その日
その日、第76代ナフル皇帝エルアルドはまだ太陽が昇らぬ前に目覚め自身の執務室にいた。
彼の目はどこか虚ろで、光を帯びていない。
男の視線の先には、目の前の執務机の上に置かれた一通の手紙がある。いや、手紙という表記は正しくないかもしれない。縁に燃跡が残るただの紙切れ、それが正しい。西の魔女に渡されたあの手紙の一部だ。十年と少し前、怒りと絶望のあまり思わず近くにあった蝋の火をつけてしまったそれは一部の姿だけを留めここにある。五㎝四方ほどの紙に残された言葉は少ない。
「真実の…か。」
皇帝エルアルドは誰もいない部屋、暗く冷たい空気に向かい呟く。『真実の…』その紙に書かれた三文字を見つめながら。
このナフル皇国にも眠り姫の説話は存在する。
話の中で千年の眠りの呪いを受けた姫は、隣国からきた美しい王子のキスにより目覚るのだ。
ー真実のキスで呪いが解ける。
その文書が記されていた可能性は高い。だが、エステルがいかに魅力的であろうが、まだ10歳。彼女に対して思慕ではなく、恋感情を真に抱くものがはたして存在するだろうか。逆にその望みは残された紙の厚さより薄い。
窓の外を見ると、太陽が地平線から顔を出し始めていた。
太陽の光が城の外壁を照らし出す。皆の心とは裏腹に、雲一つない快晴と今日はなりそうだ。
エステルは明日10歳の誕生日を迎える。
この太陽が永遠に沈まずに輝き続ければ良いのにと、男は心の中で強く願った。
その日、皇女エステルは母ナターシャと共に一日をのんびり過ごしていた。
昨日の夜、ナターシャに花が咲いている近くの丘へピクニックに誘われたエステル。今澄んだ青が眩しい空の下、芝の上に座り二人はお茶を楽しんでいた。
「お母様、毎週このお時間は侯爵夫人たちとのお茶会ではありませんでしたか?」
お気に入りの百合の印が刻まれたカップに入れられたお茶を口に運びながらエステルは事を母に尋ねた。特別な行事の前以外、基本的にナターシャの予定はあまり変わらない。週二回の貴族とのお茶会、週三回の孤児院訪問などの慈善活動、舞踏会への参加…そんな毎日皇后としてなんらかの仕事がある母が今日は朝から離れずずっと自分といる。エステルが疑問を抱くのは当たり前だった。
「今日は筆頭侯爵夫人の体調が優れないそうでね、私もたまにはのんびりしましょうと便乗して提案したのよ。」
「そうだったのですか…夫人も、早く良くなるといいですね。」
「そうね…」
ああ、嘘をつくと心が痛い。
ナターシャは疑いもせずに夫人のことを心配する娘の姿を見て、自分は母親失格だと思った。実際、体調不良を理由にお茶会を欠席したのはナターシャの方だったからだ。どこか本当に体の調子が悪いわけではない。が、気分が優れないという意味ではあながち嘘ではないかも知れない。
10年前、夫エルアルドから呪いの話を聞いた日家族三人は約束を立てた。エステル本人には何も告げない、最後の一日までいつも通り笑顔で接すると。だが、ナターシャは最後の一日をエステルと過ごすことを選んだ。皇帝も皇子も、裏では今も最後まで呪いを解く方法を探して抗っていることだろうとナターシャは知っていた。エステルを愛してやまない彼らが、いつも通りでいられるはずがなかったのだ。
「お母様みて!」
ナターシャは、愛しい娘の呼ぶ声に顔を上げる。
ナターシャの目を上げた先そこには、頭に立派な冠を被り誇らしげに笑う少女がいた。太陽の光が彼女の背から漏れ、金の髪は輝き風になびく、それはそれはとても眩しい姿であった。もちろん立派な冠と言っても、本物の金の冠というわけではない。
「丘に咲く白き朝花で作ってみました!以前お兄様から教えていただきましたの。」
上手に出来たでしょう?とエステルはその場で花冠を見せびらかすかのようにくるくると回ってみせた。回転するドレスの裾で風が起こり丘に咲く白き朝花を優しく揺らす。白き朝花は朝、太陽の光が当たると咲く花故その名前が付けられた小さいが可憐な白い花だ。エステルが作ってみせた白い冠はたしかに綺麗に組まれていて、9歳の子供の作品にしては良い出来だった。
知らぬ間に、子供は成長している。
「エステル、とっても素敵よ!
まるで、朝花の女王さまのようね…」
「まあ!
我こそは〜白き朝花の女王エステルなり〜。」
母の言葉に触発されて、エステルは丘の上を少し胸を張りながら女王になったかのように歩き回る。朝花がまるで家来であるかのようにエステルに道を開けた。そのなんとも微笑ましい光景に、ナターシャの心の雨雲も少し晴れた。
「ふふふっ!ありがとうお母様!
