コスモポリタン事件に関与
昭和60年秋、詳細な日時は失念したが、S木常務から夕刻に非常招集がなされた「明日、大阪に行くから選抜チームを編成しろ」と詳細説明無く、緊急融資対応の3日で実行予定との事だけであった。翌日、S木常務・T課長・小生にT橋の4名は新幹線で新大阪に昼頃到着、駅にプラカードを迎えとベンツ2台が用意されていた。早々に梅田駅間wのビルに案内された。出て来た人物はコスモポリタン会長のI田氏であった。ここで初めて、融資内容の説明がなされた。担保物件は難波の一等地・千日前グランド花月を含む1500坪の土地・建物で希望金額は400億、使途は㈱の仕手戦資金である。後日に知ったが、雅叙園観光と日本ドリーム観光のオーナーで、昭和の大興行師と呼ばれた・故松尾國三氏の跡目・覇権争いで、現経営陣と妻シズエ氏とが熾烈な仕手戦繰り広げていた。コスモポリタン?I田氏は経営陣サイドの急先鋒であった。
I田氏は関西最大の広域暴力団Y組の金庫番・K本氏の配下で、同組織のフロント企業で、業界ではつとに知られていた。同日の夕方、詳細資料うを受領し、我々兵隊2名はホテルに缶詰で資料整理と精査、翌日の謄本申請準備等、諸々の下調べで徹夜となった。憶測だが上席者は北新地で会食に饗宴だろうと・・
翌日は、早朝7時より現場確認、写真撮影に法務局で謄本申請、役所で規制確認等1日駆け足で周って夕刻、新幹線で東京に戻った。次の日は急ピッチで稟議書作成して審査部に上申。2日半の超特急作業で体裁を整えた。しかし、事が事だけに各方面から注文が付き、100億減額の300億に・・金額も金額なだけに信託4行と債権銀行加えた協調融資団から調達、取得株も共担追加の条件となった。期間あ僅か3ヶ月程度であったが、全て秘密裡で社内公表も見送られた。最終的な顛末はダイエーの中内功氏が乗り出し日本ドリーム観光を傘下に吸収、雅叙園観光はコスモポリタンが取得する事で決着したが・・2年後、仕手戦に失敗したI田氏は失踪、雅叙園観光はK永中氏の手に渡るのである。この件では、当時ぺいぺいの身分の小生は下働きだけで、大物顧客との直接折衝は無く闇の奥覗けなかったが、政治家、フィクサー、銀行、証券会社の強欲さと権力を見せつけられた衝撃的事案であった。大阪・堂島は日本で初めて米会所が出来た場所で、名代の相場師・これ川銀蔵等が暗躍した地でもあり仕手戦・先物相場、投機の総本山とも言える。