木曜日
瞼が重い、頭が重い、喉がからからに渇いていて声が出ない。キッチンに行って水を一杯飲むと少しましになるのだが、そうすると心の重たさが際立つ。昨日のことを思い出すまでもなく思い出していて、昨日から続く雨がそれを現実なのだぞと言っていて、私は薄暗がりの中で溜め息を吐く。まだ目覚めるには早い時間に、家族の誰も起きていないこの家で、その溜め息は私にしか聞こえない。
真理のこと、瑠璃のこと、赤川のこと。簡単にはいかないけれどそれなりにどうにかなるよねと軽く考えていたのだけれど、私が馬鹿なせいでそうはならなかった。真理の好意に応えられないくらい馬鹿で、瑠璃の好きな人に言い寄られて好きになっちゃうくらい馬鹿で、そんな自分を悲劇のヒロインだと思い込もうとするくらい馬鹿だった。好きとか嫌いとか恋とか愛とかから逃げていたつけが一気に回ってきたように思えた。
赤川を、好きになってしまった。それはもしかしたらもっと前、告白されたときにはそうだったのかも知れないけれど、私の中の恋心を、昨日、知ってしまった。真理には決して抱かなかったどきどきを、赤川といるときに感じてしまった。肩を掴んだ両手を、すぐ目の前にあった顔を、私を好きだと言ってくれた声を、私は求めてしまっている。それがどれだけ醜いことかを知りながら。
いやしかし、と私は思う。これは真理の言っていた、例のおままごとみたいな恋じゃないだろうか。身近に好きだといってくれる男の子がいて、何となくここ数日で恋愛というものを意識していて、瑠璃が惚れるくらいの男の子で、暗い廊下に二人きりで、あれだけ顔が近くて、じゃあ好きになるんじゃない?とか、好きになるべきなんじゃない?とか、そんな強迫観念に囚われてこんなにもどきどきしているのじゃないだろうか。時間が経ってから思い返せば、ああ子供っぽい恋心だよねと恥じらうくらいのものじゃないだろうか。そうだといい。でも今はそうではない、そんなはずはないという思いも強くて私には判断できない。朝なのに、早朝なのに、冴えた頭はしかし、どんな答えも出せない。
いつもより三十分早いバスに乗る。空いていて、私は前から二列目、左側の椅子に座る。三十分後の、いつも私が乗っていたバスの乗客は、何か思うだろうか。名前も知らない私がいないことに、何かしら思うところがあるだろうか。思わないだろう。精々今日は人一人分空いているなとか、あの学生は風邪かなあとか、そんな程度だ。乗客同士の絆は無い。同時に、今一緒に乗っている人間も、私を異物のように感じたりはしていないだろう。何かの当番か用事かがあって、いつもと違う時間のバスに乗っているのだろうと考える程度だ、きっと。
私はそんな希薄な関係を、居心地がいいと思ってしまう。互いに干渉せず、関係せず、ただ同じバスに乗り合わせているだけのこと。好きも嫌いもない、友情も愛情もない、物理的に距離が近いだけのこと。私をどんな風にも見ないで、私にどんな感情も抱かないで、私も誰にも何も思わない、それが今は心地よい。そんなこと、これまで一度も思わなかった。雨が静かに降る窓の外を眺めながら、全然眠くもないままの私は、ぼんやりとそんなことを思った。
教室には、まだ誰もいない。明かりをつけて一人、席に着く。そうして一人で、瑠璃が来るのを、待つ。真理が来るのを、待つ。赤川が来るのを、待つ。彼等と、どんな風に挨拶が交わせるだろう。ちゃんと笑えるだろうか。笑って、返してくれるだろうか。わからないけれど、そうなるように努力したい。遅すぎたとしても、もう間に合わないとしても、今日がそうならなくても、明日や明後日やもっと先にそうなるように、私は努力していきたい。私は友情を壊したくはないし誰かを傷付けたくはないし私が居心地悪い状況になってほしくないし多少の変化を伴いながらもそこそこ平和に生きていきたいのだ。その為に私は頑張らなくてはならない。言い訳をし、釈明をし、時には嘘をついてでも。
「おはよう、今日はやけに早いね」
教室の扉が開き、瑠璃が入ってきた。その顔は笑っているでもなく、怒っているでもなく、ただ驚いていた。
