、愛羅と二人で店を後にした。
「そいじゃ、また来るぜ」
「失礼しましたー」
雷牙が店を出るのに合わせて、愛羅も後ろでぺこりと一礼した。
「おうよ! まーたこいよー!!」
視界を白く染めるほどの日差しの中、店主は笑顔で手を振っていた。
帰り道は、良い風が吹いていた。
「ねぇねぇ、雷牙。 カワハギって、前の冬にも買ってたよね。 アレ、冬の魚じゃなかったの?」
雷牙の隣で鯣をかじりながら愛羅がつぶやいた。 その横を古臭い方の車が通りすぎて、黒い髪と、白いスカートをはためかせた。
ひらりと舞うスカートと、雷牙の視線が、その一瞬に、交錯するッッ!! 正確に言えば、スカートではなく、その内側にあるものに、だが。
「『白』ッ……!」
「見ないでよバカァ!」
愛羅はプイっと顔を背ける。 その頬はわずかに赤く染まっていた。 愛羅の期限を損ねるのはまずいため、雷牙は話題を強引に元に戻した。
「それはそうと、カワハギな。 コイツは別に夏しか取れないとか、そういう種類じゃないんだ。 一年中店には並ぶぜ。 だけど、夏場が一番うまい。 脂がのってるからな。 っつーわけで、今夜はカワハギの煮つけな」
「……パンツ、見たこと誤魔化そうとしてない?」
「不可抗力だ。 俺が風を起こしたわけじゃないからな」
「ふ~ん……」
愛羅の視線は冷たいが、一応納得はしてくれたようだ。
「ていうかさ。 それじゃあこの前カワハギ料理作ってたのは旬じゃなかったんだ?」
愛羅は逸らされた話題に乗ってきた。 その選択に、雷牙はほっと溜息をつく。
「ん、まーな。 本当は季節のモン食わしてやりてぇけどさ。 ちょうどいいのがないとか、安かったとか、そういう理由があるわけでだな」
「そうなんだ。 んー、まぁいいや。 雷牙のご飯は美味しいもんね」
「ありがとよ。 ……ん?」
愛羅の無邪気な笑みに雷牙も顔をほころばせていたが、何者かの気配に気づいて、視線を向けた。
「なんだ、アイツ……?」
表通りから少し離れた場所。 そこから、仄暗い視線を感じていた。
”””まぁいいか。 差し迫った危険はないようだしな……””” 雷牙は記憶の片隅にこのことを留め、視線を元に戻した。