待っていてくださいね!
あと数年後には立派な皇女様になってお母様を支えますから!」
エステルはそう母に礼をつげると、お母様の冠よ、とナターシャにも白い花の輪を乗せた。
「わ、やった!桜苺のケーキがある!
きっとミーシャが作ってくれたのね!」
母に冠を渡して満足したエステルの興味はすっかり籠の中の食べ物に夢中になっていた。ミーシャとは、生まれてからずっとエステルのそばに仕えている第1侍女だ。エステルからすると第2の母の様な存在で、彼女はお菓子作りを得意としていた。エステルもナターシャもミーシャの作るケーキの虜であり、彼女のお菓子を口にすれば皆が笑顔になったものだ。
「お母様もミーシャのケーキ食べるわよね?
ね?お母さま…
お母さま…?
…ナターシャお母様、
どうして泣いていらっしゃるの?」
「エ…エステル。」
「お母様っ!具合でも悪いのですか?」
母の泣き顔を生まれてから初めてみたエステルは動揺を隠しきれなかった。
「だ、大丈夫よ、エステル…」
「でも、お母様…泣いて…」
泣かないで、とエステルまでもが母につられて顔をくしゃりと歪ませる。今までエステルの周りには幸福や優しさしかなかった。だから誰かが泣いたりする姿をみてもどうしたら良いのかわからない。
「エステル、お聞きなさい。」
スーッと息を吸い深呼吸をしたナターシャは、エステルの肩に手を当て自分と向かい合わせた。そして落ち着きなさい、と自分と娘に言い聞かせるようにコツン、とおでこを合わせる。
二人の頭の朝花の冠がぶつかりカサリと音がした。
「エステル、私の娘。
この先どんなことがあっても貴方は今も未来もこのナフルの皇女よ…」
「お母様…。
はいっ!私は何があってもお母様の娘です!」
ー泣き顔には笑顔を。
エステルは、とびきりの笑顔で愛してやまない母の胸に飛び込んだ。
その勢いで頭の冠の輪が解け、白き朝花が散る。
それらは青い空に向かって高く舞い、やがて風に乗ってどこかへ消えた。
その日、南軍中将ゲオルグは激怒していた。
なぜならもう3時間首都へと続く大通りで足止めを食らっていたからだ。
「これでは、間に合わないでなはいかっ!」
ダンっ、と思わず馬車の中で壁に右手を打ち付ける。
「…ヒィッ!も、も、申し訳ありません中将!」
体の底から響く掠れた太い声に、外で待機していた無関係な新兵が思わず謝罪をしてしまった。
「ただでさえ皆貴方のことを怖かったいるんですから、更に脅してどうするんですか?全く…」
呆れ顔で強面のゲオルグを悟すのは、もう五年の付き合いになる補佐官のランドだ。二人は今首都へと向かう馬車の中にいた。一人は細っそりとした体型で整った優しげな顔立ちの軍人。もう一人は、彫りが深いが常につり上がっている眉、180cmを超える身長はある鍛えられた強靭な体をもつ男。そんなまるで熊の様な姿を見た者はみな彼をこう呼んだ。「熊将軍」と。
熊将軍は南の砦サースヘルムに指揮官として赴いていたが、この度皇帝の名で首都へと呼ばれた。名目上は、皇女の誕生祝いへの参加となっている。が、去年のこの時期には特別なお達しはなかったためゲオルグは疑問を抱いていた。
「先ほど確認させましたが、10km先の地点で大規模な転倒事故があったそうで…」
サースヘルムから首都までは場所を走らせて2日はかかる。ゲオルグは確かに砦でギリギリまで仕事をしていたが、それは前日にはつける様に計算した上でだ。
大通りの復興には、まだ数時間要するだろう。
だが、脇道を行けば…
「馬を借りる。」
「…へ?
あっ!中将!?」
ランドが止める間もなく、ゲオルグは場所から飛び出した。そして、馬車の前を走っていた軍人を馬から下ろし、自らがそれに飛び乗る。
「お前たちは後からこい、ハッ!」
そして、勢いよく馬の腹を蹴り上げた。馬もそれを合図に駆け出す。ゲオルグの姿が小さくなるまでの一巡の間、誰も彼を止めることが出来なかった。
「いつにも増して、迫力が…」
「ああ、恐ろしいな熊将軍は…」
「まあ、仕方ないよ…」
呆然と呟いく新兵たちに、馬車から降りたランドが話しかける。
「愛しの姫さんとの再会だから…」
「…姫?皇女殿下のことですか?」
ゲオルグと皇女に何か繋がりでもあるのだろうか?聞いたことがないが、と新兵たちは首を傾げる。
「そ、エステル皇女のことさ。」
ランドはゲオルグが消えた方向、エステルのいる首都を見ながらそう言葉を向けた。
熊将軍登場です!
ゲオルグおじさんをよろしくお願いします!(*´-`)