フロント・企業舎弟への道
N木会長との出逢いは、T地所が横浜の関内に新築するソシアルビルの建築資金の融資要請であった。物件はJR関内駅近くの商業地域・常磐町の100坪で建築資金・7億には充分な担保であった。ただT地所には業歴は無く、親会社は横浜では有名な街金のN木商事で関東では有名な某組織の系列であった。不老町の事務所はその物で、電話では怒号や恫喝がしばしば飛び交い、横須賀のS井興行会長や相模原のH本氏等の業界人も頻繁に出入りしていた。T地所の社長はM瀬氏で一見温厚な紳士であるが、鳴る手のペテン師である。N木会長の風貌は一見してその筋と雰囲気を漂わせていたが、気質は一本気、話は短刀直入で・単純明瞭で決断も早かった。このソシアルビルについては、建築施工会社・H崎建設と債務引き受けの三社協定を結び、分割貸付方式で万難の保全を排して、スムーズに竣工完成まで持っていった。この事以来、信頼を得たのか?次々に案件が持込まれる様になった。
次に持込まれたのが新横浜のラブホテルの買収で営業権も付帯させるので会社法人自体の売買形態となり、株式譲渡や役員改選と簿外債務の調査も必要であった。その上、売買金額は実質12億だが、表面は9億に圧縮して裏を現金3億で欲しいとの要望であった。公的金融機関では到底拒否される条件である。N木会長や売主代理の弁護士とも熟考・熟慮の会議を重ね、B勘定はN木会長の個人資金から捻出して売買を成立させた。取引当日、現金3億は日銀の1億パックをジュラルミンケースいれた3箱が並べられた。3億の現金は生涯二度と拝めないと思い、後世のみあげに札束並べてベットにして寝てみた・・最高の余興ではあるが・・・快感は無く、固いだけであった。
次に持ち込まれたのはN木会長の自宅の新築である。当時、N木会長の個人資産は100億と噂されていました。既に横浜・山手に更地400坪を購入してるので、上物の建築費・10億を融資してくれとの要望であった。横浜での一番の高級住宅街は山手本通り界隈ですが、当該物件はフェリス女学院と双葉学園の中間位置で表通りから一本奥まった閑静なお屋敷街にあった。道路付も南西6mの角地、地形も長方整形で、山手でも一級品であった。査定金額は坪当たり400万、与信は16億で担保としては充分であった。請負う工務店と早々協議に入った。建築をやん等する足立区のA社は基礎工事ではは有名であるが、建物本体の技術力の評判はそれ程高く無かった。不可解な選定と疑問視していたが、設計図を見て納得した。基礎や外壁の厚さが1.5mあるのだ、バズーカ砲を撃ち込まれても壊れない。設計図の詳細を見ると、半地下車庫や地下のフィットネス・ルームは完全な要塞である。建築途中も何度か視察したが、建坪は100坪で寝室には床暖房のオンドル、リビングルームは30坪で20名座れるソファー、駐車場は地上2台に半地下に4台分確保していた。防犯カメラも10台設置の大豪邸であった。工期は1年余りで完成し、竣工パーティーで調度品や車も披露させた。玄関には柿右衛門の大皿が飾られ、車庫にはロールスロイスとアストンマーチンが鎮座していた。備品も名品、一流品で揃え、豪華絢爛・・・総工費と調度品を含め、25億掛ったと豪語していた。
半年後、今度は本社を建てたいとの希望、それも容赦(J流通社)が所有する関内駅前の45坪に隣地M本乳業の30坪の古いビルを買収して、合算の計70坪にして建てたいと。業界の老舗・Rモンド設計事務所が監修した、渋谷のS社本社ビル(円筒形の全面ミラーガラスのインテリジェントビル)と同じ物を建てたいと途方もない要望であった。土地、建物の総事業費は40億にも上る大プロジェクトである。この案件を含めると、T地所関連の4件で融資総額はは既に60億強に・・上層部よりその素性からも危惧される意見も出された。融資部門と不動産担当部門の合同案件となるので、幾度も協議が重ねられた。最終的には社有地の売却益やコンサルタント料等のメリット多大と判断し、プロジェクトを始動する事となった。しかし難題山積み、まず隣地買収は、M本乳業と面識がある法人不動産部のO係長が担当、目論見では当社が一次取得し、古ビルを解体して更地に、社有地と合筆して更地70坪でT辞書に引き渡す。建築関係は総合監修・Rモンド設計事務所、湾曲した曲面多用した特殊技術を有するゼネコンとしてO林組を指定、躯体骨組はN潟鉄工と一流処の面々である。建築費は23億、金額も金額なので請負受託する方も、施主の資金力や素性を綿密に調査、その結果O林組の横浜支店から総務部長と課長が当社に往訪してきた。彼等の要求はT辞書は堅気の会社でないので、御社が債務保証して欲しいと・・・金融機関が出せるものは融資証明位も物と回答したが、先方は再三保証を求めてきた。融資元は債務者と同列・同等の立場では無い。金融機関としては非常識、言語道断な要求で計画中止の意見も出されたが、N木会長に「成功者の証、シンボルとしてどうしてこのビルを建てたい」熱望、懇願された。苦肉の策として重畳的債務引き受け契約(事故が発生した場合は全ての債務を引き受ける)と言う証書をO林組に差入れる事で決着した。工期は二年を要し途中、地盤改良や旧建物の地中杭が出て撤去費用や追加工事で3000万の費用増とは成ったが、1988年、関内駅前に一際目立つ円柱型のミラーガラスビル「マリンウェーブ」・N木商事本社が堂々完成の運びとなった。N木会長の喜びは一入で竣工パーティー前の内祝いと言う事で赤坂で会食する事になった。N木商事本社の関内から車で移動、白ベンツのリムジン(キャラット仕様)で横羽線をかっ飛ばして、夕刻時、赤坂のTBS正面玄関前に堂々と横着けした。通行人の羨望や好奇の目が注がれたが、もっと驚かされたのは、丁度出勤時のお水関係のお姉様方が皆、N木会長に挨拶して行くのである。彼の夜総界や女性関係の武勇伝は噂では聞いていたが、関内はおろか赤坂でも夜の名士であった。先ず行ったのは業界人ご用達のステーキ・ハウスDでサーロインをご馳走に為っていた。しばらくして黒服のゴツイ5-6人の男達が入って来た。その真ん中に小柄な中年男性が「よぉーN木」と声を掛けてきた、N木会長は起立して「どうも、理事長」と最敬礼した。どこの方ですかと尋ねたら、I川会のナンバー2・T田理事長だと紹介された。これが、I川会本家筋との出会いであった。それ以降、N木会長が小生の事を顧問と紹介するもので、関係業界の方々が噂や評判を聞きつけてか?多数ご来訪、ご指名で次々に案件が持ち込まれる様になった。社内で暗黙の了解?何故かマル暴担当に成っていて、しばしば受付に来るそれ系のお客様の応対に呼ばれる機会が多かった。




