敗戦処理と進駐軍
1990年三月、総量規制が発令され、一揆に不動産案件の融資にブレーキが懸った。4万円付近で推移していた株価も暴落、それからは、皆さんもご存じの様に長期不況、デフレの低迷、迷走の日本経済に成って行きます。不動産価格下落で担保割れ、債務超過となり、銀行やノンバンク等の金融機関は膨大な不良債権を抱える事と成った。1991年のDコーポ社の状況あ資本金102億、社員数650名、貸付残高は地方銀行より巨額な5600億、東証の店頭公開会社であった。親会社のD不動産、その他グループ会社を含めると一兆円以上の有利子負債を抱えていた。この莫大な債権と膨大な処理を行う為、主力銀行から再建チームが送り込まれ、代表取締役交代や役員人事も一新される事となった。Dコーポ社の場合はM信託銀行のプロジェクト推進室から5名が派遣され、代表取締役も同行の役員が就任した。不動産、融資債権、証券等、資産や業務状況を分析し始めた。半年間、各部門の責任者は頻繁に呼ばれ案件ごとの状況説明や各種の報告書を提出させられた。同時に、機構改革も行われ代表取締役の直轄下・経営企画室なる銀行出向組が頂点で、プロパーは営業関係を統括する営業推進部を頂点としローン部門、不動産部門の各営業部に組織変更される事と成った。小生は前述の様に法人融資の部署に五年も居たので、担当する大型融資案件の経過報告を経営企画室に説明する機会も多かった。1992年の春頃、M信託からの出向社長O澤氏と実務のトップ・経営企画室長のF田氏に呼ばれた。「○月○日付けで部長昇格、営業推進部長をやれ」と・・なんで?不良社員のレッテル貼られてる俺が?社運左右する企画関係の重責で、若輩の38歳じゃ先輩部長や取締役の反感買うのは必至、それに役得は皆無です。辞退したい旨の答弁をしたが、剛腕のF田室長に得々と熱弁説得され「他の役員に文句は言わせん」と・・その他にもプロパーの中から彼のメガネに適った人材を重要ポストに起用した。
F田氏からの最初に下命されたのは「当社の毎月のランニングコストは2億掛かるんじゃ、営業部門と協議して稼ぐ対応策考えて来て、企画室のO本付けるから」、O本氏はM信託プロジェクト推進室の若手のホープで歳は小生より一つ二つ下だが、聡明でアグレッシブな男であった。ローン部門、不動産部門の営業部隊から部課長を招集して連日の会議に報告書精査や草案作成で、毎日深夜まで残業、会社に泊まり込みも屡あった。戦いは進軍するより撤退、敗戦処理の方が数倍大変な事業・行為である。資金繰りの短期計画の後は、中期五ヵ年の再建計画の策定を命じられた。常用手段は人員整理と不採算部門の縮小・閉鎖である。Dコーポ・総員650名の二割を移籍もしくはD不動産グループ各社に出向させる事となった。半数は新設の不動産仲介会社に移籍、その他はビル管理会社や畑違いの学校法人の事務局、浦安にあるホテルの総務等と言う異動もあった。この時は同僚の運命や将来をさ痛する英断迫られ、精神的に大変な重圧を感じた。毎週月曜日の取締役会で進捗状況報告も定例行事であった。更に、提携会社のNエステート社とEファイナンス社との債務保証問題の折衝も担当させられた。その後も審査部長兼不動産流通部長等も歴任した。M信託管理下の3年間は自分の能力以上の責務が要求され、誠実かつ真剣に職務に邁進した時代であった。
1994年秋頃に、親会社D不動産の仕手戦にDコーポ社も加担していて証券現物と証書の二重担保の詐害行為で調達した500億分が発覚、本来なら詐欺事件で告発される事案であるが・・・銀行団と旧経営陣の上層部で秘密裏に協議・ネゴシエーションがなされ、再建不可能と判断したM信託の出向組は全員引き揚げとなった。取締役連も旧体制の陣容で返り咲き、Dコーポ社の代表取締役もS藤グループ総帥が再就任する事となった。M信託時代の方針は縮小、清算方向であった計画は全て反故、創業者のS藤会長は再興を主張していた。イエスマンの取り巻きが重役に起用され、現実的対応の施策提言や取締役会で異論を唱える小生等は国賊扱いの冷遇となった。サラリーマン社会はどこの組織も派閥や領袖、親分の地位とパワーバランスで処遇は大きく変わる物である。
1995年は日本に執って最悪な年と成った。1月に阪神淡路大震災、3月にはオウム真理教によるサリン無差別テロの重大事案が発生、当時、審査部長職にあった小生は、大阪支店が所管する神戸地域の案件の被害状況視察と臨店を兼ねて関西出張に出かけた。阪急電鉄の路線は寸断され、神戸長田地区は焼け野原、ビルや住宅は傾き、崖や石積はいたる所で崩れていて通行不能、「壊滅」と言う概念を初めて肌で実感した。バブル崩壊から既に4年経過したが、Dコーポ社の債務は1000億減少した程度で処理にあと何十年掛るか?見通し立たず、将来展望無い閉塞感が漂っていた。国是も不安定な政局で、弱小新党が乱立し、短命の連立政権(細川内閣、村山内閣)が続き、政治家は権力、勢力闘争に明け暮れていた。細川政権下では唐突に国民福祉税を提唱したり、方策や災害の緊急対応に遅滞、迷走の失態を演じていた。1996年に、辣腕弁護士・故中坊公平氏を社長とする住宅金融債権管理機構が発足するまで、公称・30兆の不良債権処理は方針すら決まっていなかった。




