建て替えられた病院と父母との夢
父のあまり動かない口に
無理やりに大きなスプーンを入れて
やわらかい粥を食べさせる
面倒くさいからさっさと終ろうや
お互いに照れ臭さかったからそう言って
半身不随になり立ての父に
粥を食わせた
無理にやれば肺炎になってしまうそうだったが
それでもわたしと父はそれが必要だと思った
わたしは初めて父を赤子のように扱い
父はムッとしながらどこか喜んでいた
父はわたしのまだ幼かった長男に
カニの化け物にやられたのだと
ほとんど聞き取れない口調で
繰り返し言った
そうして何か
ノートに書き残したものを読み返しても
文字らしきものは乱れすぎていて
まったく読めるようなものではなかった
一時的に回復した父を車椅子に乗せて
わたしが押して病室から出た
リハビリの始めだと医者は言った
建て替え寸前の病院では
窓の外でずっと工事をしていた
父の状態は次第に悪くなっていった
工事の騒音の中で
人工呼吸器や生命維持のための機械の音だけが
管だらけになって眠る父の気配であった
いくら拭いても
目ヤニが溢れてきた
涙が零れてきた
脂ぎってむくんだ顔と手を拭ってやり
やけにほっそりとした冷たくなっている足を揉んでやる
変わらないように思える父を残し
病院を出て牛丼を食べに行った
貧しい味が旨かった
眠れない夜が幾晩か過ぎて
月が替わるころに
父は心臓だけが動く状態になった
それからは
まるで魂の尾をどこまで細く長く曳けるかに挑戦しているかのように
まるで己の無念を辺りにまき散らしているかのように
心臓は止まりかけては動き出すことを繰り返したが
やはり
ついに命の緒はぷつりと切れてしまった
その時のわたしたちにとって
医者の奇跡の言葉ほど空々しいものはなかった
付き添ったわたしたちにとって
父の努力ほど痛々しいものはなかった
今日見上げるこの病院は
建て替えが完了したようで新しく美しく凛々しく映る
しかし
父の逝った夜の病院はまだ
古く古く体制も変わったばかりで頼りなく工事中だった
運の悪かった父らしい最後かもしれないが
あんなことやそんなことはわたしにとって
消えない傷になって残っている
あの時食わせた粥こそが
わたしの与えた最後の食だったことを思うと
あのリハビリこそが
最初で最後のリハビリだったことを思うと
お互い十分語りあったのではないかと
でも何にも分かりあえないままだったのではないかと
そんな父との思い出の病室はもう形を変えて
誰かの部屋になっていて
何かの病気と闘っているのだろう
わたしの夢に出てくる父には顔がない
声も出さない
あるいは
遠くで見ていたり
あるいは
よく
わたしの代わりに
誰かに
叱られてくれていたりする
わたしはその夢の中では
こどもになっている
そうして
まれに
夢の中で
姿だけの父と
気配だけの母と
こどものわたしが
そろっているような気がすることがある
そこでは
わたしだけが嬉しそうにはしゃぎ
二人は見守っているようだ
目が覚めて
夢の甘さを思いだして
もう一度眠っても
その夢はもう現れない
ただ目覚めた後の虚しさが
父母も寝ていた
この寝室の壁に床に天井に
そしてわたしの枕元に
冷たく静かな沈黙の香りを漂わしているだけだ