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6/7

土曜日

 目覚まし時計の音でも、母の怒鳴り声でもなく、私が聞いたのは家の外を走る車のエンジン音だった。上半身を起こして力一杯伸びをして、それからぺたりと倒れ込む。ふわわと欠伸をして目を擦ると深い青のカーテンを間をすり抜けた光が眩しい。どうにか起き上がってカーテンを開くと太陽は高く、空には雲も無く、いい天気だった。私は改めて、今度は体全身で伸びをしてから時計に目をやると十時を大幅に過ぎていた。

 休日になると痛感する。無理矢理起きるのではなく、自然に目を覚ますことの、何と清々しいことか。アラームの不快な連続音や母の怒号で重たい体と眠ったままの頭で布団から這い出るのとは、訳が違う。大切な休日の時間を、睡眠で無為にする勿体無い行為、これこそ最高の贅沢、いつまででも眠っていていいという、自由という名前の贅沢だ。

 でも今日は休日だけれども、いつまででも、という訳にはいかない。私はすっきりした目覚めなのでそのことを忘れていない。真理と瑠璃と遊ぶのだ。ふふふ、と声が出てしまう。

 遅い朝食として食パンを一枚そのまま食べて、林檎ジュースで流し込む。起床と同じように、何かに迫られていない、余裕のある食事というものもまた、良いものだ。顔を洗い、髪を梳かし、服を着替えてから軽く化粧をする。鏡の前でもう一度髪を梳かしてから、ニットの帽子を被る。これはお気に入りで、気分の乗ったときにしか出さない。天辺に付いているふわふわのぽんぽんの位置を調整して、うんと頷く。余は満足である、とひとりごちた。今日の私は相当調子がいい。


 バス停まで歩く速度もゆっくりで世界の動きも私に合わせてゆっくりに見える。時間にも粘度があるみたいにとろりと生きている。音も光も緩やかに思え、私は鳥の飛んでいるのや、自転車の車輪の回るのやらを見てくふふと笑う。どうしてこんなに気分がいいのだろう?理由は色々と思い当たるけれど、一番はきっと起き方にあると思えて仕方ない。

 バスは平日と休日でダイヤが異なる上にそもそもこんな時間帯のバスを平日に使うことは稀なので、私はバス停に着いてから暫く一人で待つ。僅かに肌寒く感じるが、暑いよりはずっと好きな気温である。真理や瑠璃はもう着いているだろうか。三人の中で私は一番ずぼらな性格をしているから、きっと最後に到着するのは私だろう。でも具体的に何時何分に待ち合わせ、という訳でもない。お昼に駅で、というのが私達のスタイルだ。少しくらい待たせてしまっても、あるいは少しくらい待つことになっても、それは誤差として認めあっているので私は特に焦りもしない。こういうところがずぼらなのだなとは、思っているのだけれど。

 バスが到着して、私は車内の暖房で暖まる。私の他に乗客はおらず、私だけを運ぶためにエンジンは回る。贅沢で、エネルギのロスだと感じる。けれど座っているだけで進むし、暖房は効いているし、つまりは楽ちんなのだ。それに私が乗ろうが乗るまいがバスは走るのだし、だったらどれだけエネルギ的に勿体無い状態だとしても、利用しない手は無いだろう。私はそんなことを一人で考えて悦に入ってうんうんと頷く。

 昨日まで妙に慌ただしく思えていたけれど、終わってみればそう大それた問題でも無かったのかな、と不意に思う。喉元過ぎれば、とは違うけれど。しかし案外上手くいくものだ。勿論全部が全部解決したということはなく、瑠璃の恋愛問題であるとか赤川の心の傷の有無やその深さ、私と真理の今後といったものは残っている。それでも、そういったものはやはり時間の経過でどうにか決着が着くだろう。そう思いたいし、そう信じられるくらいには今日は良く晴れていた。


 いつものバス停で降りて、またとことこと歩く。駅までは多少距離があるけれども気分の乗っている私に恐いものなどない。今ならどこまででも歩いていけそうだ。足取りは軽く、体は軽く、心も軽い。

 駅の前に設置された大きな地図の側に、もう真理も瑠璃も立っていて何か楽しげに話していた。真理は女の子らしいワンピースにカーディガンを着て、瑠璃は学校にでも寄ってきたのだろうか、休日だと言うのに制服だった。私は二人を見付けると、自然と笑みがこぼれてしまう。口がへらへらとしてしまうのを抑えることが出来ずに、嬉しさの余り歩幅は大きくなる。

