金曜日
母親の怒鳴り声で目が覚めて私は慌てるでもなく寝返りを打つ。なんだよ、まだ目覚ましも鳴っていないのにそんな大声を出して、と思うのだけれどよくよく目覚まし時計を見るともうすっかり起きる時間だった。ああ、寝惚けて手が勝手にスイッチを切ってしまったのだなと思って布団から這い出て顔を洗ったときに気付く。そうか、昨日は目覚ましをセットしないまま眠ってしまったのだ。危ない。
私は母親に起こされるよりも目覚ましで起きる方がまだ気分がいい。どちらにせよ朝から晴れやか元気一杯、とはいかないのだけれど、目覚ましで起きるということはそれなりに自発的に起きるということで、それはつまり少なからず意欲的な起床と言える。無理矢理よりは多少目覚めがいい。どう起きても朝は頭が働かず、やる気も何も起きないのだが、気分の問題だ。
昨日の決意を思い出す。昨日諦めることになった恋心を思い出す。これは初恋になるのだろうか。私は将来、初恋の人は?と聞かれて、赤川の名前を挙げるのだろうか。それとも昨日好きになると決めた真理こそが初恋の人になるのだろうか。私の初恋は、こんな曖昧で適当で良いのだろうか?まあ、いいや。
私はいつもよりも二分程早くバス停に着き、列の中腹に並ぶ。こうして少し早く来て気付くのは、皆ぎりぎりに並んでいたのだなということ。私はそれこそバスが着くが早いか私が列の最後尾に着けるかが早いか、という毎朝を過ごしていたからわからなかったが、バスの到着時刻の一分前になって漸くバス停に並ぶ人も多い。私があんまりにもぎりぎりなタイムスケジュールだっただけで、他の人もそれなりにタイトなのだ。
私は前から三列目の椅子に座る。いつもいた同じ学校の男の子は、今日は居ないようだった。遅刻か、休みか、はたまた用事があって早いバスに乗ったのか。私の様に個人的な何事かが起きているのかも知れない。それが彼にとって幸福な出来事だといい。私は馬鹿だから上手に立ち回れなかったけれど、彼は上手いことやっているといい。気紛れに名前も知らぬ男子学生の境遇を想像しながら座っている私は機嫌がいい。朝から突っ立っていなくていいのは楽だ。今ここにいない、いつもここに座っていた彼には悪いけれど。
昨日までの雨は今朝にはすっかり上がっていて、雲は散り散りに、その合間からは真っ青な空が覗いていて、光が町に注いでいた。道に出来た水溜まりはそんな空を反射していた。何かが新しくなったような、洗浄されたような。それは単純に私のぼんやりとしたイメージで、実際は何も新しくはなっていないし洗浄されていないのだし、そうするためには私は色々しなければならない。そんなことを考えながら私はバスに揺られてほんの数分の間だけ寝てしまうから危うく乗り過ごすところだった。座っていられるのは楽で良いのだけれど、こういうことが起こりうるから危ない、彼にはやはりここに座っていてもらわなければ、私が立っている為に、と思う。
バスを降りて学校に向かうとき、赤川を見付けた。何人かの男の子と並んでゆっくり歩きながら談笑している。その中には昨日も見掛けた、他のクラスの野球部員も一緒だった。と言うことはあれは野球部の集団か。私は咄嗟に歩くのを止めて、それから出来るだけ不自然にならないように歩き出す。少し歩幅を縮めて、決してその集団に追い付かないように。先週までの私なら、さっさと追い抜いてしまっていただろう。赤川が一人で、私の気分がいい日だったら軽く挨拶くらいはしたかも知れない、気紛れに。でも今はそんなことは出来ない。どことなく気まずいし、今日は母親に起こされたりバスでうとうとしたりで調子が上がらないのだ。もう少し早く歩いてくれよ、自分のペースで歩けないのはストレスなんだよと、赤川達に心の中で悪態をついた。
だから赤川に少し遅れて教室に辿り着いたとき、私はへとへとになっていた。いつもより遅く歩いて、いつもより体力を使うとは、効率が非常に悪い。
「おはよう、今日はやけに疲れているように見えるけど、寝坊でもしたのか?」
「おはよう、瑠璃。別にね、そんなことはないの」
「じゃあ昨日先生に怒られて、泣いちゃったのかしら?」
「泣いてないし」