「おはよう、瑠璃。今日は早く起きられたの」私は笑顔を作ろうとするのだけれどちっとも上手くいかない。それでも瑠璃の顔から目を背けるでもなく挨拶をした。
「へえ、珍しい。私もさ、今日は雨だから、遅刻しないように早めに出たんだ。そうしたら、却っていつもより早く着いてしまった。合羽を着ていたから、ちょっと暑いよ」
それは嘘だと、私にはわかった。瑠璃は努めていつものような表情でいたけれど、瞼が少し腫れている。瑠璃の表情を、一瞬の変化も逃すまいと注目していた私はそれに気付く。きっと、私と同じように泣いたのだろう。私とは違って純粋な涙を流したのだろう。演劇部の演技も、そういうところは隠せないのだな。
「私はね、瑠璃と話がしたかった」二人っきりの教室で、私は瑠璃の隣に立って言った。「ちょっと、別のところに行こう。誰にも聞かれたくないし」
「いいよ、別に、話なんて。わかってるし、平気だから」
瑠璃は、笑顔でそう答えた。でもそれは作り笑顔だ。とても上手に、とても自然に笑っているけれど、渾身の演技なのだ。本当は全然いいことなんてないしわかってないし平気じゃないのを、覆い隠す笑顔なのだ。
「いいから、来て」
「本当に、大丈夫だから」
「私が大丈夫じゃないの、来て、お願い」
私は半ば無理矢理に瑠璃の手を取って教室を出る。少しずつ生徒達は登校し始めていていくつかの教室に明かりが点っている。私は瑠璃の手を引きながら人気の無いところを目指して――化学準備室の前が頭を過って、しかしその場所に行くわけにもいかず、校舎と部室棟を繋ぐ渡り廊下まで来た。朝ならこの場所を利用する者は殆どいない。
「瑠璃、ごめん。黙っていて、ごめん」
私は頭を下げる。どんなに低く下げても足りないくらいだけれど、私は出来るだけ下げる。
「いや、いいんだ、楓が悪いんじゃないんだし、廉次郎くんと楓に何かあったのを、気付けなかったのも悪いのだから」頭を上げて、と言った瑠璃は、そうやって笑う。彼女の健気さが、優しさが、強さが、そうやって笑顔を保たせる。宝石のような笑顔を。
私は経緯を話す。赤川に告白されたことを、答えに迷っているときに瑠璃が赤川を好きでいると知ったことを、昨日は告白の返事を催促されたのだけれど断ったことを。
真理にも告白されたことは黙っていた。それは今関係のないことだ。
赤川に迫られてどきどきしたことは黙っていた。それは言ってはならないことだ。
「だから、私は瑠璃の気持ちを踏みにじったのだけれど、でもそれは瑠璃を傷付けたくないという思いと、瑠璃との友情を壊したくないという思いだったからで、でも瑠璃がこうして悲しんだり恨んだりしているのは私が馬鹿で下手で愚かだからなの。それを瑠璃に謝りたいの。ごめんなさい」
私はまた頭を下げる。瑠璃は黙ったまま私の話を聞いてくれた。じっと動かずに、笑顔のまま、瞼を腫らしたまま、きっと、気持ちを押し殺したまま。
「楓」
瑠璃の声はよく通って上質な管楽器を思わせる。
「これまでのことは、わかった」
瑠璃の声は透き通って清らかな雪解け水のように澱みなく流れる。
「それで、一つ聞きたいのだけれど」
瑠璃の声は鋭く私は決して逃れられない。
「廉次郎くんのこと、好きになってしまったんだね?」
私は嘘をつく。友人の瑠璃に、輝いている瑠璃に、宝石のような瑠璃に、嘘をつく。
「そんなことはないの。赤川を好きになんて、なってないの。好きになることなんて、絶対にないの」
瑠璃は私の目を見つめる。私は身動きが取れない。雨の音は一層激しくなり、それが二人の間の静寂を強調する。息も出来ずに佇む私を、品定めするようにまじまじと見つめる瑠璃の瞳は、私の胸の中に潜む何かを掴もうとしていた。
「そう、なんだね。ううん、仕方ない。廉次郎くんだから、ね。誰が悪いわけでもないさ。楓も、廉次郎くんも。きっと私だって悪いわけではないだろう。でも、仕方ない」
瑠璃はそのまま声も無く泣いた。頬を伝う涙を指で拭って、しかし溢れる涙は止まることなく流れ続けて、瑠璃は何度も何度も拭った。