「ごめん、やっぱり私が最後だったね」

「漸く来た、ね、ほら、楓は謝ったでしょう?」

「何のこと?」

「真理と話していたのさ、楓は最初に何と言って話し掛けてくるかってね。私は楓なら気にもせず、寒いね、だとか、お腹減った、だとか言うと思ったんだけど」

「私はまず形式的にでも謝るってわかってたからね、瑠璃ちゃんよりも楓に詳しいんだから」

「もう、酷いなあ、本当にごめんって思ってるんだから」

「はいはい、じゃあ、とりあえずどこかに入ろうか。私も真理も、お昼がまだなんだ。楓は?」

「あ、私、さっきパン食べたとこなんだけど……でもいいよ、食パン一枚だけだし」

「さては起きたばっかりね、駄目よ、もう」

 駅の近くにある喫茶店に入って、真理と瑠璃はスパゲティを頼む。私はホットの紅茶だけ頼んで、後でケーキでも追加注文しようと考えた。帽子を取ると髪がぼさぼさになってしまって、私は手でどうにか整える。

「何だか、猫が毛並みを整えてるみたいね」と真理が言うけれど、そんな可愛らしい仕草ではなく、えい、えい、と無造作に手を動かす私は端から見ればとても馬鹿に見えるだろう。もっと優雅な動きをしたいけれどそれは出来ないので私は恥ずかしくなる。

「あのね、今日思ったの」

 二人がスパゲティを美味しそうに食べているのを見て唾液が分泌されるのを感じながら話し出す。一人何も食べていない私は手持ち無沙汰、じゃなくて、口寂しい、でもなくて、何となく暇なのだ。

「やっぱり時間通りに起きて学校に行くってのは、間違ってると思う」

「楓は朝に弱いからねえ」と真理。

「まあそれもあるんだけど、でも誰だって、毎朝の通学やら通勤やらは嫌なものじゃない?私が特別嫌っているってものでもないでしょう?」

「それはそうかも知れないけれど、でもお昼から通学、なんてことになったら帰りは夜遅くになる」瑠璃は私の意見に反論する。

「まあ、まあ、そこら辺はちょっと置いておくとして」

 私は今日感じたことを話す。目覚まし時計でも、誰か他人にでもなく、自分が勝手に目覚めることの心地よさ、気持ちよさ、清々しさについて。時間に余裕があるという状況は人を豊かにする。決まった時間に、無理矢理に起きるというのは辛いばかりで、空の青さや風の匂いを気に留めることもせずにあくせく動かなければならない。それは不幸な生き方ではないか、という持論を展開する。二人は口をもぐもぐさせながら私の話を興味深くはなさそうに聞いている。

「ね、だから、やっぱり朝から活動するって決めちゃうのが、おかしいんじゃないかなあ。朝の苦手な人、朝の得意な人、それぞれあるのだから、誰も彼もいっしょくたに朝に合わせなくてもいいんじゃないかなって」

「楓、あのね……」

「いや、真理、私が言うよ。真理は楓に優しすぎる」

 二人は少し疲れた目をしてそんな風に言う。あれ、私の折角の力説なのに、思っていた反応と違うなあ。寧ろこれから怒られるような、独特の雰囲気があるなあ。

「楓に何度言ったかわからないけれどね」瑠璃はフォークを置いて私の目を見つめる。「そういうことを考えるより、もっと単純で簡単な解決方法があるの。わかる?」

「ええと、ええと。わかった!全部の時間を一時間か二時間早めるの!つまり、今朝の七時って言っている時間を、朝の五時とかにするの!そうしたら私は朝に起きなくてもよくなるわ、だって朝の五時なんて、まだ夜みたいなものだもの」

「いいや、そんな世界の基準を動かさなくてもいいんだ。いい?楓が、今よりもっと、早起きをすればいいんだよ」

 瑠璃はとても厳しい現実を私に突き付けた。真理は何だか残念そうな目で私を見て、小さく頷いた。いい案だと思ったのだけれど。

「楓、覚えてないかも知れないけどね、楓はちょっと前にもそんな暴論を言っていたのよ」

「そうだっけ、覚えてないや」

「楓は何でそう、自分が後少し長く寝たいという欲求のために世界を変えてしまおうとするのか、私にはわからん」

 ううん、と私は腕組みをする。私が言いたかったのは、今日がとても素敵な日で、それは私の起き方が素敵なものだったからなのだ、ということなのだけれど、何故こんな話になってしまったのだろう。