私が机に顎を乗せ、両腕を前に突き出した格好で寝そべっていると、既に登校していた真理と瑠璃が話し掛けてきた。
「楓の場合、朝は如何なる要因でも疲れそうだからな。猫を見たとか、雨が上がったとかでも疲れそうだ」
「瑠璃ちゃん言い過ぎだよう、せめて朝食のトーストを焼きすぎたとか、犬に吠えられたとか、それくらいのことが有ったはずだよう」
二人は好き勝手に言っていて私は反論するでもなくそれを聞き流す。うん、いつも通り、これまで通りの朝だなと感じながら。でもそれは勿論真理や瑠璃の優しさがそうさせているのであって、それにいつまでも甘えるわけにもいかない。私はそれなりに事態を先に進めなければならない。
でもそれは今ではない。今は朝で、私は机に顎を乗せまま二人と世間話をするのが精一杯なのだ。
授業は、何事もなく進行していく。私は昨日のこともあって真面目にノートを取るし教科書の文章に色ペンでラインを引く、黄島の授業でなくとも。時々自然に赤川の方に目がいってしまって、もっと時々は赤川と目が合ってしまう。私は慌てて視線を黒板に移し、頭から赤川の映像をかき消す。
好きなんだなあと、改めて自覚する。胸の鼓動は高まるし、目が合うと顔の筋肉が緩んでしまうし、世界が鮮やかに思えてしまう。でも、それは切り捨てるべき感情、捨て去るべき幸福、その先に待つのは、きっと私の不幸だ。
私は真理に目線をやる。一番端、窓際の席に座っている真理はペンを持った手で頬杖をついて、黒板に書かれたごちゃっとした計算式を見るでもなく見ているようだった。窓から射し込む光に照らされて、まるで猫がぼんやりしているように見えた。
彼女は可愛らしい。彼女の横に、ばりばりの高身長で、少し我の強そうな男の子を並べたら、とてもお似合いだろうな。二人はきっと普段は似ても似つかない性格なのだけれど、不思議と気が合うのか、芯の方で似ているのか、気を許し合える関係なのだ。案外二人きりになると真理がリードをするのだ、外では三歩後ろを歩いているのだが。そんな真理と架空の男の子のことを考えてにへらにへらとしてしまうけれど、それは単なる私の妄想だ。私の願望がねじ込まれた空想でしかないのだ。真理はそんな未来を望んでいない、私を横に並べたいと願ったのだ。
正直に言って、私じゃあちょっとどころじゃなく見劣りしてしまう。真理と並べるほどの容姿は持ち合わせていない。でも真理はそんな、他人から見られてどうかだとか、並んで収まりがいいかだとかは、考えていないのだろう。私みたいな幼稚な空想は、とっくの昔に卒業してしまったのだろう。そしてそんな幼稚なところも含めて、私を好いてくれているのだろうか。我が友人ながら、変な趣味である。
でも私はその変な趣味の友人と、どうやら恋人になるようだ。自分で決めておいて、ようだ、というのも無責任なことだけれど、実感が湧かないと言うか、現実味に欠けると言うか、そんな風に他人事に思えてしまうのだから仕方ない。存外、世の恋人というものは得てしてこうやって曖昧なまま交際が始まったりするものなのかも知れないな、うん。
そうやっていらぬことばかり考えていてすっかり授業に集中していなかった私は、教師に当てられてわたわたとし、「わかりません」と小声で答えたのだった。
休み時間に、私は真理をトイレに誘う。でもトイレに用はなくて、真理と二人になれる環境に用があった。一番近いトイレとは全然違う方向に歩く私の後ろを、何も聞かずに付いてきてくれているのだから、真理は察してくれているのだろう。
人気の無い場所まで来て、立ち止まる。真理も私の少し後ろで同じように足を止め、私が振り返ったときには柔らかい笑みを浮かべていた。
「それで?今度こそいい返事が聞けるのかしら」
「うん、まあ、色々あって、真理と付き合いたいと思うことにしたの。でもごめんね、まだ、その、そういう意味での好きじゃあないから、上手くいかないかも」
真理は表情を一層柔らかくして、私の右手を両手で握り締めた。華奢な真理の体のどこにこんな力が、と思うほどの締め付けだった。
「嬉しいわ、楓。初めてなんて、そんなものよ。段々と上手くいくわ、焦らないで、私に身を任せればいいの」
