終着駅は始発駅
高浜健太は大手の商社マンで係長席にある。今回は三泊四日の東北出張である。磐梯西線の会津若松を18時34分に出て新津には20時56分に着く列車に乗った。何処で間違ったのか見知らぬ駅に着いた。一泊して宿の近くの居酒屋に入った。「この町に来る人は元気になって帰るけど、この町から出て行った者は不幸になる…」と居酒屋の女将は云った。
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「ああー、やってられない」と思った。
いくら、グローバルだ、人件費抑制だと云っても、これでは参ってしまう。
高浜健太は大手の商社マンで係長席にある。日本でも5本の指には確実に入る商社であった。大学時代も楽しそうな友を横目に見て、勉学にいそしんだ。入社したことを喜んだ。あれから17年。来年は40になる。
昔は出張となると、喜んだものだ。今や、国内は全て日帰り。宿泊の必要がある時は、宿舎は指定され、宿泊代は会社から振り込まれる。ごまかしもきかない。出張手当は食事代のみとなる。新幹線の交通費は切符で支給され、タクシー代は立て替え払いの後払いである。
妻を愛していないわけではないが、帰ったらともかく眠い。シャワーをあびて、缶ビールで夕食をすまし、ベッドに入る。すぐに寝息を立ててしまう。妻の胸に手をやってもいつしか寝息である。休み前に、たまにことを致しても、最中に課長の顔が浮かんで来る。出社までに調べ物を終えておかなくてはと気がそちらに行ってしまう。商社なんかに入るものではないと思っている。
今回は三泊四日の東北出張である。〈1日ぐらい温泉宿で仕事を離れてゆっくりしたい〉と思ってしまう。昔はそう云うごまかしがきいた。福島は会津若松、新潟、山形のコースである。高浜健太は果樹の買い付け担当であった。
磐梯西線の会津若松を18時34分に出て新津には20時56分に着く列車に乗った。2時間半の車中である。駅弁と缶ビールとウイスキーのポケット瓶を買った。幹線から外れたローカル線は本数も少なく、乗客もまばらで寂しいものであった。
窓際の席についた。喜多方を過ぎると客はまばらになり、四つの席を健太は独占した。この線には支線の廃線跡があったかなぁーと思った。支線でないが旧線跡が確かあった筈だ。高浜の趣味の一つに廃線探訪があった。
小学校3年のとき一家は田舎から大阪に出てきた。そして父と母は場末で小さな商いを始め、少しましな商店街に移り、ささやかな成功をみた。お蔭で、高浜は大学にやって貰えたのだ。当時福知山線と言った。
関西出張のとき、その線に乗ってみたくなった。大阪を出て、尼崎から伊丹を経て宝塚から渓谷になるのだが、その景観が違った。車中の客に訊くと「それは旧線ですなぁー」と答えた。
翌年その旧線跡を訪ねた。一部は整備された遊歩道になっているが、歩くのがやっとの墜道がいくつもあった。生瀬駅 - 道場駅間の武庫川渓流は昔と変わっていなかった。出てくるとき、河原でキャンプをしているのが眺められた。改めて歩いてみて、父や母がいかなる覚悟で出て来たかが分って涙が出てきた。それから病みつきになってしまったのだ。
出張時に調べて、時間をやりくりして廃線跡を写真に撮った。今回はばたばたして調べて来なかったなーと思った。もっとも今回はその時間余裕もないのだが…。
弁当箱を開けて思った。〈仕事に追いかけられなくてよいのはこの車中ぐらいだ〉。新潟での行くところが頭に浮かんだが追いやった。「のんびりすっぺ」。
鹿瀬に着いたところで、酒が切れてしまった。健太は飲みだすと止まらないところがあった。1時間ほど後だが新津行がある。それでもいいかと鹿瀬で降りて6本入りのビール缶を買った。駅のベンチで飲みながら待った。
次の列車が定刻に来た。ほとんど乗客はいない。その列車が長いトンネルを過ぎる
と乗客は誰もいなかった。酔いが回って、暫らくうとうとした。
列車は終着の新津に着いた。と思った。
しかし、とっても寂しい駅だった。新津は以前も来ているが違っている。仕方なしに降りて、改札口を出るときに駅員に、「何と云う駅ですか?」と訊いた。
駅員は「終着駅という駅」ですと答えた。「これから出る列車はありますか?」と聞くと、「終列車です」と無表情に答えた。「泊まるとこはありますか」と聞くと、駅前の建物を指差した。
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「お宿」と書いた行灯が看板代わりに玄関先に出されていた。
