きらりきらり
「へえーそうかい。なるほどねえ」
美人なタヌキはニィと口の端をあげて笑った。不思議と嫌味はない。それはその瞳の奥に祝福があるからかもしれない。
「私はハルだよ。宜しくね」
「狸よ、いいから儂の可愛いチヨに着物を見繕ってくれ」
「なんだい、今日はお客さんかい。いらっしゃい」
クスクスとハルは上品に笑いながら、扉を開けて山神とチヨを招き入れた。
「さあ、チヨ。立てるか?」
ゆっくりと山神はチヨを向拝に降ろした。包んでいた布団を外そうとして、止まる。ハルが山神の太い手を掴んだからだ。
「なんだい! 寝間着じゃないか!」
怒鳴られて山神の耳がピクリと動く。
「お前さんは! ナリはでかくなってもそのままだね! 配慮の欠片もない。暫く外に居な!」
チヨを布団で包み直し、ハルは向拝を登って扉の中へ入れた。そして『参拝料 七千』と書かれた木の札を山神に叩きつけ、扉を乱暴に閉めた。
扉の隙間から「おい、狸!七千とは高すぎじゃろう!」と聞こえてきたが、ハルが手をかざすとまたあの異様な音がして、やがて静かになった。外には何も存在しないのだろうと思わせる静けさだった。
「全く、男って生き物はほんと呆れるねえ」
腕を組み、肩を斜めにして首を傾げる。髪で隠れていた首筋が露わになって鎖骨の上にあるほくろが見えた。
「さあ、可愛い服を選ぼうね。こっちへ来な」
ニコニコとハルは弾んだ調子で言った。チヨは連れられるまま奥へと進む。いつもは感じなかった布団の重さを感じながら。
「ここは……なんなのですか?」
「……全く、あの坊やはなんの説明もしてなかったのかい? それとも驚かそうとでもしたのかねえ? 驚いたって喜ぶとはかぎりゃしないのに」
全く。と、またハルは呟いて、箪笥を開けた。
中には何段にも別れた引き出しが入っていて、着物が綺麗に仕舞われている。
「ここは、神様専用の呉服屋……というより何でも屋だね。完成した装飾品を買い取って売ってるよ。後は、私の神社さ」
ハルはあははと声を上げて笑った。やはり『神社』というのは神様同士でのみに通じる冗談のようだ。
「……自分で作って売るのではなく、買い取るのですか?」
「おや、不思議かい? 村でなら物々交換ですんじまうんだろうねえ。ま、あたしが可愛い物が好きなのさ」
そう話しながら、ハルは次々に着物を出していく。合わせる帯だけでなく、帯紐まであれでもないこれでもないと悩んでいる。あっという間にハルの周りは色とりどりの布で溢れた。
「あ、あの……私お金が」
「そんなもの男に払わせるんじゃないの。何言ってんだい」
太陽は東から昇るし、冬が来れば雪が降るだろう、とでも言うようにハルは言った。言い切った。
「第一あたしらの通貨を人間のあんたが払えるとは思えないけどねえ」
ああ、そうかとチヨは思った。人の姿をしていても、こんなに話し易くとも、この方は神なのだ。
そもそも人を超越した美しさだ。
「ああ! 大変だよ!」
「え! どうしました?」
「あんたの好きな色を聞いてなかったよ。どれが好きだい?」
ヒグマの山神は、朽ち果てた神社でぼんやりと空を眺めていた。鰯雲が遠くの方まで並んでいる。手に持っている木の札には『参拝料 二千』と書いてある。
山神の耳がピクリと動くと、またあのメキメキという音が響いた。
「おい、狸。やはり七千は無理が……」
また屋敷が建ちあがったのを見計らい、山神は振り返る。そして言葉を見失う。
「あっはは! 大成功だねえ。驚かすならこれぐらいやんな」
お腹と口元に手を当てて笑っているハルの横には、桜の舞うの艶やかな着物を纏ったチヨがいた。
衿元は白く、上から徐々に薄桃色の桜が刺繍されて、裾では満開に咲き誇っている。裙まわしは赤で帯と色味を合わせてある。
髪を結い上げ、あどけない顔が良く見えば、一国の姫君が出来上がった。
山神は立ち上がり、チヨの正面に歩み来た。向拝の上に立つチヨでもまだ見上げる高さだ。
二人は見つめ合う。
「チヨ。綺麗だ。くらい言ったらどうだい? さっきまであんなに可愛い可愛い言ってたってのに」
「今言おうとしとったわい。狸よ。情緒が無いの。嫉妬か?」
「どっちかって言うなら、あんた、でかくて邪魔なのよ。ほら、札を寄こしな」
ハルは山神にむかって手を出す。その動きすら色香が漂う。