「うん、そうする。真理だったら、信用できるもの。でもさ、聞いていい?」
「何かしら?」真理は首を少し傾ける。
「瑠璃とかには、こういうの黙っていた方がいいのかな?ほら、瑠璃も大切な友人だし、騙しているみたいで居心地悪くなったりしたら、困るじゃん?」沢山騙して、沢山嘘をついているのに、私はそんな心配をする。それは私が今の立ち位置を、真理と瑠璃に囲まれている環境を失いたくないという、我が儘な心配だった。
真理はふふ、と笑って顔を近付ける。綺麗な瞳に反射するのは、そんな我が儘な私だった。
「そうね、瑠璃ちゃんには、ちゃんと言わなきゃね。でもそのタイミングも私が決めるわ。楓、少しの間だけ、黙っていてね。だって急に言っても、却って困惑させるばかりだもの」
「うん、わかった。じゃあ、ちょっとふらふらしてる私だけれど、これから改めてよろしくね、真理」
「こちらこそ、よろしくね。絶対に楓を悲しませたりなんかしないから、覚悟しておいてね」
真理は私の手を離したかと思うと、がばりと私に飛び付いて抱きすくめる。力強く、そして同時に優しく。真理の体温が全身に感じられて、私も真理の背中で手を交差させる。可愛い真理、ちっちゃくて、お嬢様みたいな真理、胸のうちに真っ赤な炎の灯っているような真理。私はこの人をちゃんと好きになろう。ちょっとずつでもいいから、恋人として見ていこうと思う。私の世界がなるべく壊れないように。
ぱっとしない告白を終えて、私と真理は手を繋いで教室に戻る。真理は心底嬉しそうに鼻唄を歌い、握った手をぶんぶん振っているから誕生日を迎えた子供みたいで可愛らしい。いつの日かこんな真理にどきどき出来たらいいと、心から思う。
「でも、同性のカップルって結婚とか出来ないよね、どうしよう」
「楓ったら、気が早すぎるわ。でも大丈夫、そのくらいの障害なら、私が全部壊してあげるから」
「親にも言えないよねえ、恋人は女の子です、だなんて」
「それは……確かにそうね。でも私は頑張るわ。楓のご両親に認めてもらうためなら、何だってする、どんなことでもね」
流石愛の力は強い、これから待ち受けているだろう数々の壁を、真理はまるごとぶち破りそうな勢いだ。私はこんなぼやぼやっとした気持ちでいないで、そういう風にやる気を出すべきなんだろうな。
でもそれは順序が違う。誤ってはいけない、私が最優先すべきなのは、真理を本心から好きになることなのだ。やる気だってきっと、真理が私を想ってくれるくらいに真理を想えたら、否が応にも湧き出てくるだろう。
教室に戻ってからも真理は顔が緩んだままで、本当に幸福そうだった。瑠璃が「ねえ、楓、真理のやつ、一体どうしたんだ?さっきとは別人みたいに、にやついているけれど」と訊いてきたが、私は「ううん、よくわかんない」とはぐらかすばかりだった。
私は真理に返事をした。だからもう一方にも、返事をしなければ。またぐだぐだと悩んだりほだされたりしないで、さっさと終わらせなければ、私の恋心も、赤川の私への感情も。そうしなければ私の中のこの気持ちはもう自分でも制御できなくなってしまうかも知れないし、赤川は今度こそ私に無理矢理にでもキスをしてしまうかも知れない。そうなったら、瑠璃は悲しむだろう。真理は何をしでかすかわからない。誰も幸せにはならず、二度と素直な気持ちで笑い合えない。それを今日、防がなければ。
私は機会をうかがう。どうにかして赤川と二人で話をしなければ。でも赤川は大抵クラスの他の男の子とお喋りをしていて隙がない。むうむうと悩んだ挙げ句、私は赤川がトイレに向かうのを見て立ち上がり後をつける。トイレから出てきたところを捕まえて、ちょっと話がしたいから、と言ってこれまた人気の無いところまで連行する。赤川がほんのり頬を赤く染めていて、私は胸がずきりと痛んだ。あまり気乗りはしない。私と赤川は少しずつ傷付くのだ、きっと。それもまた、私の我が儘。
「で、話ってなんだよ」赤川は白を切っている。短く切られた髪を撫でるようにして頭を掻き、気恥ずかしそうにそっぽを向いていた。わかってるくせに。
「うん、あのね、その。この間のこと、返事、したくて」
