知能
「では、これが最適な構成なのですね」
「断言はできかねますが」
とある会議室の中、技術者たちが渡された資料に載っている三次元投影図を見つめている。それは国全体の地図と、その上に半透明にして重ねられた、実験環境の写真。
「そもそも複数の評価基準がありますので『最もコストが低い』解は存在しませんが、この手法は他の主要な大都市の地形などを想定しての計算でも非常に良い結果を出しました。信頼に値するはずです」
長らく後進国扱いされてきたこの国には、都会といえる場所は国外の企業が集まる首都近郊のほかになく、そこから少し離れるとどこも未だに前近代的な生活と経済規模であった。しかし、この大規模な鉄道敷設計画が成功すれば、『都会』は拡大してゆき、この国はより豊かになるはずである。そのためには交通網、特に多くの人と物資の輸送を担うコストパフォーマンスの良い鉄道網の整備は必須であり、極めて重要でもあった。
従来、こういった複雑で答えの一つに定まらない問題に取り組むのは、経験を積んだプロや専門家であった。大抵において、そしてこの場合もその例に漏れず、それは先進国の者である。
この国に限らず、多くの発展途上国はそれを良しとしなかった。外貨獲得に必死になり、外国企業の経済活動から発展を与えられ、先進国の後塵を拝していた彼らだが、せめて国の未来のかかった一大プロジェクトは自分達の手で計画したかったのだろうか。
そんな彼らに与えられた、その道の専門家に勝るとも劣らない高度な計算力。しかも、交通網のみならずあらゆる最適化問題に威力を発揮し、それでいてスーパーコンピュータより格段に安上がりな、万能の計算資源。
生体コンピュータ。
その誕生の契機は万能細胞であった。非常に簡単かつ安価に、かつ大量に培養でき、特定の仕事をこなすのみならず、様々な可能性を秘め、場所や場面によって特化する先が変化する、万能な細胞。初めは医療への応用ばかりが取り沙汰されていたこの世紀の発見は、しかし最初に実用的な応用が発明されたのは計算機科学の分野であった。
生物と計算機の関係それ自体は、そこまで新しい発見ではない。粘菌による最適化問題の計算も昔から研究されていたし、大腸菌の遺伝子を組替えて蛋白質の生産をさせよう、などというのもある種のプログラミングだと考えることもできなくもない。
実際、最初に生体コンピュータの概念が発表されたときにも、世間ではこれらと同列の発明だと思われていたという。しかしこのセンセーショナルな名前の『コンピュータ』は、マスコミによる批判が本格化しないうちに様々な実験で次々と実用性を示し、遂には量子コンピュータを差し置いて『次世代コンピュータ』の称号を欲しいがままにした。
この大発明がそこまで急激に有名になった理由のひとつに、原理の単純さがあるのは間違いない。
遺伝子の組替えによる挙動の制御と、成長や生成物の観察による成果の確認。研究が進むと、他の動物でも同じように万能細胞を作ることが可能になったため、様々な動物の、さらにその様々な部位の細胞の特性を利用すべく研究が進んだ。現在では活用できる細胞と遺伝子の一覧を眺めながら細胞を組み合わせて計算環境を作り上げる技術者たちの姿は、さながら真剣な表情でブロック玩具を組み立てて物を作っていく子供のようである。言葉のままの意味でブロックを組み合わせていくことによる計算機の構築の概念は、その身近な喩えとともに一般市民にも広く浸透し、理解されたのである。
さて、このコンピュータは倫理的な議論があったという話を無しには語れまい。
なにせ、様々な特性を持った細胞が組み合わさり、問題を解こうと自身を変化させつづけるのである。集い、離れ、連携して実験環境中で変化し進化しつづける。まるで細胞の塊が生き物であって、知性を持っているかのようである、と新たな動物を創りだし完全に道具として使うことへの非難が噴出した。
しかし教育を受けた者は知っているかもしれないが、一般的に生物とは「自己増殖」「代謝」「恒常性維持」「外部との明確な境界」などによって定義される。つまり、生物の定義は困難とはいえ、自己増殖を行わないようにプログラムできたり、恒常性のないような構成が多く利用される生体コンピュータは、生物にはあたらないだろうということになっている(完全な自己増殖だけを行うようにプログラムされた「Quine」と呼ばれる生体コンピュータが物議を醸したこともあるのだが、ここでは触れない)。
個体たる細胞そのものに知性がなくとも、個体の集まりである生体コンピュータの振舞いは知性を持つように見え、群れの全体は高度な問題を解いている。この現象は決して目新しいものではなく、「群知能」と呼ばれ長らく研究されてきたものである。よって、初めは知性を持つ動物を酷使することに反対していた動物愛護団体のキャンペーンも、生体コンピュータは生物の定義に当てはまらず知性を持ってもいない、という事実が世間に浸透するとともに沈静化し、最終的に生体コンピュータは残酷なものではない単なる道具である、ということで決着が付いたのである。
だが、彼らは重大な事実を見落していた。彼らの大きさと細胞の大きさの違いを考えれば、仕方のないことだったのだろうか。
たしかに細胞の集合として見た生体コンピュータは生物と呼べないものが大多数だったかもしれない。
しかし、個々の細胞自体が培養によるとはいえ自己増殖し、代謝を持ち、恒常性を維持し、外部との明確な境界を持っている、その事実に気付いた者は少なく、それを問題として提起した者は殆どおらず、民衆は無知を貫き通した。
その万能細胞ひとつひとつに実は自我があり、培養環境を「ウチュウ」だとか「チキュウ」と呼び、自身を「ニンゲン」と呼んでいることを、彼らはまだ知らない。