「お願いしますと」ガラス戸を開けると、女中さんらしき若い娘が「いらっしゃいませ」と出てきた。 「泊れますか」 「はい、結構です」と2階の部屋に案内された。
小さな旅館で、古いが造りはしっかりしていた。静かだった。
絣の着物を着ていた娘がお茶を持って部屋に入って来た。
「爺様とやっているのですが、あいにく風邪を引いて寝ていて挨拶に出れません。すいません」と頭を下げたので、「いやいや、構いません。お大事になさって下さい」と答えた。
二人でここをやっていて、昼は高校に行っていると娘は語った。
「どこかお酒の飲める所はありますか?」と尋ねた。この家を曲がった所に1軒あると云う。
「綺麗な女の人ですよ。刺身が新鮮です」と娘は言葉を添えた。
「風呂を浴びてから出かける」と云うと、「玄関は鍵を開けておきます」と答えた。
丹前をはおり、下駄をひっかけて出た。
駅のぼんやりした電気も消え、外は漆黒の闇夜であった。
暗闇の夜を体感するのは久しくなかった。出てすぐに『飲み処』と書いた提灯が下がって、間口のせまい店があった。
「飲ませて貰うよ」と引き戸を引いた。
「いらっしゃいませ」と澄んだ女の声がして、他に客はいなかった。
「お酒、癇をしてね」もうビールはよかった。
「熱いのにします?ぬるいの…」と訊いて来たので、
「ぬるいのでいいや」と答えた。
女は30半ばぐらいだろうか、地味目な縞柄の着物の上に割烹着をつけていた。
旅館の娘が綺麗な人と云ったが、あまり目立たない静かな綺麗さであった。
「なんだか間違ったところに来たみたいで…」と云うと。
「たまにそんなお客さんが来られるのですよ」、酒を注ぎながら女は云った。
「おかしいな?たしかに支線は無いはずだがどうしてだろう?」と云うと
「この支線は廃線になったのですが、ときどき間違って入って来るのです」
「間違ってね…で明日の列車はあるの?」
「来た列車があります」と女。
「女将さん、一杯どうですか」と勧めると、女はコップを出したので、高浜もコップ酒に替えた。
「おねえさんは、倍賞千恵子に似てません?」
「なら、お客さんは高倉健」
「全くの『駅・STATION』だね」
「肴はあぶったイカでいい?」
「いや、隣の娘さんが、刺身が新鮮だと云ってましたから、刺身」
「今は、日本海はイカがいいからイカしかないんですが…イカが」
「イカでいいですよ」
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「隣の娘さんは感心だね。昼は学校に行って夜は仕事を手伝って…」
「ええ、母親と爺様と3人で暮らしていたんですが、あるとき男性の泊り客があってね、その男と志乃さん、母親の名前は志乃さんと云うのですが、それは、それは綺麗な人でしたよ。一緒に出て行ってしまいました。それからあの子は手伝っているのです。あの子の父親はあの子が幼い時に亡くなったんですよ。爺様と二人きり…身内が行方知れず程心が痛むものはないですよ。生きてるのやら、死んでいるのやら、何時までも心配してね…」。〈女にも同じ思いがあるのだろうか〉
そして、「この町に来る人は元気になって帰るけど、この町から出て行った者は不幸になる…」と云った。
「寂しい駅前やけど、他に店はないんですか」
「ああ、旅館の並びにパン屋さんがありますよ。朝早くから若い夫婦がやってます。
それは美味しいパンですよ。コーヒーもいいですよ。ぜひ朝はパン屋さんに行って下さい」
「店はそれだけですか?」
「お客さん一泊でしょう。泊まって、お酒を飲んで、朝はパンとコーヒー、それで十分じゃないですか」
「そうだね…」
「映画の『駅』は女が身の上話をするんでした?」
「さー、細かいことは忘れたけど、聞きたいね」
「そうね、せっかく高倉健が来たんだから…」と笑って、話し出した。
身に包まされる話だったが、途中で〈あれっと〉思った。途中、列車の中で読んだ本と同じなのだ。本をカウンターに出して表題を見せた。
「お客さんもこの本読んでいるの…でもね、この作者は私の話を勝手に使ったのよ」嘘っぽく笑った。
「もっと早く来ていたら、僕も本を出せたのにね」
それから、一緒に歌を歌った。
女は「函館の女」を歌った。生まれは函館だと語った。高浜は藤圭子の「新宿の女」を歌った。最後は「高校3年生」を合唱し、〈健さんと千恵子の高校3年生か〉と笑いあった。
「泊って行く…」
高浜はちょっと考えたが…、
