転換期の切欠はプラザ合意
昭和60年は世相にも色んな事象、事件があり、経済構造の、金融システムの大転換点でもあった。主な事件としては山口組三代目・竹中組長射殺事件(分裂して、一和会との抗争に発展)、金投資詐欺・豊田商事の永野会長刺殺事件(テレビ中継中、自宅に右翼が侵入して刺殺)それに日航機123便・御巣鷹山墜落事故と衝撃的事件が多かった。同年9月に当時の先進5ヶ国の財務相会議(G5)がニューヨークのプラザホテルで開かれた、かの「プラザ合意」である。議題はアメリカの財政赤字と貿易赤字の解消で、強すぎるドルを緩和する事であった。当時は対日貿易額が一番大きかったので円が標的であった。60年頃$=¥240前後であったが、幾度の日銀介入(ミスター円・榊原氏)の影響で平成元年頃には$150前後に成っていた。この円高局面は日本に執って初めて経験で円が国際通貨と認知され、世界の序列、国力が上がって名実の経済大国となったと過信した一因であろう。しかし固定歩合は5%を維持しており預金金利も6%を確保していた。銀行は運用益を出すのに貸出残高を増やさなければ状況であった。今で言うインフレターゲットを模索していた。右肩上がりしか知らない日本経済は毎年上昇する土地価格(土地神話)を盲信し不動産投機、投資に対する融資に傾注していくのである。