ゆらりゆらり
火が、パチリとはねた。
その音でチヨが目を覚ます。いつの間にか寝て居たようだ。焚き木が少なくなっても炎が燃えているのは、山神の力のおかげだろうか。
山神は火を挟んだチヨの正面に寝ている。黒い毛並みは、しかし闇に溶ける事なく、その山のような巨体を主張している。
ゆっくりとその山が上下する。目を凝らして見つめ続けないと分からないほど微かな動きで、その呼吸が深く睡りがより深い物だと知らせてくる。
チヨは喉を鳴らした。口の中がカラカラだ。水を飲むか、昼間の木苺が食べたい。
でも、僅かにも動く気になれなかった。そのせいで山神を起こしてしまうのが嫌だった。
脳裏に焼き付いた二人の花嫁の最期が、緊張で凝った身体を動かしたいのを我慢させていた。
「チヨ様。目が醒めてしまいましたか?」
左下から声がして、チヨは猫の様に飛び上がった。しかしチヨは人間なので、実際は、少し身体が揺れ、あちこちの関節がボキリと鳴っただけだった。
急に動いた痛みと、山神を起こしてないかの恐怖で、チヨは涙目になった。
「チヨ様。大丈夫ですか? 驚かせてすみません」
声のした方へ改めて顔を向けると、一羽のミミズクが羽ばたいていた。
フワフワと風が流れて来るが羽音はしない。
「山神様なら大丈夫ですよ。一度寝てしまうと、朝まで起きないのです」
そう言って、ミミズクはスイーと飛ぶと山神の上に乗ってしまった。
チヨはハッとして思わず自分の口を手で覆うが、ミミズクの言った通り山神が起きる事はなかった。
「チヨ様。良ければそちらをどうぞ」
ミミズクは器用に翼でチヨの左側を指した。元々自分のいた場所だ。
そこには草で編んだ籠があり、中にはたっぷりと水が入っていた。
チヨの喉はまたゴクリと鳴った。
籠を手に取るとその振動で水が零れる。チヨはハッとして反射的に籠に口をつけた。何か悪い物でも入っていないか気になったが、求めていた水分を確認した身体を止められなかった。
水なんてこの一ヶ月見飽きていたのに、どんなに嫌がってもやはり生物には水分が必要なのだ。チヨはゴクゴクと全ての水を飲み干した。
「チヨ様。お腹は空いていませんか?」
ミミズクは今度は炎傍へ来ていた。梟は羽音が小さいと聞くが、こんなにも無音に近いものだろうか?チヨは疑問に思ったが、お腹が言う。そんなことより。
「チヨ様はお腹の音も可愛らしい」
くー、と小さく響いた音を隠すように、チヨはお腹に手を当て背中を丸めた。そういえば昨日の花嫁を見送ってからは何も食べていない。
「人は獣の肉より、魚の方がすぐに食べられて好きですよね」
そしてミミズクは五匹の鮎を差し出した。丁寧な事に大きな葉の上に置かれている。いったいどこから出してくるのか全く分からない。
チヨが立派な鮎に気を取られていると、今度は焚き木が足された。待ってましたと炎が踊り、洞窟内がまた少し明るくなる。
いいかげん、ミミズクがわざと人の意識の外で動くようにしているのだろうとチヨも気がついたが、だからといってやめて欲しいとは言えない。
彼も山神の眷属だからだ。
「チヨ様、申し訳けありません。私には調理は出来ないので後はお願いします。塩も串もありますよ」
ミミズクは笑顔を作って言った。チヨは言われた通り、鮎を串に刺し、塩をふって火の側に石を積んで立てた。
焼けるまでぼんやりと炎を眺めるチヨに、ミミズクは首をクルリと向けて問うた。
「村に戻りたいですか?」
チヨの瞳が広がる。力無くそこに置かれただけだった掌をギュウと握りしめ考える。試されているのだろうか?