私の嘘は、実に簡単に見破られた。真理曰く分かりやすい私の嘘が、演劇部の瑠璃に通用するはずもなかった。でも騙したかった。隠したかった。出来れば私の中にだけあって、永遠に仕舞っておきたかった。そしてそのうち風化してほしかった。でもやはり私の馬鹿で下手で愚かな嘘は何の意味もなさなかった。
「違うの、瑠璃。これは本当に違うの。ほら、生まれて初めてだから、特別に意識してしまってはいたけれど、そんなんじゃないの」私は醜く言い訳を重ねる。「瑠璃のことを差し引いても、私は赤川を好きにはなれなかったの。だから断ったのだし、それで私はどちらかといえば清々しているくらいなのだもの」私は嘘を重ねる。
そんな言葉が、どれ程慰めになるだろう。余計に傷付き傷付けるだけじゃないか、と思うのだけれど私はそれを止めない。
「それに、そう。赤川だって、それほど私を好きでもないんだわ。例えば罰ゲームだとか、冗談だとか、あるいは気の迷いとかかも。私くらいにだったら、何となく告白しても痛手はないと思ったのかも」
私は自分の醜さに驚いてしまう。どんなに言い繕っても、仮面を被っても、この醜さだけはじぐじぐと腐臭のように体から滲み出ていた。
「楓、やめて」瑠璃は涙を拭いながら、ゆっくりと話した。「そうやって誰も彼もを傷付けてしまうのは、もうやめて。廉次郎くんを悪く言って、楓自身を悪く見せて、私が楓や廉次郎くんを嫌ったりすると思う?嫌われて、楓が望む結果になると思う?」
我が儘な子供をあやすような、優しい問い掛けだった。瑠璃は昨晩泣き明かしながら、色んなことを考え、向かい合い、今私の前にいるのだ。私が悲劇ぶっているとき、瑠璃はちゃんと現実を生きていた。だから私みたいに駄々をこねずに自分以外の人間のことに気が回るのだ。私は幼稚なままで、瑠璃は大人だった。
「でもだからって瑠璃が私のせいで泣いてて、それでいいわけない!」
私はついに泣き出した。我が儘で、独り善がりな泣き声を上げて。鼻水をずびと鳴って、喉をひっくりひっくり鳴らして、不格好に、無体裁に。悲しいから泣くんじゃなくて、悲しいと表現したい為の涙を流して、瑠璃を困らせたいと思って涙を流して、私はまったく情けない。でもこれは私が流そうと思って流す涙だ。
「楓、泣かないで。私だって楓が泣いていたら喜べないよ」
「ごめ、ん、なさい。で、も、瑠璃、も、好きだか、ら、ううっ、本当は、瑠璃に、嫌われ、たくな、い、泣いて、ほし、く、ない。赤、川と、幸せ、に、なってほ、しく、て。だか、ら」
「有り難う、私も同じ気持ちだよ、楓には嫌われたくないし、楓に泣いてほしくないし、楓には幸せになってほしい。廉次郎くんと、好きあっていて、それで楓が幸せになるのなら、私は全然平気なんだ。昨日も、今も、泣いてしまっているけれど、でもそれだっていつかは泣き止んでしまうのだし、泣きながらだって楓を応援出来るよ」
私はわんわん泣いてしまって言葉が出ない。瑠璃は優しいし赤川ことは好きだしでどこにも行けない。でも泣きわめきながらわかったのは、自分と赤川が付き合うよりは瑠璃が笑ってくれている方がずっと嬉しいと言うことだった。その方がずっと良い。私は赤川と抱き合っている瑠璃を見て嫉妬したりしないだろう。赤川にこっちを向いてほしいとは思わないだろう。だって二人とも好きで、私は好きな人が日溜まりの中で穏やかに笑っていてくれたらそれが一番嬉しいのだ。そうでない世界は、やっぱりどこか不満なのだ。
私はどうにか泣き止んで、そういう思いを伝えたいのだけれど中々上手く言葉に出来ない。瑠璃はすっかりいつもの顔に戻っていて瞼はやはり腫れているのだけれど涙は止まっていた。
「さあ、顔を洗って教室に戻ろう。楓の気持ちはわかったし、お互いに廉次郎くんを諦められないかも知れなくて、だからどちらかが少し悲しい結末になるかも知れないけれど、でもきっとそれで友情が希薄になったりはしないさ。だって私は楓が大好きなのだから」
