魑魅魍魎・街金の世界
昭和の日本では銀行以外の金融会社(信販、リース会社等)全て貸金業者と言う括りなっていました。無担保の小口資金や飲食業の日掛けから不動産、株担保の億単位の大口融資、個人業者から銀行系ファイナンス会社迄、規模も利率、期間も様々でした。なんと最高利率も年100.4%、今じゃー到底違法な高利ですが・・それに手形、小切手が元利金の決済手段として多用されていました。主力取引銀行に当座口座を開設している事は信用・与信基準でもありました。
特に、大型の不動産担保ローンに関しては元金は元より、融資期間中の利払いに約束手形や先附小切手を預かって、期日決済が通例でしたが、しばしば資金不足で組戻しや依頼返却要請の緊急対応をしなければなりません。不渡り2回で銀行取引停止(倒産)と成りますから、利払い日は取引先も担当者も午後3時までハラハラの緊張感でした。保全方法も銀行の様な緩い物では無く、事故想定の3重4重の厳しい街金仕様です。担保物件には、抵当権、賃借権仮登記、さらに厳しい名義変更(譲渡担保、もしくは所有権移転)さらに出資行に再掲質入れを登記、元利金な手形、小切手預かりに、金銭消費貸借証書の公正証書や即決和解調書等を付帯していました。何よりも担保不動産の早期換価処分回収を最優先、最重点に置いた方策でした。こんな厳しい条件でも、当時の実需・住宅取得取得意欲は旺盛で新築戸建ては首都圏60㌔圏、マンションは30㌔圏がが通勤可能な住宅立地と言う基準でした。リフォーム、リノベーションの文化は未だ無く、中古物件のマーケットは非常に小さく、大手金融会社では融資対象外でした。
融資ロットは戸建で一案件、500万から4000万程度、道路位置指定を伴うミニ開発(3-5区画程度)でも1億程度であった。都内でも3000-5000万で新築戸建を探せました。小生が手掛けた中で一番大きい案件は、千葉市・三角町の開発物件・畑3000坪を28区画の分譲地に造成する計画で、都市計画法32条、29条の許可を取得から侵入道路拡幅、周回道路取付け、給排水、都市ガス引き込み等、竣工検査まで2年間みっちり勉強させられたプロジェクトでした。この案件でさえ総額3億程度でまだまだ安価でした。完成分譲地は勤住協(年金福祉事業団の外郭団体)に一括卸し、上物は積水ハウスとジョイントで販売、即完でした。サラリーマンが住宅取得で融資を受ける場合、一番オーソドックスな制度は住宅金融公庫と年金事業団からの併せ融資というパターンで、物件価格の80%をカバー出来ました。当時、勤め人の殆どは厚生年金加入者ですから、年金事業団は多くの潜在客を抱えていましたから、募集、販売は順調に推移していました。昭和60年迄は物件価格は経済成長やインフレ、所得上昇率に伴い正常順当に上昇していました。