「楓はちょっと、あれなのよね。普段朝に辛い思いをしているから、他の人より疲れちゃってるのよね」という真理の精一杯のフォローは、どこか憐れみを含んでいるように聞こえた。

「朝に二時間余裕があったら、二時間余分に寝てしまうんじゃないかな。それできっとまた、ああ、後二時間あればと思いながら支度をするはずさ、楓は」瑠璃は出来るだけ柔らかい口調で私を諭した。


 二人が珈琲を、私がケーキを頼んでのんびり過ごしてから喫茶店を出る。風が先程よりも強く吹いて、暖房に慣れた体に冷たく突き刺さる。「これからどうする?」という瑠璃の問いに、私も真理も買い物がしたい、と答える。瑠璃も同じ意見だったようで、私達は揉めることもなくショッピングモールに向かった。

 服を見て、靴を見て、本を見て、雑貨を見て、展示されている炬燵を見て、照明を見て、また服を見て、そうやって冷やかしながら他愛もない雑談を続ける。商品のことだったり、そうでないことだったり。そうしているだけで私は満たされてしまう。時間を忘れて、他の色んなことを忘れて、真理と瑠璃と話をすることに夢中になって、それ以外のことは考えられなくなる。中毒みたいなものかもしれない。私は友人中毒。でもこの三人でいるというのはとても収まりがいい気がして、だから真理が不意に私の小指に自分の小指を絡めて悪戯っぽく笑ったとき私はぞくりとした。

 真理は、こういう三人の関係を壊してでも私を手に入れたいと思ったのだろうか。ともすれば瑠璃に嫌われたり、避けられたりする可能性を、考えたりしたのだろうか。その上で私を恋人にしたいと思ってくれたのだろうか。そういった意思は、少なくとも彼女の小指からも笑みからも、伝わってはこなかった。

 ひとしきり店を見て回った私達はベンチに座って休憩をする。お喋りは止むことはなく、楽しい時は続く。真理の笑顔に悪寒を感じたこと以外は何事もない、幸福ないつもの休日だった。

 真理がトイレに行って、瑠璃と二人きりになる。瑠璃は腕にはめた時計をちらと見て、「もうちょっとしたら、学校に行かなきゃならないんだ」と笑った。演劇部に関係があるのだろう、だから今日は制服だったのかと合点がいく、帰宅部の私には縁のない話だけれど。

「瑠璃、赤川のことだけど」

 このタイミングかな、と思うが先か私の口は勝手に動いていた。どう話そうか、どこまで話そうかすらまとまっていないのに、言葉はどんどん出てしまう。

「やっぱり私は、付き合えなかった。昨日、お断りをしたの」

「それは」と瑠璃が言ったのを目で制して、私は続ける。

「私が自分の為に決めたことで、瑠璃のことなんて全然考えもしなかったの」これは半分以上嘘だった。確かに私自身の為だけれど、瑠璃の存在も大いに関係していた。

「つまりは、男の子とお付き合いするなんて、私には早かったってことなんだと、思う」これはほんの少しだけ嘘だった。女の子とは付き合えるという事実が抜けているという意味で、完全な真実ではなかった。

 瑠璃は私の顔をまじまじと見て、私の中の嘘を探ろうとしているようだったけれど、三秒ほどで諦めて、ふう、と息を吐いた。本心は、嘘を上手に隠してくれる。

「そっか。じゃあ、私は何て言えばいいんだろう」

「何でもいいよ、瑠璃の好きなように言ってくれると、私はそれだけで嬉しい」

「それなら、こう言おうかな。楓、男を見る目が無いね」

 私と瑠璃はけらけらと笑う。もっと色んな言葉が、色んな感情があったとしても、心がずきずきと痛んだとしても、私も瑠璃も笑ってそれを覆ってしまう。それが私の依存している友情のいいところだ。