瑠璃はそう言って私の手を取り、部室棟の方へ引っ張った。こんな姿の私を慮って人のいない方のトイレに連れていってくれた。私も瑠璃も顔を洗い、程よくすっきりとした。二人で顔を見合わせて気恥ずかしくなり笑い、手を繋いで教室に戻った。瑠璃、大好き、と、誰にも聞こえない声で言った。幸せの響きだった。
教室にはもう殆どの生徒がいて、真理もいた。真理は私達を見るなり挨拶をして、それから少し驚いてみせた。
「朝来たら、もう楓の靴があるでしょう?今日はやけに早いな、と思って教室に来ると、でも居なくて。変だなあ、瑠璃も来ないし、と思っていたら二人が目を赤くして手を繋いで入ってくるじゃない?もう何が何やらだよう」
「ちょっと楓と殴り合いの喧嘩をしてきたんだ。これで二人の友情はより強固なものになったのさ。ね、楓」
「そうなの。河原の土手で二人並んで倒れこんで、お互いの拳を称えあったの」
「えええ、ずるい。私も二人と喧嘩して、もっと仲良くならなきゃだよ」
「そう言えば瑠璃と真理が喧嘩してるとこ見たことないなあ」
「喧嘩なんてしなくても気持ちが通じあってるもの。私も瑠璃ちゃんも大人だからね、楓と違って」
「酷い!」
真理はきっと私達の顔を見て何か悟ったのだろう。色々あって、色々あったことを。それで今はきっともう良くなったのだと判断して、こんな風に、いつもどおりの会話をしてくれる。私だったら気になってどんどん訊いてしまう、不躾に、デリカシーを欠いて。確かに私は二人より人間がなってないなあ。ずっとそうじゃないかとは思っていたけれど、今日一日の、朝の数十分でこんなにも思い知らされるとは。
私達はそれでも笑いあっていた。私を恋人にしたいと言った真理と、赤川が好きだと言った瑠璃と、馬鹿で子供な私。でもその三人は友達なのだ。だから楽しくて仕方がないのだ。だからこんなにも自然に笑えるのだ。
昨日は真理と話し合って今日は瑠璃と話し合って、全然答えは出ていないし進展はちっともしていないけれど何となく得るものはあった。とは言っても答えを出して進展しなければいけないことに変わりはなく、だから私は考える。授業中だというのに教科書も開かずにうんうんと唸る。
私は真理と赤川から告白されていてその返事をしなければならない。瑠璃は赤川が好きで私はそれを応援したい。私は真理にどきどきはしなかったけれど赤川にどきどきした。
これが現状。
真理も瑠璃も私も、ついでに赤川も幸せになって仲良く笑いあいたい、今までみたいに。
これが私の願い。
一番素敵で楽なのは、私が真理に恋愛感情を持って、赤川が瑠璃のことを好きになることだと思う。好きの矢印は向き合って、二組のカップルの出来上がり、ちゃんちゃん。それには私と赤川の意識改革が必要だ。私は赤川ではなく真理を好きに、赤川は私ではなく瑠璃を好きにならなければいけない。私は兎も角赤川はそうやって私の望む通りに気持ちを向けてくれるだろうか。何せ私を好きになるくらいなのだ、はっきり言って女の趣味が悪い。正統派美形演劇部次期部長候補筆頭の、その輝かしさに気付くのは随分時間がかかるかも知れない。でもいつかは瑠璃の良さに気付いて、好きになるだろう。あの日公園で私だけが見た可愛い瑠璃を赤川が見たら、一発でノックアウトだろう。後は私が真理を恋人と見られたらオッケー。うん、いけそう。
一番駄目で面倒なときはどんなだろう。私が真理と瑠璃と友達ではなくなって赤川が瑠璃を傷付け真理が赤川を痛め付けることだろうか。うん、それが最悪かも知れない。誰も喜ばない。そんな事態を防ぐために、私は何に気を付けなければいけないだろう。私と赤川が万が一付き合ったりしたら、それは引き起こされるかも知れない。もしかしたら。瑠璃は私を応援すると言っていたけれど、あれが私を慰めるためについてくれた嘘だとしたら瑠璃は傷付くだろうし私が赤川を好きだと真理が知ったら彼女は赤川を徹底的に懲らしめるだろう。私はそんな真理から離れてしまうかも。瑠璃は私から離れてしまうかも。赤川は私達のごたごたに巻き込まれて深い傷を負ってしまうかも。それは勿論極論もいいところで真理と瑠璃はそんな人間じゃない。けれど、好きだけれど赤川の告白は断ろう。最悪の事態を避けるためにはどんな些細な可能性も潰さなければ。すまん、赤川と赤川を好きな私よ、ここは一つ涙を飲んでくれ。