「帰れなくなったらいかんので、旅館で寝るよ」と答えた。
「そうね…帰らんといけない所があるのよね」と女は云った。
表に出た。満天の星空だった。
旅館の鍵はかけられていなかった。
2階の廊下で女性とすれ違った。向こうから軽く会釈をされたので、高浜も軽く頭を下げた。廊下の行灯の下で見たのだが、綺麗な女性だった。自分の後での客かと思った。
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朝5時に目が覚めた。酒が少し残っていたが、目覚めはよかった。無性にコーヒーが飲みたかった。昨夜の居酒屋の女が云った言葉を思い出し、パン屋に出向いた。
店は開いていて、若い夫婦が白い制服姿でパンの焼き出しに精をだしていた。居酒屋の女に聞いて来たと云って、トーストとコーヒーを注文した。
「お隣にお泊りでしたか…」と、女店主の方がセットをテーブルに置いた。
「早いんですね」
「ええ、4時から焼いています」
「じゃ、閉店まで大変ですね」
「いいえ、12時で閉店です。これから主人は宅配をするんですよ。お客が店に来るほどの場所ではないですし」
「パンの宅配ですか?」
「ええこの町の、と云っても住んでいる人は僅かなんですが、皆さん朝はパン食です」
「ここのパン?」
「パン屋はうち1軒です」
コーヒーがいい香りをしていた。一口含んで上等の豆が使われているのが分かった。
バターをつけてパンを口に入れた。フワーとした口当たり、そして噛むともっちりとした食感であった。
思わず、「これは美味いや」と声が出た。
高浜の妻は、料理はあまり上手くはない。しかし、朝のパンとコーヒーには拘った。
作るわけではないが、美味しいパン屋があると聞けば車で遠くまで出かけて、「これはどこそこの店のパン」とか云った。コーヒーの豆は自分で挽き、水は清水の湧くところから汲んで来た水を使った。
その高浜が云うのである。
「ここの町の人は毎朝こんな美味しいパンを食べられて幸せですね。どうしたらこんなに美味しく作れるのですか」と云うと、女店主は嬉しそうに笑った。
そうして、このように語った。
「あるとき、隣に泊ったお客さんが、店に来てパンを食べたられたのですが、厨房に入って来て、いきなり『パンはこうして作るのですよ』と作りだしたのです。主人とともに食べたのですが、それは、それはとっても美味しかったのです。ぜひ作り方を教えて欲しいと頼みますと、そう長くは居れないので、あと2泊します。その間に覚えて下さいと言ってくれました。私たちは一生懸命覚えました。作り方のレシピを残してその人は3日目に帰りました。隣の志乃さんを連れてね…」
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7時に旅館の朝食が出された。
「お帰りだったのですね」と娘は意味深に云って、お膳を置いた。
「ええ…」とだけ高浜は返事をした。
「他に泊り客はあるの?」と訊いてみた。
「いいえ、お客さんだけです」と娘は答えた。
〈昨夜の綺麗な女性はなんだったのだろう〉と思ったが、娘には廊下ですれ違ったことは云わなかった。〈酔っていての亡霊だったのか、顔ばっかり見ていたので足はみなかったなぁー。それとも娘の母親の志乃と云う女性が帰って来たのだろうか〉と思ってみたりした。
白飯に味噌汁と干物だけの質素な朝食であったが、鯵の干物は絶品であった。
始発と云ってもこれ1本だけなのだが、8時に出ると云うので急いで身支度した。玄関で送ってくれた娘はセーラー服に着替えていた。礼を云って少しの志を渡して駅に向かった。
車両には高浜一人であった。発車間際に改札を抜けて走って来る女があった。乗客かと思ったが、窓のそばに寄って来たのは昨夜の居酒屋の女であった。
「これ、お弁当。お昼に食べてね」と手渡してくれた。
「ありがとう…」と云って、何か言葉にしようと思ったが列車は動き出した。
高浜は窓から手を振った。
〈ぼくら 離れ離れに なろうとも…〉と口ずさみながら、女が視界から消えるまで手を振った。
***
「お客さん、起きて下さいよ。終点ですよ!新津ですよ。着いたんですよ!」
高浜の身体を揺する、駅員の声がした。
ビールを飲み過ぎて眠っていたのだ。でも、温泉で1泊より、幸せな1泊の旅をした思いだった。横を見ると何故か…、京唐草模様の弁当包みがあった。
「よし、明日もがんばるぞ」と、高浜は起ちあがった。
了
廃線跡深訪趣味の高浜健太の旅は続く!