「私のことは関係なく、瑠璃が赤川と付き合ったりしたら、とても素敵だよね」

「ちょっと、やめてよ、もう」瑠璃は頬を少し染めて否定する。この話題になると瑠璃は簡単に女の子になってしまう。たったの一瞬で。

「瑠璃、可愛い」この言葉は嘘の欠片もなく、完璧に真実だった。

 真理がトイレから戻ってきて、瑠璃は急いで冷静な表情を作る。とても迅速で流石演劇部と言ったところだけれど、その様子を見ているとくふくふと笑ってしまう。

「何話してたの?やけに楽しそうね、楓は。お手洗いにも付き合ってくれないし、私のいないところで瑠璃ちゃんと楽しそうにしていて、妬けちゃうなあ」

 真理が大袈裟に怒ってそれでも目が笑っている。私はそんな真理に「うおお、ごめんよう」と言いながら腕に抱き付く。大袈裟に、わざとらしく。冗談みたいなやり取りは、私をひたすらに幸福にする。真理は驚いて、ひゃあ、と声を上げ、瑠璃は呆れたように肩を竦めた。


 瑠璃が時間だと言うので、私達はショッピングモールを出て瑠璃と一緒に学校に向かう。聞けば、簡単な話し合いが行われるらしく、瑠璃は二年生の代表として参加するらしい。次期部長候補は、もう今から責任というものを少しずつ背負っているのだとわかって感心する。

「恐らく、三十分かそこらだと思うんだけどね」という瑠璃の言葉を聞いて、私は、じゃあ付き合うよ、話し合いが行われている間は校内で適当に時間を潰せばいいのだし、と言って付いていく。もしかしたら真理は、本当のところは瑠璃とはここでお別れしたい、と思ったかも知れない、今日は本来はデートのはずだったのだから。でも私が何も考えないでそういう提案をすることをわかっているのか、最初から諦めているのか、それともやはり友人の瑠璃とお別れするのは寂しいのか、特に反論もしなかった。

「どんな話、するの?」

「さあ、私も初めてだからよくは知らないけれど、来年のこととか、次の演目の配役とか、そんなことろだと聞いている」

「今はどんなお話をしてるの?瑠璃ちゃんは、また王子様の役かしら」

 瑠璃はそれなりに背も高く、男役をしても見映えがいい。王子様のあだ名は伊達ではない。私も彼女の演技に、後輩の女の子達に混じってきゃあきゃあと声を上げたいくらいだった。

「今は叶わない恋の話さ、まあよくある話と言えばそうなんだけどね。今回は王子役ではないよ、王女様に仕える従者なんだ」

 学校までの道を歩きながら、瑠璃の演劇部での活躍が話題となった。こういうとき、部活に入っていたら私も武勇伝の一つや二つ、話せるのになあ、と思う。でもぐうたらな私には無理なことだろう。瑠璃の情熱的な目と口ぶりで、そう判断する。私には無いエネルギだ。

 学校に着いて、瑠璃と一旦別れる。制服でもないのに学校にいると、妙にそわそわとする。

「先生に見つかったら、怒られちゃうかな?」

「平気じゃないかしら、私達だって一応はここの生徒なのだし、謝れば許してくれるわよ、きっと」

 真理は怯えたりもせずにずんずん歩いていく。私はといえば、辺りをきょろきゃろ見渡しておっかなびっくり歩くばかりである。きっと真理は大人に怒られることがないから知らないのだ、真面目に叱られているときの居たたまれなさを。

 校舎には入れないので、私達は花壇に植えられた枯れた花やグラウンドで練習をしている運動部を眺めて過ごす。

「ごめんね」私は真理に謝る。今日がデートのはずだったと、昨日のうちに気付けないで。

「いいのよ、瑠璃ちゃんといるのだって楽しいし、私だって三人で仲良くしていたいもの。でもね、次に誘うときは、今度こそデート、するからね」

 真理は私の手に指を絡ませながら微笑む。今度はぞくりとはしなかったけれど、その笑顔は私の体を掴んでしまう巨大な手に思えた。

「うん、まだ、その、恋人って自覚が無かったから」

「結構勇気いるのよ、楓を誘った時の心臓の早いこと早いこと」

 真理は顔を近付けて、私の耳元で囁いた。くすぐったくて思わず笑うばかりで、その後に続いた「ごめんね」という言葉の意味を、私はわからないまま聞き流した。

 目の前のグラウンドではサッカー部が声を上げながら走っている。彼等に、私達はどう映るだろう。休日に、私服で、芝生の上に座り込んで、こんなに密着している二人の女の子は、何に見えるだろう、顧問の先生は私達を疑問に思ったりはしないだろうか。練習に一生懸命で私達なんて目に入らないのかな。