朝早かったことと朝から沢山泣いてしまったことと朝から色々頭を使ったことで私はくたびれて眠ってしまう。英語の授業中に。机に突っ伏してすやすやと。意識して聞かなければ英文なんて子守唄みたいなもので、うとうとからぐっすりなんてすぐだった。
「おいおい、千鳥ぃ。お前は少しも悪びれもしないで居眠りか。先生は悲しいぞ千鳥」
教師の黄島が私の後頭部を教科書で叩いて起こした。うべう、と声が漏れてしまったし、ノートに涎が垂れて文字が滲んでいた。
「この間もお前はぼうっとしていたし、あれか?疲れているのか?それとも先生のことがよっぽど嫌いか?英語より大切なことがこの世にあるというのか?」
「はあ、まあ、別に」と私は寝ぼけたまま答えて、はたと気付いて口から垂れる涎を手で拭った。くすくすと押し殺したような笑い声が聞こえて恥ずかしく、私は体が熱くなるのを感じたけれど、真理も瑠璃も何だか笑っているので、まあいいやと思った。多少の恥がなんだ、友人が笑っているならいいじゃないかと。赤川は隣の男の子と小声で話しながら私の方をちらちらと見ていた。やめてほしい、視線が合うと好きにってしまうから。
「気ぃ抜けた返事をしないでくれよ千鳥ぃ。頼むから先生の授業を真面目に聞いてくれよ」
黄島は懇願するような声でそう言って皆の笑いを誘い、私は適当に返事をしてその場は収まった。黄島としては上々の出来だったろう。私を強く責めることなく、程々の恥という罰を与えられて、生徒達から程々の笑いも生まれた。空気を悪くすることなく私を叱ることが出来て、黄島は満足そうだった。
私はそれから、暫くは真面目にノートを取っていたのだけれどまたすぐに眠ってしまう。朝頑張ってはいけないなと思いながらぐうぐう寝息を立ててしまう。今度こそ黄島は冗談みたいな空気も作らずに私を叱って、そして放課後に生徒指導室まで来るように言い付ける。あんまりにも授業態度が悪いという理由で。全うな理由で。全く以て恥ずかしい理由で。ああ、恥ずかしい。この年になってそんなことで呼び出されて怒られるとは。
ホームルームが終わり、生徒達は各々の目的のためにわらわらと動き出す。部活、帰宅、遊び、だらだら、そういうありとあらゆる目的のために。瑠璃は演劇部の後輩に呼ばれてさっさと教室を出ていってしまうし、赤川も同じ学年で別のクラスの野球部員と二言三言話してから並んでグラウンドに向かう。私はそういうのを眺めながら、ああ、あの野球部員、赤川と話していたあの男の子は何と言う名前だったっけと考える。確か一度だけ話したことがある。私と赤川が馬鹿な話をしていたときに加わったのだ、と、至極どうでもよいことを考える。
「行かなくて、いいの?」と真理が話し掛けてくる。
「行くよう、行くってば」私は重い腰を上げる。怒られにいくというのは気が重い。その重さが腰にまで伝播していた。
「終わるの、待ってようか?終わってから、慰めてあげようか?」と真理は言うけれど目が笑っていた。そうやって冗談みたく私の恥を笑って済ませてくれようとするのがわかって、だけれども私は断る。「いいよ、待たせるのも悪いし、先に帰っちゃって」と言う。
胸の辺りで小さく手を振る真理を見送って、私は一階にある生徒指導室を目指す。まあ確かに恥なのだけれど、本当は全然大したことではない。恥ずかしいのは皆の前で生徒指導室行きを宣告されたときだけで、怒られるのも納得だし、だから気が重いのもポーズなのだ。
先に職員室に寄って、黄島の存在を確認する。向こうも私を見付けて、作業を中断して壁に掛けられた鍵を取って私に付いてくるように言う。
「すみません、お忙しいのに」私はぺこりと頭を下げる。本当に申し訳ないと思った。子守りより大切な仕事があるだろうに。
「あ?いい、いい。あれも仕事、これも仕事。これで給料もらってるんだから」
