はじまりはじまり
四方が山に囲まれた村がある。来る者も出ていく者もいない、そんな山の奥の村。
閉鎖されたその場所は、しかしひっそりと栄えていた。自給自足で八百人を超える村人は不足なく暮らしている。
山は季節の折々の物が都度鮮やかに実り、村では土壌の良さから作物は大きく育ち、近くを流れる沢から川魚がよく獲れた。
山には危険な熊や狼、大きな猪などもいたが、村人に手を出すことも無い。
この村は、山神に守られた、楽園なのだ。
「次の嫁様は誰になる?」
「順に行くならアヤメだな」
「ミドリと共に出せ。でなけりゃ山神様の怒りはおさまらんぞ」
「それだけで収まるんやろうか……」
そんな楽園が今は暗い空気に包まれている。
長く続く雨のためだ。
夏の暑い日、いつもの様に村人がほしいと思った時に雨が降り始めた。乾いた大地を潤し、作物は生き生きとしだす。
しかしそれは、いつもとは違うものとなった。
山神に管理された恵みのひとつである雨は、長くとも二日で止んでいたが、その雨は何日も止むことが無かった。
一週間で田畑の野菜が腐り始めた。
二週間で川は濁り魚は獲れなくなった。
三週間でどれほど山を登っても食べられる物が見つからなくなった。
四週間で村の近くまで狼が下りてくる様になった。
一か月でついに山の一部が崩れた。
雨はまだ、降り続いている。
「すまない皆、またせた」
「村長」
長、と言うには若い筋肉質の男が広い部屋に入ってきた。白髪が数本生えているのが見てとれるが、働き盛りの男だ。
人望はとても厚く、次の村長にはこの人こそがと誰もが彼の名をあげた。
彼の名はヤキチ。副村長の息子だった。
「まずは、いつものように花嫁を出すしか無いだろう。それから…やはりミドリを出そう」
「牛の代わりか」
「あまり言いたくないが、そうだな」
「それでも止まなかったら……」
「その次の花嫁は誰だ?」
「チヨだな」
「そこまで出すのか? それで駄目なら? 順に出すのか? 女が居なくなるぞ」
身体の大きな男達が、背を丸め小さくなってヒソヒソと答えのない話をし合う。
そこに老人はいない。
彼の前の村長は、いかにも、と言うふうな好々爺だった。
優しく笑うみんなのお爺ちゃんだった。
いまではそんな風に思う者はいない。
奴は裏切り者だ。
この村には古来からの風習がある。
それは山神様との約束事であり、この村が楽園たる由縁。
毎年、この村の十五になる娘の一人が、山神様に嫁ぐのだ。
じぃ様が子供頃、じぃ様に聞いた話でだって、村から花嫁が途切れた事はない。
そんな大昔からの大切な風習を前村長は、孫娘可愛さに破った。
去年の秋の祭りの時に、白無垢を着て山へ入るはずだったミドリは、山道を登る途中でそっと外れ、他の村へと続く街道へと下りた。
村人が近づく事のないその街道の近くに秘密の小屋が建てられ、そこにひっそりと住みついていた。
そして、その時が来たのだ。
村人が長雨からついに避難しようかと論議され、隣村に使いを何人か出した時の事。彼らがその道中にあった不審な小屋の中を覗いてみたのは偶然だった。
戸を何度叩いても返事が無かったので、村人は何が入っているのかと、そっと戸を開けた。
「どうして! どうして開くの!? 内から錠がしてあったのに!」
小屋の奥に小さくなって震えていたミドリは、そう叫ぶとそれきり白目をむいて倒れてしまった。
前村長は村の出入り口からミドリの名を聞いた時、すべてを悟り、行方知れずとなった。
山に向かう前村長を見た村人がいたと言う話も出たし、書き置きにもそんなことが書いてあったが、本当の所は分からない。
だからこそ、裏切り者で問題を前に逃げ出した卑怯者の最期の願いなど誰も聞こうとしなかった。
だから今ミドリは牛と共に寝起きし、罵詈雑言を浴びる毎日を過ごしている。
問題は2つある。今更『花嫁』を山神様に嫁がせたところで、山神様は怒りを静めてくれるのか。
そして、怒りが静められたとして、どれ程で山は回復するのか。
しかし、村人達に出来る事は少ない。
急遽行われた花嫁行列は数十人の大人だけが出た。いつもなら秋の祭りは村人全員で花嫁を見送っているが、ここにいる子供はチヨだけだ。ーー次の花嫁の。
