08:30 白骨さんこんにちは。
二十分近く、足裏の痛みに耐えつつ草原を探し歩いて。ようやく見つけたのは、白骨死体だった。
「おー……ガチかよ、おお……」
首を振る。首を振っても、目の前の現実は変わらない。
焼き魚か手羽先か、でなければフライドチキンを食べでもしないと、そうそうお目にはかからない。
現代日本では、それが骨というものの一般的認識であるはずだ。ましてや、人の骨ともなれば。
「……いつ以来かね」
祖父と、曾祖母と。その二人の火葬のあと、見たことがある人骨といえば、それだけだ。
習志野で陸自の教導隊をやっていたという祖父のときは、自分もまだ若くって、泣いてばかりいた。
百を超えていた大正生まれの曾祖母は、こうまでくっきりと骨は残ってはいなかったから、また違う。
まるで理科室の人体模型のように、綺麗な白骨。肉だけ消滅したように、白骨を包むように衣類が残っている。
――いいのか、それ。いや、でも、他に手段はあるか?
逡巡は、そう長いことは保たなかった。良心は、現実の前に簡単に敗北した。
死体から剥いだ皮の靴に自分の足を詰め込み、民族衣装めいた上着に袖を通す。
部屋着代わりの古ワイシャツは涼しいが、日が落ちたあとに布団もなしでどうなるかは考えたくない。
《――あたりを調べたら、白骨死体をみつけてしまった。
背に腹は代えられないので色々といただきました。サイズあわなくても靴は靴ですわ、南無三》
仏教由来の祈りが、異世界の死者に通じるかは判らない。
ただ、死体を漁っているという罪悪感から、そんな言葉を書き込んだ。
白骨死体の傍には、頭陀袋がまだ残っている。でも、その袋をも漁るには、幾らかの躊躇いと現実逃避を必要とした。
「そうだ、会社……まだ金曜だから、仕事あるんだよ」
もちろん、出社できるはずもない。普段、一時間半かけて通っている勤め先は、いまでは時空の彼方にある。
《……しかし今更ながらなんで電波通じるんだろう。電波通じるなら会社に休む連絡せにゃ……なんと説明しろと》
社会人としては、大事なことだ。
だが、朝起きたら異世界にいたんで有休とります――馬鹿正直に連絡したら、次に出社したとき自分の席があるか疑わしい。
かといって、昨日までピンピンしていたのに、病欠というのも信憑性がない。ズル休みと思われたら、評価に響くのだ。
《……湘南新宿ラインで寝過ごして気付いたら群馬だったことにでもするか。群馬も異世界も似たようなもんだろ……》
思いあぐねた挙句、そう書き捨てた。あるいは、群馬県民を敵に回したかもしれない。
まあ、それもいつものことだ。群馬栃木茨城は北関東でなく南東北だと、普段から公言しているのだから。
ちなみに関係はないが、良き神奈川県民として、町田と伊豆は神奈川が実効支配していると認識している。
まあ――ともかく、会社への連絡はあとで考えよう。
フレックスタイムの限界、十時半までに連絡をすればいいのだから。
いま考えるべきは、そんなことではない。
社会人としての現実は、いまや何の役にも立たない。
会社での役割も対外的な肩書きも意味をなさない。ただの自分だけが、ここにいる。
「……ファイア!」
掌を虚空に翳して、唱えてみた。当然のように、この世界は応えてはくれなかった。
「アイスストーム!!」
今度は両掌を突き出してみた。結果は同じだった。
「――メテオ!!!!」
頭上に浮かぶふたつの太陽を仰いで、叫んでみた。なにも変わらなかった。
もちろん――理不尽かどうかといえば、理不尽ではないと思う。
二十一世紀初頭の日本列島において、魔法という現象は確認されていない。
そんな世界で生きていた自分に元からそんな能力はなかったし――世界線を越えても、それは同じのようだった。
それは当然だ。当然なのだろう。自分は自分なんだし、違う世界にきたからと劇的に変わるわけがない。
――だけど、とはいっても。
こんなにも日常を離れた状況で、こんなことをしていると、愚痴りたくもなる。
《というか、異世界モノったらさあ。気付いたら美人の神官とか美人の魔術師とか美人の姫とかいてさ?
美人のメイドさん付けられて、その連中が後のハーレムメンバーとかじゃないの。
で、異世界人はなんか能力持ってるとかそんなの。なんで私はひとり野原で死体漁りしてるんですかね……》
アニメやライトノベルであれば、そうだろう。でも、現実はこうだ。
白骨死体から衣類を剥ぎ、荷物をおっかなびっくり漁って、役に立つものを探してる。現実は非情で、即物的だ。
《大丈夫、どん底スタートから現れたヒロインがゴリラだったとかそーゆーのも見た事あるます。
強く生きて! とりあえず、飲み水と拠点の確保だ!》
着信したメッセージに、溜息を吐く。
YOU-OH。ラップ調のハンドルネームと同じく、陽気な内容だった。
たぶん、こちらの一連の書き込みを盛大なネタかなにかと思ってるんだろう。
《ゴリラはやだよせめて家に置いてくれた村娘とかにしてくれよ。
さておき、水は確かに大事だよな…… 昨日の飲み残しのワインがあるけど大事に飲もう》
冗談めかして、そう応じてやった。だが、冗談ではない。
指摘された内容は、サバイバルにおいては重要なことであるのは確かだった。
とはいえ、難点がある。こんなだだっ広い草原で、水も拠点もあったものではない。
白骨死体の荷物を漁っても、さすがに水は見当たらない。
めぼしいものは、財布らしき巾着と細工の施されたナイフくらいのものだった。
《白骨さん財布もってた。盗賊とかじゃなさそうね死因。
銀貨と銅貨が幾らか。貨幣が流通する程度の文明レベルではあるらしい》
死体を漁った結果を報告する。我ながらどうかとも思うが、事実なんだから仕方ない。
それにしても、貨幣の流通は、我々の世界でいうとどのくらいからだったろうか。
思いつくのはヴェネチア共和国のデゥカート金貨だけど、金貨なんてそうそう流通してるはずもない。
それでも、縁を削られた銀貨だとか、真っ黒になった銅貨だとかばかりでも。
粒銀や岩塩が財布に入っていなかっただけマシだと思うべきだろう。
貨幣が存在するということは、ある程度は安定した、共通の価値観が存在する世界だという証だからだ。
《――とりあえず靴と上着と現地通貨とナイフを手に入れた。白骨さんありがとうあなたのことは忘れない》
白骨死体を漁って手に入れたものを、最終的にまとめるとそうなる。
衣服とカネと武器。これは重要ではあるが、しかし、生存に不可欠かといえば否だ。
生きていくのにもっとも必要なものが、いまの自分には足りていない。それがなにかといえば、そう。
《……で、水と食料だよまず、うん。しかし、むかし湧き水で腹くだしたことあるんだよな……》
――そう、水に食料。
まさしくそれが、問題だった。ワインが幾らか残っているものの、それだけだ。
《言葉が通じる事をお祈りいたします》
YOU-OHからの、本気かどうか判らないメッセージ。
違うんだ。当面の問題は、現地民との意思疎通じゃない。
――人間はなにも食べなくとも一週間くらいは生きられるが、水がなければ三日と保たないのだ。