生徒指導室には、黄島と私が向かい合って座った。二人の他に、人はいない。生徒指導担当の教師も。こういうとき、つまり生徒を個別に叱るとき、生徒指導の先生が主導するのが慣例であったから、私は疑問に思った。
「ああ、いや、別にそんな大々的に怒るってことでもないからさ。尤も、お前が夜な夜な非行に走っているという事実とかが判明すれば、先生はすっ飛んで生徒指導の先生を呼ぶけどな」
私はほっとした。全然大したことではないのだけれど、大人二人に怒られるのと、黄島一人に怒られるのでは精神的苦痛は段違いだ。
「まあ、お前は普段それなりに真面目だったのに、今週はちょっと急に酷かったからな。宿題は忘れるし、授業中もあんなに不真面目だったことはないし。それが先生、気になってなぁ、怒るって言うより、話を聞いておこうと思ったんだ」
黄島冬研。今年で三十一歳。男性。英語教諭。独身、らしい。わかりやすい授業と物腰柔らかな性格と、ちょっと甘いところがあって生徒からの人望も厚い。
「はあ、すいません」私はまた謝る。
「まあ、謝るのはいいにしてもだ。千鳥、最近なんか悩んでいるのか?」
悩んでいる、と言えばその通りで、真理や瑠璃や赤川のことでずっと悩んでいる。でもそんなことを教師に相談することなど出来ない。だから私は「はあ」とか、「いえ特に」とか、曖昧な返答しかしない。
「ううん、まあ悩んでいたとしても言えんわなぁ。でもな、先生としては、その千鳥の悩み事が大事になるのは、ちょっと避けたいんだ。もしあれだったら、お前のとこの担任の先生に代わってもいいし、女の先生に代わってもいいんだかなぁ」
成る程。黄島は私が苛められていたりするような可能性を考えているのか。それでこうやって怒る振りをして個別に呼び出したのか。生徒指導の先生がいないのは、私が本当に苛められていたりしたら話しづらいだろうと思ったのと、確証も無く大事にするのを避けるためなのだろう。流石は黄島先生、生徒のこと、若者のことを理解している。そして優しく気遣いが出来る上に、厄介事から目を背けたりもしない。
「いえ、別に苛められているとかいうことはないです。どちらかと言えばハッピーな悩みです」
私は黄島を安心させる為に答える。ハッピーかどうかは定かではないのだけれど、敵意ではなく好意が向けられているのは、アンハッピーではないだろう、少なくとも。
黄島はふう、と溜め息をついてパイプ椅子の背もたれに体重を乗せる。ああ、やっぱり苛めのことを懸念していたのか。
「なあんだ。先生の早とちりかよぅ」
「まあ、言ってしまえば」
「こら、先生心配したんだからもっと感謝しろよぅ」
「あっと、ごめんなさい。有り難うございます」
黄島の吐いた溜め息で、生徒指導室の空気は一気に柔らかくなった気がした。
「心がこもってないなぁ。で、そのハッピーな悩みってなんだ?」
「苛めじゃないってわかったんだから、もういいんじゃないですか?」
「馬っ鹿野郎、お前、これも生徒指導の一環だって」そう言う黄島は明らかに楽しんでいた。重い話じゃないとわかって、雑談ついでに私の悩みを聞き出そうとしている。
「えっと、まあ、人間関係、でしょうか。詳しくは言いたくありませんけれど」
これは私なりのサービスだ。私の異変を察知して、考慮して、面倒なことを避けないで、丁寧に、迅速に、この場に連れてきた黄島への。だから全部は言わないけれど、優しい黄島先生には少しだけ言う。
「そうかぁ。まあそうだろうなぁ。千鳥は青春しとるな、うんうん。いやさ、立場上、不純異性交遊を推奨は出来ないけれどさ、学生の間はそういうものが重要で重大だよな」
黄島は思いもしないだろう、不純同性交遊の可能性があることを。私だって数日前は思いもしなかった。
「就職したら、そういうものは重要でも重大でも無くなりますか?」
「いや、そうではないけどさ、大人になるとそれ以外の比率がどんどん大きくなる。やるべきことに押し出されて、その優先度は少し落ちる。まだ自由で不安定だからこそ、そういうものが異常に大切に思えるんだなぁ」
そんなものだろうか。私は私と周りが幸福でいることより重要なものは無いように思える。でも仕事だとか色々な責任だとかを背負っていないからそんな風に考えるだけなのだろうか。