 私と真理は立ち上がって彷徨く。真理は「探検よ、探検。吊り橋効果も、あるかも知れないしね」と笑って私を引っ張っていく。誰かに見付かって怒られるのでは、というどきどきが、真理といることについてのどきどきに変換される可能性はどれくらいあるのか、私にはわからない。でも、そうなるなら嬉しい。勘違いでもいいから、真理にどきどきしたかった。相変わらず辺りを見回しながら、そんなことを思った。


 高校のグラウンドは主に二つの部活動に使用されている。サッカー部と、野球部だ。その他の運動部、例えば陸上部やハンドボール部、テニス部などは隅の方に小さく陣取って狭苦しく活動をしていた。この高校は特別優れた運動部というものはなく、使用面積はそのまま必要最低限の面積となる。サッカー部および野球部が広いスペースを使用しているのは、そういう理由からだった。だからグラウンドと校舎の間を歩く私と真理が、野球部の人間に発見されるのも自然なことだった。

 水道近くを歩いていたとき、後ろから「あの」と話し掛けられて私も真理も飛び上がった。私は先生に見付かってしまったのではという驚きから、真理はその声が男性のものであったことから。私が振り返るのと同時に真理は体半分だけ私の後ろに隠す。私と二人きりでいるときのような強さは微塵もなく、男の子が苦手なお嬢様みたいな真理にすっかり戻っていた。これが内弁慶というものなのかな、とふと思った。可愛らしい、普段の真理。

 話し掛けてきた声の主は、野球のユニフォームに身を包み、グローブを小脇に抱えていた。その姿と短い髪を見て一瞬赤川かと身構えたが、果たしてそれは別人だった。

「千鳥、楓さん、ですよね」

 その男の子は私の名前を知っていた。私はこくこくと頷くばかりで言葉が出ない、声を掛けられた驚きと焦りから動転してるとわかった。真理は私の服を掴んでぎゅう、と力を入れた。いざとなったら私の前に出て、この男の子を排除しようと考えているのだ。内に秘めた激情が服に皺を作る。

「あの、俺、二年の青原良樹です、覚えてませんか」

 ああ、何かその名前には聞き覚えがあるぞ、それによく見たら彼の顔、時々見掛けるぞ、というか赤川の友達じゃん、前に一度話したこともある人じゃん、と思い至るまでたっぷり五秒を要した。私が「あの、はい、わかりますわかります」と答えると、青原はほっとしたように表情を崩した。

「良かった、制服じゃないから人違いかと思って」

 坊主頭を掻きながら笑う青原はそれなりに身長が高く、私や真理は彼の顔を殆ど見上げる形になるからどんなに柔らかな物腰でも威圧感がある。真理は私の服を引っ張る、逃げようというサインなのだろう。

「ちょっと、千鳥さんと二人で話がしたいんですけど、いいですか?その、後ろの人。五分もあれば、終わるので」

 青原は何故か私ではなく私の後ろでぷるぷるしている真理に確認を取る。直感で、真理の承諾なしには私と話すことも出来ないのだと悟ったのだろうか。だとしたら見た目によらず結構鋭いと思う。

 真理はうう、と唸っていたけれど、やがて頷いたようだった。彼が軽く笑って頭を下げたから、真理を見ていない私にも理解できた。私にだけ届く声で「気を付けてね」と言ってから真理は私の服から手を離す。真理はどうも男の子に対して警戒心が強い気がする、確かに青原は背も高く体つきも運動部らしくがっしりとしているが、いくらなんでも気を付けることなんてないだろう、そんないきなり蹴る殴るの暴行を加えることは無いはずだ、多分。


 真理が「じゃあ、また後で」と言って校舎の角を曲がってから、私と青原の間には少し沈黙が流れる。出来れば早くしてほしい、真理を待たせるのも悪いし、変な心配をかけたくない。

「その、千鳥さん、すいませんでした」

 突然謝られたかと思うと、青原は腰を直角に曲げて頭を下げた。試合で慣れているのか、指先までぴんと伸ばした姿勢のいいお辞儀だった。しかし、何が、どう、すいませんなのかは皆目検討もつかない。

「その、手紙のことです」と言われても私の頭の中はクエスチョンマークで一杯で、手紙、手紙と唱えていると意識は私の家の、私の部屋の、勉強机の三段目の引き出し、買ったまま開かれていない参考書の下にまで到達する。そうして私は納得した。あれか!

