水が足りない
「ひゅ、ぽーい、ごくごく」
カプセルの青い薬を口に含み、無味乾燥さに嫌気がさしながらも水で流し込んだ。
『薬を飲むと副作用で、唾液の分泌量が少なくなるから、水をできるだけ多く飲むようにすること』
「ごくごく、ごくごく、ごくごく、ごくごく、ごくごく、ごくごく、」
精神安定剤という類いの奴だろう。職場のカウンセラーという奴から行くように促され、何も考えずに行ったら、医者から飲むように指示を出されているから、飲んでいるわけだが……。
「ごくごく、ごくごく、ごくごく、ごくごく、ごくごく、ごくごく、ごくごく」
……しかし、喉が渇く
ろくに説明も聞かずに飲んでいるからこの薬が自分に与える影響を僕は知らない。知る由もない。
水で流しこんで、眠りにつこうと布団に入る。
布団の中ではとりとめもない、考えが頭をよぎる。病院から帰宅途中の電車で目に付いた広告から今日の夕飯に至るまで、どれもとりとめもなく、混沌としており、その実、なんの意味も無い。
病院の医者から言われたことが思い出された。
『薬を飲んでいる間だけは君は普通の人間でいられる』
その言葉はくっついたガムのように剥がすこともできずに、不愉快感だけがいつまでも残った。
「ポタ……ポタ……」
水の垂れる音がする。水道の蛇口が閉まっていないのだろう。そういえば、最近、水の音に敏感になった気がする。水は、身体に良い。舌がひりつく。喉が渇いた。
僕のアパートから人がいなくなって一人になるのはいつぶりであろうか。
同居している母は、腰の手術があるため、家を離れた。我が家はどんどんと汚くなる。私は家事ができない。読みかけの本は四方に飛び散り、脱ぎかけのズボンは台所にあり、おととい食べた焼き魚はそのまま、流しの口にある。
寝室と居間がセットになっている我がアパートにて、台所は扉一枚隔てた向こう側である。臭いは気になるが、まったく気にしなければいいのだ。何事も、気にしなければいいのだ。
「うわあ、臭いありえないです、まったくクソボケですね、この臭いが気にならないなんて! 人間じゃないです!」
声に僕は飛び起きた。一体誰だ。心臓が破裂するような、甲高い声。それが、また不気味で僕は、台所に走ってきた。途中躓きそうになった。
「うわあ、見つかってしまいました」
てへ、と舌を出す少女が居た。なんだろう。少女は、魚を加えていた。冷蔵庫は開け放したままで、魚がパックからはみ出て床に落ちていた。
「君は誰?」
「ぼくはヴァンパイヤです」
吸血鬼。キーワードよりも僕はそいつが少女ではなく、少年であることに驚いた。ボーイッシュな少女と思ったが、少年であった。そのままである。
「魚を口にくわえてるね」
魚を摘まんだら、「ふぎ」と声を出して、少年は魚に歯を突き立てたまま、食いしばっていた。
「吸血鬼なのに好物は魚なんだね」
「ええ、人間の血は雑食で汚されていてとても呑めたものではないので、最近は血がサラサラになるように魚なんです」
「人間みたいなことを言うね」
ヴァンパイアなのに……傷つけるとは思わなかったが、僕は言葉を飲み込んだ。代わりに、手持ちぶさたな手を冷蔵庫の中のビール缶に伸ばして、ぐいっと飲み込んだ。
「あまり驚かないんですね」
「驚くのも疲れるからな、今何時だ?」
「深夜2時ですね」
失敗した。ビールこの時間に飲んだら、まずい。明日も仕事なのにな。
「はあ、本当にヴァンパイアなら俺の首もとも噛んでみるか」
アルコールも抜けたりして……半分ふざけて言ったが、瞬間、血の気がひいた。
先ほどまで、のほほんとビール缶に目を向けていた彼が、鼻をすんすんと臭いを嗅いでいると、一瞬にして、表情の見えない、大きな眼球で、僕の目を見つめたからだ。
そして、僕の首もとに歯を突き立てた。
息を飲み込んだ。
「冗談ですよ」
彼は笑って、急いで離れた。
「なんだよ ゴホッ! うあわ、やべ、ゴホゴホ」
ビールがむせた。息が苦しい。うわ、やばい。まじで変なとこ入った。息が苦しい。死ぬ……。
僕がむせている、もがいている姿をしばらく不思議そうに見ていた彼は、ポンと手を打つと蛇口を捻って水を出している。
『おい、何してるんだよ、水なんて張ってどうする気だ!』
声にならない声を上げる僕を尻目に、彼は、あたりをキョロキョロと見渡している。
バケツに気がついた彼は、手を伸ばすと、それに水をはりはじめた。
『おい、なにして……』
彼はそして、黙って、僕の後頭部に手を伸ばすと……
僕の頭を上から押さえつける形で洗面器に押しつけた。
水の中でもがいた。僕は、自分がもがいていることに気がついた。いや、嘘だ。僕は、嘘をついている。
僕は、水の中でもがいているふりをしている、自分に気がついた。
僕は、新鮮な空気を吸い込んだ。
僕はエラ呼吸をしていた。新鮮な空気を吸い込むうちに僕は落ち着いた。バケツから顔を上げた。僕は、まだ滴が顔に付着している。肺呼吸に変わった。空気が肺に入る。
自称ヴァンパイヤの少年は僕の顔を見て、困ったように微笑んだ。
「随分と、生臭いですね」
「うーん」
とりあえず、床にこぼれている水のそうじ。目の前の少年。色々と考えることがあったが、僕は口をつけたビール缶をもう一度、ぐいっと飲み干した。とりあえず、明日の仕事は休みだな。
僕は、風呂場に行ってに水を張った。面倒なので、流しに備え付けられた鏡は明日見ることにしよう。15分と経たずに勢いよく蛇口から流れる水は、湯船を満タンにした。
少年に目をやった。
「布団はそこにあるから眠るといいよ」
僕も、ぼんやりとした不安がはっきりと分かって、むしろ清々しく、湯船の中で眠ることができた。