関西空港に纏わる投機疑惑
この事案も関西である。昭和61年、未だJ流通社は国内何処にも支店開設すておらず、関西圏の大型案件も当部が担当、全国に出張していた。又もやS木常務の特命で大阪のM信託銀行・大阪不動産部へ行けと・・堂島のM信託銀行・大阪不動産部行くと、F井部長(後に同行の頭取になる人物)と同所に登記されている(株)N信(不動産会社)の社長N川氏と面談する事となった。銀行の中に民間不動産会社がある?社長は同行の元行員?当初は全く理解できずにいた。N川社長の話では南海電鉄の仕手戦で失敗したT本鐵鋼の穴埋め資金の手当てで、姉妹会社・Mタカ興産が関西空港開港に伴う投機を見込んで仕入れた物件・泉佐野やJR阪和線沿線に点在する多数の物件群を担保とする肩代わり・借り増し融資申し込みであった。翌日、所有する30物件近くを調査したが、溜池や底地、山林に墓地等、全く価値の無い物件ばかりで、到底投機目的で購入したとは思えなかった。
このN信なる会社こそ浪商銘柄と呼ばれた仕手戦や土地投機を画策した中核であった。最終的には江戸堀にあったT本鐵鋼の本社跡地を担保に100億強融資実行したが、返済方法もまたまたM信託銀行がウルトラCのテクニック、隣地所有者のI脇不動産や近隣を巻き込み、1500坪の用地に総合設計でインテリジェントビルを創り、信託数行の協調受益権による超長期返済のプロジェクト計画を策定、包括的に隠蔽吸収してしまった。現在の江戸堀センタービルがそれである。この案件もまた闇の奥である。昭和61年・この頃、金融・不動産業界のサラリーマン生活はまだまだ質素で年収は350万程度で憂さ晴らしに行くスナックにやっとオールドがキープ出来る位、カラオケはレーザーディスクで一曲・200円払ってました。庶民は未だ中流意識とは感じて居なかった時代です。