 すっかり忘れていた。確かあれは真理と赤川に神社で告白された日のこと、私の人生初のラブレター。私が悪戯だろうと決め付けて思考の外にうっちゃって、それでも記念だからと思って一応取っておいてある、あの差出人すら書かれていない白い封筒とたった一文だけ書かれていた白い便箋。きっと手紙とは、あのことだ。

 私が「ああ!」と声を出すのを聞いてから、青原はゆっくり頭を上げる。

「その、悪気があってしたことでは無いんです。ただ、レン、いや、赤川の奴がいつまでもうじうじ悩んでいるから、切っ掛けになればと思って」

 青原の話を要約すると、こうだ。

 彼は赤川から、恋愛に関する相談を受けていた。千鳥楓というクラスメイトを好きになったと。しかしどう説得しても一向に好意を伝えない様子の赤川に業を煮やした青原は、私に手紙を送ることで赤川を急かそうとしたのだった。自分も千鳥楓が好きで、俺はもう行動に移したぞ、どうだ、お前より先んじて付き合ってしまうぞ、という、半ば脅迫に近い形で赤川に告白させようという策略だったらしい。

 しかし赤川は赤川で既に行動を開始していた。真理と接触し、真理の私に対する好意を知り、二人で私に、同時に告白しようという作戦を練っていたのだ。そしてその作戦は、青原が赤川を焚き付けるよりも少しだけ早く実行に移された。

「レンに手紙のことを言おうとしたら、あいつその日に限って部活をさぼるし、次の日慌ててあいつに会ったら、もう千鳥さんに告白したとか言うもんだから、俺もつい言いそびれてしまって。千鳥さんに事情を話そうにも、レンが告白した後に千鳥さんに近付くのはもっとまずいかと考えて、でも早く言わなくちゃと思って、焦ってばかりで」

 それで今日、偶然私を見掛けて思わず声を掛けたという訳か。彼の杞憂を尻目に、私は今の今まですっかり忘れていたのだけれど。

「じゃあやっぱり、あの手紙は嘘だったんだね」

「そう、です、ごめんなさい。宛名を書くといざというときにこじれてしまうかと思って、気味の悪いものを渡してしまいました。もっと早く、翌日には事情が説明できると思っていたんです」

「何もあんなこと書かなくても、呼び出しだけだとか、嘘ですと一言付け加えるとかすれば良かったのに」

「それも……考えました。でも、あれが一番いい方法だと思えて」

 私が呼び出しに応じればラブレターなんてものよりも強く印象付いてしまい、赤川が私に告白することなく諦めてしまうかも知れない。あの手紙に嘘だとわかる文面があれば、私は大声でそのことを話したかも知れず、それは赤川の耳に入るかも知れない。私がラブレターを貰ったという事実を作りつつ、出来るだけ進展のない状態に留めておこうという青原の作戦は、確かに無難な選択だと思える。私が無駄にやきもきするというデメリットを除けば。

「だからこうして、謝ろうと考えていました。いくらレンの為とはいえ、千鳥さんを不快にさせたのは事実ですし、弁解の余地もありません」青原は再び頭を下げた。今度は直角よりももっと深く。

 私はちょっと噴き出して、それから青原に言う。

「いいよ、もう。私より赤川の方が大切だったんでしょ、青原くんは。まあちょっと運が悪くて何の意味も成さなかったけどさ、私をどうにかしたかったんじゃないってんなら、それでいいよ」本当に、それでいい。青原は青原なりに、どうにか世界が悲しまないように願って行動したのだ。じゃあ私に責める権利は、無い。そう感じたので、私は笑って水に流す。

 青原は別れ際、私の方を振り返ってまた深々とお辞儀をした。礼儀を重んじ過ぎていて却って愚かしく思える。それは申し訳なさの表れなんだろうけれど、そんなに畏まらなくてもいいし、別に全部冗談でしたとか、罰ゲームでしたとか、適当に言い訳してしまえばいいし、と私は思う。まあ、あの愚直さが彼のいいところなんだろう、知らないけれど。


