滝野川にて
以前に投稿をしました「滝野川のすっぽん」を書き改めた作品です。
王子稲荷わきの急な坂道を下っていると空が明るくなっていることに気がついた。傘を斜めに逸らし手を差し出してみるが雨粒は手のひらを濡らさない。いつの間にか雨は上がっていたようだった。六月の晴れ間は貴重である。ここ数日の雨空に欝々としていた私は、この機に石神井川を散歩してみようと思いついた。
王子の辺りの石神井川は深く掘り下げられた底を流れていて、その河川壁はいかにも人工的な容貌をしていたが、それでもなかなか雄大な眺めであった。川沿いの遊歩道は両側から覆いかぶさるように生い茂っている木々が街の喧噪を遮断するのに一役を買っていて、自然の中を散策している気分になれる。頭上では、先ほどまで降っていた雨に濡らされた木の葉が日光を浴びて鮮やかな深い緑色をしていた。葉の間から木漏れ日がきらきらと輝き、湿っている地面に複雑な模様を描く。私は樹木が作ったアーケイドの下を軽やかな足取りで歩いて行った。
遊歩道をしばらく歩くと、枝葉の天蓋がなくなり日差しに晒された。湿り気を帯び涼やかでさえあった空気が日の光に熱せられ汗ばむほどに感じる。視界が開けると町並みが目に入り、都内にいるんだと心が一気に引き戻された。
紅葉橋を横切ると面白い地形が目前に広がった。滝野川城跡である。川の水面と同じ高さに池があり、池を底にして半分に割った浅いすり鉢のような地形だ。池を舞台に見立てたオペラハウスとも言えるだろう。客席の部分は緩やかな斜面の緑地になっているが、多くの人々は、遊歩道と同じ高さで池と斜面を取り囲み見下ろすように設けられている広場部分でくつろぎの時間を過していて、池の周りは実質通路となっていた。池への階段を下りていき斜面から池とその先を流れる川を眺めた。この公園は『松橋弁財天洞窟跡』と呼ぶらしい。とすれば、このオペラハウスの舞台では弁財天の公演が行われるのだろう、などとおかしな想像を膨らませる。
赤く塗装された道をさらに進んで行った。一つ目の橋を横切り、さらに次の橋に差し掛かろうというところで、向こうの方に仏像が見えた。寿徳寺の谷津大観音だ。橋を渡った向こうのたもとに座して真っすぐにこちらを見つめている。住宅地のなかで突然現れる大きな仏像は周囲に不思議な印象を与えている。川の向こうからの観音様の視線を感じながら進んで行くと、白人の男性が鉄柵に張り付いて川の底を覗き込んでいた。たぶん近くにあるフランスの学校の関係者なのだろう。白人の男性は熱心に何かを見つめていた。すると彼は柵から乗り出していた身を起こすと、私のすぐ前を歩いていた年配の男性に声をかけた。
「すみません、ちょっといいですか」
流暢な日本語だった。
年配の男性は中折れハットにジャケットという洒落た格好で、私同様に川沿いの散歩を楽しんでいたようだ。白人の男性に声をかけられ、誘われるままに柵に張り付くように横に並ぶと、同じような形で川を覗き込んだ。背の高い後姿と低い後姿とが仲良く並んでいる。
白人の男性は川の底を指さした。
「あれってスッポンですよね?」
年配の男性は目を細めて指し示された先を凝視する。
「ん……ああ、スッポンだね。この辺には何匹か居るんだよ」
「やっぱり。ずいぶんと大きいですね」
白人の男性は感嘆している。
「ほんとうだ。大きく育ったね。何歳ぐらいになるんだろ」
私はさりげなく足を止め、ふたりの会話に聞き耳を立てていたが、次第に興味が湧いてきた。ふたりから少し離れた位置で柵に張り付き川の底を眺めてみる。水量は少なく、川面にわずかに窺えるうねりから流れていることが分かるほど穏やかでゆっくりとした流れ。水面にはいくつかの大きな石が顔を覗かせていて、そのひとつの上に大きな亀がいた。亀は黒くぬめっとした質感をしていてじっと動かずにいる。亀も久しぶりのお日さまを悦び日光浴に興じていたのだろう。私にはその亀がスッポンかは分からなかったが、言われてみるとたしかにスッポンのような気がした。
「あれだけ大きいと鍋にしたら何人分になるかな」
年配の男性がしみじみと言った。白人の男性は彼の顔をキョトンとした表情で見つめたが、次の瞬間ハハハッと大声で笑った。年配の男性も釣られたかのように笑う。
そのとき、ふと視線を感じた私がそちらの方を見てみると、川の向こう側では大きな観音像の後姿が日の光を浴びて輝いていた。観音様もふたりの会話に興味を持ったのだろうか。愉快な気分で私はその場をあとにして、川沿いの遊歩道を先へと進んで行った。
オリジナル「滝野川のすっぽん」
http://ncode.syosetu.com/n5530cx/
どこまで上達したかチャレンジの意味で書き改めてみました。
私の筆ではうまく書き表せていませんが、王子から滝野川へ続く石神井川沿いの遊歩道はお散歩にうってつけの気持ちがいい道ですよ。花の頃には圧巻の景色となるそうです。
川から少し離れますが、王子稲荷そばの葛餅も美味し。