山神は大人しく札を渡すと、息を吐き出した。
「あんた、自分の嫁に金かけるときに溜め息つくんじゃないよ。……あら、結構持ってたのね」
「なんじゃ。分かってて足下見たのではないのか」
「じゃあ、もう二千絞りだしゃ出んのかい? 立派になったもんだ」
ハルは関心した様に言って、札をなぞる。
「全部で千と五百で良いよ。意地悪して悪かったね」
山神にまた渡された札には今度は『参拝料 払済』と書いてある。
「良いのを見繕ってくれたのだな」
「おや、全部ってこの一式だけじゃないよ。あんた普段どうやって過ごす気だい」
山神が小首を傾げるとハルは奥から大きな風呂敷に包まれた着物達を出してきた。ちょっと手伝っておくれ、とチヨにハルが言うほど大きな風呂敷包だ。
「中身はチヨが知ってるから、あんたは気にしなくていいよ」
「……まあ良い。確に狸の話を聞いていたら日が暮れそうだからな」
「ああ、それと」
ハルはそう言って一度扉の中へと入っていった。山神はその間に風呂敷を背負った。二人で持ったというのに、山神にはちょうど良い大きさだ。ハルが手に籠を持って戻ってくる。
「チヨ、この果物をあげるよ」
チヨに籠を持たせ、一つ一つ説明する。
「これは、アケビ。中の種の周りが甘くて美味しいが、この紫の部分もちゃんと食べられるんだ。炒めると美味しいよ」
「これは、クリ。外側のイガは触れると怪我をしそうで怖いし、殻も堅くて食べ難そうだが中はとても美味しい」
「これは、イチイ。赤くて小さくて実も美味しいけれど、種には毒がある。飲み込んではいけないよ」
「これは、シキミ。猛毒の実だね。素人は触れてもいけない」
丁寧にゆっくりと説明していく。チヨは山に住む子供だ。全部知っている。大人に教えてもらったこと、子供同士の体験談。山で生きるために必要な知識たちだ。
「いいかい? 忘れちゃ駄目だよ」
そう言ってハルは優しくチヨの頭を撫でた。山神は気難しそうな顔をしてハルを見た。それに気付いたハルはニッコリと笑う。
「じゃあチヨ、またおいで」
朽ちた神社から出て、また朝と同じ道を辿る。
山神は私の事をどうしたいのだろうか。チヨは山神の腕に抱かれて考える。
まるで殻の薄い蝶の卵でも包んでいるかのように、優しく運ばれるのにも大分なれた。
チヨは山神を見上げて観察する。いつものように返事を待たずに喋り続ける山神はその瞳もとても優しい。
「……な、チヨ」
ふと、話しの途中で山神はチヨを見た。チヨが自分の事を見つめるていることにそこで始めて気がついたようで、山神の言葉が切れた。
でも、もうチヨは身体を固くしたりしない。その事に今度は山神が息を飲む。
「チヨ」
「はい」
零れたように紡がれた名前に、チヨははっきりと返事を返す。
「儂の、名を呼んでくれないか」
「……山神様」
山神は少し考えて、軽く頷いた。
「そうだなぁ。儂はもう山神だなぁ」
山神は納得と関心を織り交ぜた独り言を呟いてまた帰り道を歩み出した。
寝床の洞窟へと戻ると、山神は優しくチヨを降ろす。そして邪魔にならないように端の方に風呂敷を持っていく。
「なんだ。重いと思ったら箪笥まで入ってるじゃないか」
「え、箪笥?」
チヨが覗き込むと、小さめだが確かに箪笥が一竿風呂敷の上に乗っている。ハルと一緒に持った時はそこまで重く感じなかったはずだが……とチヨは首をひねる。
ただの洞窟に不釣り合いな可愛らしい箪笥がぽつんと置かれた。
「あ、私、着替えます」
「なんだ。もう脱いでしまうのか?」
「汚したくないので……」
「そうか……綺麗だよ。チヨ」
チヨはふわりと笑った。
暗い暗い星のない空。山での二日目の夜は分厚い雲に覆われていた。雨でも降ろうとしているのかシンと冷える。
「チヨ様。チヨ様。大変です。起きてください」
小さな焦ったような声が耳元で聞こえる。しかし、触れて起こすということはしない。ただ声だけが染み渡るようにそそがれる。
「チヨ様。起きてください」
チヨの瞼は薄く開かれるが、まだ夢の中なのかぼんやりとしている。
ここ最近きちんと寝られていない。起きても夢のような出来事ばかりだった。不思議で優しい夢、楽しい夢、そして。
「村が大変です」
悪夢。
神様の通貨の単位は円ではなく、ポンドくらい。