 私は真理を探して校舎の壁に沿って歩く。もしかしたらすぐそこでこっそり私達のやり取りを聞いているのではと考えていたけれど、そういう失礼なことをしない真理はあれだけ名残惜しそうにしながら私から遠く離れていったようだった。そこまで離れなくても、と思いながら体育館を目指す。もうすぐ学校に来て三十分だ。演劇部の話し合いが部室で行われているのか、体育館の壇上で行われているのかもわからないけれど、きっと真理なら私が体育館で瑠璃を待つと考えるだろうし、瑠璃はそんな真理の考えを読むだろう。だから私は一人になってもおたおたしない。人に見付かるのではとびくびくしていても。

「おぉい、千鳥ぃ、なにしとるんじゃ」

 私はまたしても後ろから声を掛けられ、またしてもびくりと飛び上がる。振り返ると、英語教師の黄島が疲れた顔をして私を見ていた。

「千鳥はあれか、帰宅部だったっけか。勝手に校内に入るのはいかんのだぞ、こらぁ」

 黄島は触れる程度のチョップを私にして、参ったなあと呟いた。

「ごめんなさい先生、ちょっと友人と待ち合わせしていて。すぐ出ますから」と言って謝るけれど、内心では安心していた。黄島は何だかんだと言って甘い。彼はサッカー部の副顧問で、どこかで私を見掛けたのだろう。そしてこっそり追いかけて、こっそり叱って、それで済まそうと考えてくれたのだろう。ラッキー。

「はいはい、もういいから、さっさと帰れよ、他の先生方に見付かったら問題だからなぁ」

「はい、先生」私は笑顔で頭を下げる。何と優しい。まだすぐには帰らないかも知れないけれど、ごめんなさい。

 私が黄島から離れようとすると、「そういえばよ」と言って引き留める。「前言ってた、何だっけ、ハッピーな悩みだっけか、あれは解決しそうか?」

「はい、粗方、概ね、おおよそ、だいたい解決っぽい形になりました」

「ん、まあ、それならいいがな。しかし油断するなよ、ある解決がまた別の問題を生むことは、往々にして起こりうることだからな。今の千鳥みたいに、適当に解決してしまうと、余計にな」

「何ですか、心配してくれてたんですか?やっさしい」

「馬鹿言え、これ以上先生の授業を聞かないでうだうだされるのは困るんだよ、互いにな。こっちも仕事なんだよ」

 黄島は笑ってそう返した。確かに。真面目というほど熱心な生徒ではなかったけれど、今週はちょっと授業中にぼんやりしすぎていた。今度こそ生徒指導室で対面するのは、強面の生徒指導担当だったりすることになるかも知れない。私は「了解です」と言って敬礼の真似事をしてから、踵を返して走り出す。何であれ、心配されるというのは悪い気はしない、申し訳なくも思うけれど。

「三橋の奴にも、早く出てけと伝えろよぉ」という言葉が聞こえて、合点がいった。真理もまた、黄島に見付かり、そして声を掛けられる前にそそくさと逃げたのだ。だから探しても見付からなかったのか。


 体育館の入り口前にはもう真理がいて、私を見付けると手招きをした。

「遅いよ、楓。さっき黄島先生見掛けたから、もしかしたら捕まってんじゃないかって思った」

 私が返事をしようとすると、突然真理は私に抱きついてきた。

「ねえ、さっきの男の子、楓に変なことしなかった?私はそれが不安で不安で仕方なかったわ。だって楓に何かしていいのは、彼女である私だけですものね」

 耳元で呟きながら真理は私の体をまさぐった。背中から腰、尻から太股にかけて丁寧に。暴力ではなくて、そういう心配をしていたのか、真理は。私はくすぐったいのを我慢しながら、「平気、平気。ちよっと話をしただけだから」と言うけれど真理は一向に手を止めない。こんなところこそ、誰かに見られたら駄目だろうと思うのだけれど。

 私の七度目の「平気だから」の後に、漸く真理は私から離れる。流石に身体中を触られると、真理相手であっても、少しどきどきした。

「そう、それなら良かったわ。それで、あの男の人に、何言われたの?」真理は冷たい笑顔を貼り付けたまま、そう訊いた。

「いや、大分前にやられた冗談を、今更謝られてさ。それだけ」それは事実とは少し異なるけれど、でも全然違うという訳でもないので、嘘ではない。そういうことに、しておこう。