「あ、ああ。うん。そうか」
「そう、なの」
「そりゃあ、そうだよな、うん」
「まあ、ね」
私達は互いにしどろもどろで、たどたどしく会話をする。後一歩が踏み出せずに、核心の外側をちょろちょろ回るように、本題に入れずにいる。
「ええっと、ね。よし、ちゃんと、返事、します」
「お、おう」
私は深々と頭を下げる。赤川のどんな表情も見たくないという意思を示すように。
「ごめんなさい、やっぱり赤川とはそういう関係にはなれないの。だから、別の人を好きになって下さい」
頭を下げたまま、沈黙が降りた空間で目をぎゅっと瞑る。心の中で何度もごめんなさいを繰り返して、赤川が何か発するのを待った。
「やっぱり、どうしても、駄目か?」
「そうなの。どうしても、駄目だったの」
「それは、その、原因は何だ?俺が、その、しようと、したからか?」
私はがばりと頭を上げて、赤川を見つめる。苦しそうな赤川の顔を見て、胸がまたずきりと痛む。この痛みは罰だろうか。
「そんなことは、全然、関係ないの!赤川は何も悪くないの。私が、ただ我が儘だっただけ」
「なあ、もう一回、考え直してくれないか?」
赤川はしつこくそう言った。もう何度も考えて、漸く出た結論なのだ、私は頭を横に振る。可能性は潰えているのだ、とっくに。
「私ね、今日、真理に返事をしたわ。こんな私ですが、よろしくお願いしますって。ね、もう無理なのよ、私は真理のもので、だから赤川の横にはいられない」
赤川はまだ何か言いたそうに口を開くが、やがてその口を閉じて俯く。体が縦に引き裂かれそうだ。心が叫び声を上げそうだ。私も同じように下を向いて、胸の痛みをぐっと堪える。下唇を噛んで、両手を胸に当てて、ひたすらに。
やがて、赤川は「そっか」と言って踵を返す。私は小声で、「ごめんなさい」と繰り返す。
「いや、いいんだ。何て言うか、そうなる気もしたし。三橋と、仲良くな」
「うん、有り難う。私も、赤川が甲子園に行けるように、応援する」
赤川はちょっと笑って振り返り、再び私と向き合った。心なしかすっきりとした笑顔に見えたのは、光の加減だろうか、私の願望がそう見せた幻だったのだろうか。
「あったり前じゃん、俺が活躍して、惚れ直したってもう遅いからな」
もう遅い、本当に遅い。
でもね、赤川。私はまだ赤川に、惚れているんだよ、とは、言わなかった。それは私の中に埋もれさせておくべき言葉なのだ。心の中に閉じ込めておくべき感情なのだ。
赤川が教室に戻っていくのを見送ってから、私はその場に暫くの間立ち竦んでいた。木箱がぱたりと閉じたような音がした。それはきっと、私の初恋かも知れないこの感情を閉じ込める音だった。
私は私にも聞こえない声で、「さようなら」と言った。
兎にも角にもこれで終わり。真理は授業中に目が合うとにへらと笑って小さく手を振り、その表情も仕草も可愛らしく、私は赤川の方を意識して向かないようにして、その度に胸がちくちくとした。でもそれだけだった。私の世界は少しだけ色を変えたけれど、もっと大きな世界は私に構わずにいる。当たり前だ。
瑠璃に、どう言おう。真理とのことは真理に任せるとして、赤川とのことは早目に言っておきたい、瑠璃の為でも、瑠璃のせいでもなく、赤川とは付き合わなかったということを、伝えたい。
でもそれは今日は叶わなかった。瑠璃はホームルームを終えると私と真理に「じゃあ、また」と挨拶をしてさっさと演劇部に向かってしまうし、真理は私の腕を取ってずんずん昇降口に連れていってしまう。真理の顔は紅潮していて、なんだか楽しそうだった。赤川は、いつの間にか教室からいなくなっていた。赤川の方を見ないようにしていた私には、彼がいつ、どんな表情で、どんな心境で出ていったのか、わからなかった。
「さあ、恋人になったんだから、毎日一緒に帰るわよ」
「うん、でも元々一緒に帰ってたよね」
「それもそうね、でも何だかんだ今週は一人で帰ることが多かったわ、誰かさんのせいで」
「だってえ、色々あったんだもの」
「じゃあその分を取り返さなくちゃ、ね」
真理は肩を寄せ、手を取り、指を絡めて私の横にぴたりとつける。こんなに人に密着されながら歩くのは初めてのことで、真理の足を踏んづけてしまったらどうしようとはらはらした。