「花嫁が来ないからとあんな事をして、さらにはまだ十四のチヨ様をわざわざ村に迎えに行って……新しい山神様は強行がすぎると思いませんか?」
「新しい山神様……?」
「ええそうです。おや、山神様が交代されたのを人間は知らなかったのですか?」
チヨはフルフルと首を横に振った。
「知りませんでした」
「良いのですよ。人間には我らの声が届かないと聞きますが、本当なのですね」
「山神様の声は村でも聞こえました」
「やはり神になるだけはある。……私などでは力を使えるのはこの聖域でのみですよ」
一瞬、ミミズクの柔らかい声が崩れ、内から這う様な怨みの籠もった声にチヨは身を固くしたが、自身の変化に気付いていないのかミミズクはまた優しくチヨに語りかけた。
「私はチヨ様は村に戻っても良いと思うのです」
チヨは動けないままミミズクの話しを聞いている。鮎の焼けるいい匂いが漂ってきた。
「鮎が食べ頃のようですね。チヨ様、どうか考えておいて下さい。私はいつでも力を貸しますよ」
それだけ言うとミミズクはフワリと飛び上がり、羽根の一枚も残さず去って行った。
チヨは夢を見る。お日様の匂いのする暖かいお布団でお昼寝をする。森を抜けて見つけた草原を手を繋いで駆け回る。どの花の蜜が一番美味しいか味比べをする。なんだか恥ずかしくて顔が見れないまま明日も遊ぶ約束をする。
止めどなく、とりとめもなく、暖かい夢を微睡む。
誰にだってそれは幸せな一時だが、チヨにとって、今は一番縋りつきたいほどの幸せだった。
瞼よ、どうか開かないで。そう願った瞬間やはり起きる時間はやってくる。
「ああ、チヨ起きたか?」
チヨの目に朝日ではなく、ヒグマの鋭い牙が飛び込む。
寝起きの良くないチヨは身を固くするだけしか出来ない。襲って来ない内にと、ぼんやりとした頭を叩き起こすとヒグマはそんなに近くにはいない事に気がついた。
チヨはいつの間にか奥の枯れ草の布団に包まっていたが、ヒグマは入り口近くの焚き火のそばにいる。
それを認識するとようやくチヨは頭を上げ、布団から上半身だけを出した。
「すまなかった」
ヒグマの姿の山神がチヨに向って頭を下げた。突然のことで驚いたチヨは座ったままサッと布団を引き上げた。少しも防御になるとは思はないが、顔を半分隠すと少し安心できた。
「お腹が空いていたのに。木の実だけでは足りなかったな」
山神は片手に持った木の枝で、焚き火をいじりながらいった。
チヨは鮎を食べたあと串や大きな骨、乗せていた葉っぱなどを焼いてしまうため焚き火の中に入れていた。その残骸をみつけたのだ。
「あの、それは……」
「だが」
声を低く句切ると、山神はチヨを見据えた。日の光の入り始めた洞窟では、奥にいるチヨからは山神の表情が見えない。
「この住処から出てはいけないよ。夜は危ないのだから」
山神は大きな掌で焚き火を押しつぶした。特に音はしなかったが、チヨの心をガラガラと崩すに足りた。
そのままのそりと腰をあげ、山神は四本の足でチヨの方に歩き出す。焚き火の炎は消え、燻りすら残っていない。
「ああ、チヨ。また寒いのか。今日は着物を貰いに行こう」
伸ばされた前脚にチヨは視線を移すことしかできなかった。山神はそれを見て小首をかしげると、昨日来た時と同じように布団にチヨを包み直して抱きかかえた。
洞窟から出て、村とは反対の方角へと進む。チヨにとっては山の裏側と呼べる場所だ。中腹当たりの、そろそろ聖域から出るかという頃、山神は歩みを止めた。
朱い大きな木の枠。草に埋もれかけた石の台座が二つ。かろうじて立っているかのような苔生した建物。その正面に山神は佇む。
「さぁ着いた。チヨ、見えるかい?」
「……神社?」
「そう。儂のじゃないがね」
山神は楽しそうに言った。お決まりの冗談、とでもいう態度だ。チヨは笑うことはないが、キョトンと山神を見つめた。
山神はますます笑顔を深め、その鳥居をくぐった。
「狸! 狸はいるか」
山神の声に応えるように腐った建物が崩れた。
メキメキだのバキバキだの異様な音を立て、内側からめくれるように崩れていく。そうして、先程ほどの四倍はありそうな大きさの建物が現れる。
よく磨かれ光沢すらある柱に、大きく飛び出した軒平。中央にあるのは『春貉』と書かれた賽銭箱。
「おやおや、羆の坊や。山神になったって話は本当だったんだねぇ」
耳の奥、脳髄までもくすぐるような色気のある声。普通の返事をしただけなのに一節の歌のようだった。
扉から出てきたのはまさに、妖艶。
「儂もようやく夢を叶えたよ」
「元々素質はあったろうけど、頑張っていたものねぇ」
艷やかな黒髪を無造作におろし、山吹色の着物を大きく着崩し胸の谷間を見せつけて、黒地に金糸で花の画かれた帯は前に結んで。
狸と呼ばれたその女性の、らしさと言えばたっぷりと生えた睫毛に縁取られた垂れ目だろうか。
口調や声に合わない丸い小さな顔は、可愛らしさも兼ね備えていた。
「んー? なんだい? その娘は」
山神の腕の中からじろじろと見すぎたせいか、美女と目が合う。
「この子はチヨ。儂の花嫁だ」