 その後黄島に見付かってお咎めもなく解放された経緯などを話していると、校舎側から瑠璃が手を振って歩いてきた。

「やっぱりこっちにいたか。悪いね、待たせちゃって」

 私達三人はそこそと学校を抜け出して、駅に向かう。途中、喫茶店に入り、テーブルを囲んで学校でのあれやこれやを話して過ごした。瑠璃が次期部長に内定したこと、どきどきしながら探検したこと、黄島に見付かったこと、サッカー部の練習風景のことなど。野球部員との邂逅については、話題に上らなかった。真理も気を使って言わなかったし、私も言う必要のないことだと判断したからだった。私の初めて貰ったラブレターの顛末は、誰にも語られないままでいい。私の初恋と同様に、誰にも知られないままでいいのだ。青原もその方がいいだろう。これは所謂、墓まで持っていくというやつだ。ぱたり。


 夕日が随分深くまで潜ってしまってから、私達は駅でお別れをする。真理は改札口に、瑠璃は駐輪場に、私はバス停に向かって、手を振りながら距離はどんどん離れていき、互いの姿は見えなくなる。来週になればまた会えるとわかっていても、寂しい。三人で遊ぶと、必ず最後には泣きたくなりながら手を振ることになる。私は友人中毒。

 昼間とは違って、歩き疲れ、喋り疲れ、笑い疲れ、遊び疲れた私の足取りは少し重い。

 バス停には主婦や老夫婦が並んでおり、誰も一様に夕日を眺めながら疲れたような満足したような顔をして、バスの到着を待っている。私もそれに倣った訳ではないが同じ表情をしているのだろう。こんな日の夕暮れには、そんな充足感を伴った疲労が合っている気がする。

 バスに乗り、やや混雑している車内の真ん中に立って揺られながら、窓越しの夕日をひたすらに見た。眩しくて目を細めながら、それでも見た。バスは角を曲がり、ビルディングに阻まれた夕日は私の視界から姿を消した。

 バスを降りててくてくと歩き、家に着いたらまず帽子を外す。私のお気に入りのそれは、また大切に仕舞われて今日のような素敵な休日までひっそりと眠るのだ。それを私は羨ましく思うし、同時に勿体無いとも思う。こんなに好きな帽子なのだから、もっと活用してみるべきでは、という考えはもう何度頭を過ったかわからないが、でも私はそれを実行しない。少し勿体無いくらいが丁度いい、贅沢とは勿体無いということなのだから。

 眠る前に思い立って勉強机の引き出しを開ける。ラブレター。まあこれはラブでも何でもない、単なる嘘の綴られた紙切れだった。私はそれをくしゃくしゃに丸めてごみ箱に捨ててしまう。そうするのが最良だろう、誰にとっても。

 それから布団にくるまって、私は閃く。そうだ、今度真理に提案してみよう。ラブレターの交換を。うん、それはいい。私が初めて貰うラブレターは、そして私が初めてあげるラブレターは、相手が真理だと素敵じゃないか。そんな空想をして私はにやつきながらそのうちに眠ってしまう。笑って終われるのだから、今日はやはりいい日だった。


 夢を見た。

 音もない、風もない、星や月も雲に隠されている夜だった。大きな丸い月が反射する光は、私まで届かない。私は地面に転がって、雨でも降っていたのか、ぬかるんだ土に身を預けていた。私は自分がまだ小学校に上がる前の、小さい自分であることがわかった。今よりずっと未熟で、未来よりずっと無力な自分は、温かくて冷たい土を指でこねている。大地の一部だったそれは、段々と切り離され小さくなっていく。その作業を、寝たままの姿勢で、片手で続けていた。そのうちにこねられた土は私と同じ形になった。倒れたままの私より少し髪を伸ばした、この私よりも少しだけ背の高い土の私は、立ち上がって歩き出す。私はそれを見ながら、ああ、そういうことかと納得する。何かを理解した感覚、それだけがあった。それから目を閉じて、溶けてしまいたいと願う。

 土の私はもう私から随分離れたことろまで歩いていっただろう、そのうちにこのぬかるんだ地面に倒れ込んで、また片手を動かして私を作るのだろう。立ち上がらせる為に。私は土になり、大地に埋もれながらそういう未来を見ていた。目も瞑ったまま。

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