「仕事より大切なことって、無いんでしょうか」
「さあ、俺には、おっと、先生には無いなぁ。他の人は知らないけどさ。生徒が楽しく真面目に授業を受けて、無事に卒業するのが何より大切だ」
「模範的な回答ですね」
私は笑ってしまう。どこの熱血漢だよと思ってしまう。でもそれは私と変わらないのかもと思ってしまう。今の私は友情という関係でしか繋がっていなくて、だから友情をとても大切に思うのだけれど、黄島のように働いて、上司とか部下とか、先生と生徒とか、もっと別の関係が築かれたときには、それも大切だと思うのだろう、もしかしたら。
私は黄島とそのまま適当に雑談をして、漸く解放される。直接的に怒られなかったのは助かったけれど、「テストだってあるんだから、授業中に居眠りばかりしていたら酷い目にあうぞ」と脅されたり、「千鳥も来年は進路を決めなきゃならんのだから、進学ならもっと本気で勉強に取り組んで、就職なら先生方に色々話を聞いて、もっと未来のために動き出さなきゃならんぞ」と言われたり、最後の方はお説教みたいになった。私は素直にはい、はい、と頷いて項垂れて縮こまった。まあ、これも黄島なりの優しさなのだ、鬱陶しくても。
「気ぃ付けて帰れよ、寄り道すんなよ」
教師に見送られて昇降口を出ると、雨は止んでいた。一度開いた傘を閉じ見上げると、雲はまだ厚く覆っていて寒さを感じたけれど、明日にはまた空が見られるだろうと思った。
あんな形であれ、私は生徒指導室に呼ばれて一応のお説教を喰らったので、その日は久しぶりに真面目に宿題をした。我ながらしおらしい。でも真面目にペンを走らせながら、私は今の私にとって重要で重大な問題についても考える。それほどしおらしくはなかった。
兎に角、私が優先するのは真理や瑠璃との関係であり、かつ赤川が出来るだけ泣きを見ないことである。赤川が私に抱く恋心と、私が赤川に抱いているかも知れない恋心らしき感情がそれを邪魔していて、だからそれをどうにかしなければ。後は私が真理にどきどき出来るかに懸かっている。
変な話だ、と思う。両想いらしい男女の恋心を壊し、更に無理矢理に誰かを好きになるのが私の望みなのだ。誰かを好きになったりするのは、そんな風に歪なことなのだろうか。紆余曲折あってごたごたしても最終的には好きだという想いが何よりも強くて、その想いを貫いた人間は幸福になる、というのが私の持っていた恋愛観で、でも私はそうはならなかった。もっとこう、好きになった人のことが諦めきれない!となるものだと思ったのに。泣きはしたけれど。
つまりは赤川のことを、そこまで好きではなかったのかな。迫られて、どきどきして、それで勘違いをしたのかな。同じ状況で真理にああやって迫られたら、私は真理にどきどきしたのかな。そうだといい。いつの間にか宿題を放って枕を抱いている私は、自分の心が曖昧であることを願って眠る。
夢を見た。
林の中を歩いている。木の根が私の足を取り転びそうになりながら。土と落葉を踏みしめながら。そのうちに一本の木の前で歩みを止めて、その幹にそっと手を添える。地中から水分を吸い上げている脈動が掌から伝わって、それを私は愛しいと思う。私はその木に抱きついて、まだ若くて低い木の、その生命力を全身で感じる。
しかし私はその木から離れて、地面に落ちていた斧を拾い上げる。この木は愛しいけれど、切ってしまわねばと思う。間伐してしまわねば。私は斧を振りかぶる。重くてよろめいてしまうけれど、腰を落として、重心を低くして、どうにか体を安定させる。そして斧の降り下ろす。斧の先端は幹にするりと入って手応えもない。私は何度も斧を入れ、木からは透明な血がどくどくと流れるけれど厭わない。
何度目かで木は倒れてしまう。音もなく、衝撃もなく。私は泣きながら満足する。倒れた木はまだ血の流れるのが止まらないけれど、いずれそれも尽きるだろう。私は斧をその場に捨て、走って去ってしまう。沢山の木々に囲まれながら、その脈動が空気を震わせるのを肌に感じながら。