「楓、明日空いているかしら?」
「え?うん、暇だけど」
「じゃあ、遊びに行きましょう、折角なのだから」
「おお、そうしよう。でももっと早く言ってくれたら良かったのに。瑠璃を誘うタイミング逃しちゃってない?それとももう言ったの?」
真理は「えいっ」と言いながら肩をぶつけてきた。軽く当たっただけなのに、私は少しよろめいてしまう。
「もう、楓ったら、全く楓なんだから」
「全然意味わかんない」
「いいよ、もう。ゆっくり、ゆっくりね」
「何の話?」
「何でもないわ、瑠璃ちゃんには、後で連絡しておく」
バス停に着いて、ベンチに座る。真理は私がバスに乗るのを見送ってくれるつもりらしい、ぴったり私の横に座って、体重を預けてきた。
バス停に人は少なく、私と真理を除けば三人しかいない。誰もが同じ高校の生徒だった。時間的に余裕の無い朝のバス停と違い、帰りのバス停はのんびりした空気が漂っていて私はそれが気に入っている。解放感と気怠さの、ない交ぜになったような居心地のよさ。焦りも寂しさも朝特有の疲れも感じないでいられる今は、やはり幸福と呼んで差し支えないだろう。真理もいるし。
「じゃあ、明日のお昼、駅でね」
バスが来て私が乗り込むときに、真理は手を振りながらそう言った。真理は私のことをちゃんと気遣ってくれるので、朝から遊ぼうとは決して提案しない。
「了解、私が遅れたら喫茶店にでも入っていてね」
私も私のことを十分理解していたので、遅刻の可能性を考慮してそう返した。
バスが動き出し、空いている車内の一番後ろの座席に座って振り向くと真理はまだ手を振っていた。私も振り返したけれど真理が見たかどうかはわからない。彼女はバスが曲がってしまうその時までずっと手を振っていた。
真理と付き合うことになって、赤川を振ってしまって、今日が終わる。世界も、この町も、学校も、私の教室も、全然変化していないみたいだったけれど、私の心は朝とは別物みたいに思えた。真理と上手くやっていけるかという不安、赤川と恋人になるという選択肢が無くなった悲しみ、そういうものが渦巻いて噴き出して、ちっとも落ち着かない。けれどこれもすぐに、慣れてしまうのだろう、きっと。
家に着いて漫画を読んでいるときに、私は漸く気付く。真理は帰り道で、私をデートに誘ったのだ。ああ、だとしたら私の返しは結構酷い。真理を傷付けてしまっただろうか。それでも責めもせず怒りもせず、肩をぶつけるだけで許してくれた真理は、流石だと思う。私は、なってないなあ。
ともあれ真理と瑠璃と三人で遊ぶのは楽しみだし、学校も休みだし、私は概ねわくわくとして布団に潜る。ついでに今日で真理と赤川の二人に返事が出来たことに、しかも私の恋心らしき感情に流されずにきちんと私の我が儘を貫けたことに、僅かに満足して。
夢を見た。
私はどこか豪華なお屋敷にいて、寝間着のままなので恥ずかしかった。赤いカーペットが敷かれていて手触りが気持ちよく、天井を見上げればシャンデリアが煌めいていた。しんと静まり返り、私の他に人間はいないようだった。よく見ると四方が格子に囲われていて、私は閉じ込められていた。触れてみると冷たく、また壊そうと試みても決して壊れないという予感がした。その格子は、金で出来ていた。いや、格子だけでなく、壁も、床も、天井も、遠くに見える大きな扉も、全部純金で出来ていた。広いこの部屋で、カーペットと、シャンデリアと、私だけが異物のようだった。
そうとわかると私は急に眩しさを覚えた。私は目を細めたまま部屋を見回す。何かが足りない、そう感じていた。ふと足元を見ると、小さな箱が転がっていた。材料は金でないように思えた。私はその中に入れられたものを足りないと思っていたのだとわかった。でも私はその箱を開けられない。鍵が掛けられていて、私はもうその鍵を持っていなかったのだ。開けることも壊すことも出来ない檻の中で箱を見つめていると、そのうちに箱は徐々に光輝いて、金に変わっていった。私はそれを眺めながら、なんだか嬉しいような、悲しいような気分になった。泣きたくても泣けなかった。