期待を込めて。祈りを込めて。
アヤメの紅を引かれた唇は固く結ばれ、紐を持つ手は震える事はないが、握り締めすぎて白くなっている。
十五の少女は、覚悟を決めた表情で山を見る。
紐の先に繋がれているのは、もはや「ごめんなさい……」としか話さなくなったミドリだ。
勝ち気だが良く気の利く、姉の様に慕っていたミドリを牛の代わりに引き連れて、アヤメは歩き出した。
笛の音。
高い高い、トンビの鳴き声の様な音。その祭りの笛が花嫁の歩みを促す。
その音と激しくない雨の音に紛れて聞こえる唸り声が、微かに大人達だけに届いた。
だがそれを花嫁に伝える者は誰もいない。
引き止める者は尚更いない。
山に一歩、また一歩と進んでいく。細い獣道をゆっくりと進んで、アヤメの純白の後ろ姿がもうすぐで見えなくなろうかという頃。
わん、と一声。
途端に十数匹の狼が二人に襲い掛かった。
獣の吠える声唸る声。それに混じる少女の叫び声。
あーーあーーと伸びる声は一つだけ。アヤメは恐怖と責任感とを秤にかけ、責任感を勝たせていた。
しばらくすると叫び声は唐突に途切れ、獣達のみが、ばたばたと暴れ踊る。
一匹の大きな黒い狼だけが、村人を静かに見ていた。
チヨを見つけると忌々しげに唸り、黒狼も宴に戻る。
次の日、雨は止んだ。
ぬかるんだ村の中を子供達が走り回る。草木よりも人間の方が先に元気を取り戻した。強い太陽の光ですらまだ、大地を乾かすには足りない。
それでも大人たちも皆笑顔だ。やはりきちんと花嫁を出せば村は平和なのだと。
あの若き村長のヤキチですら、安堵の笑顔を見せている。
村人の中で恐怖に支配されているのは、チヨだけだった。
震える身体を必死に抱きとめ、花嫁達用に作られた屋敷の自室に籠っていた。
花嫁は、産まれた時から決まっている。春頃に生まれた身体の1番小さな女児。それが花嫁。
生まれてから半年母親と過ごし、秋の祭りでその年の花嫁から祝福を受け取ると次の日から花嫁用の屋敷で育てられる。
一番大きな屋敷で、一番良い布団で寝て、一番良い食事を出され、労働をすることなく、やりたい事をして毎日を過ごす。
そうやって傷一つなく育ち、十五年後美しい花嫁が出来あがるのだ。
花嫁は名誉ある役職だった。
その様に教えられて村人は皆育った。
でも大きくなるにつれ皆感じていた。花嫁とは『何』なのか。
それが初めて昨日、事実として明らかになったのだが、誰もなにも言わないのは、村の大人にとってただの確認作業でしかなかったからだろう。
それこそ花嫁であったアヤメですら分かっていた事だった。
だが、チヨだけが知らなかった。
チヨは花嫁にしては変わった子だった。
身体が小さく大人しい子が選ばれる筈なのに、野山を駆け回り木に登るのが好きだった。岩場もピョンピョンと野うさぎの様に跳ねた。
それでも大きな怪我をすることもなく、夕方にはきちんと村に戻ってきていた。
歯を見せて大きく笑い、明るい声で元気に挨拶をする姿は皆に可愛がられた。
他の花嫁達が屋敷の中で花を愛でたり、刺繍や和歌を詠んだりするのが好きだと言えば違いは一目瞭然だろう。
チヨは震えながら思う。死にたくない、と。
けれど、それは無慈悲にやってくる。
太陽が傾き、村を朱く染め上げ始めた頃。ひっそりとやって来た。
山の獣道を通り、いつもなら絶対に入って来ないはずの、その一歩を抜け、村へと。
見つけた村人の甲高い叫び声が鳴り響き、多くの人が集まって来る。
村人達が見たのは、一間半を超える、巨大な羆だった。
のそり、のそりと、躯をゆらして。ヒグマは、意思をもって入ってくる。
やがて村人たちが集まり誰もが自分の姿を見たのを確認すると、ヒグマは立ち上がった。
その強大で闇の様に黒い姿に今度は誰も叫び声をあげなかった。
あげられるはずがなかった。
動けば、殺される。
「チヨを、我が花嫁を貰いに来た」
ヒグマは、高らかに宣言した。
五十鈴すみれ様プレゼンツ『決められた婚約者企画』参加させていただきます。
いきなり全員ハッピーエンドとはならなくてすみません……ハッピーエンドにはなりますです;;;