水曜日
目覚まし時計の音が五月蝿く響き、私は布団を頭まで被ってううと唸る。世界が私を急かす音はスイッチを切るまで鳴り続け、私は逃げなくては、と思うのだけれど体はこの布団のぬくぬくから出ようとはしない。あれ、逃げるってのはおかしいな、いや、それは夢の話だ、と思ったのは、部屋の外から母に怒鳴られたときだった。私は飛び起きて、ぐらぐらする頭のまま部屋を出て支度をする。母親がいなければ遅刻の常習犯だろう、最終予防線なのだ、あの怒鳴り声は。
逃げている場合ではない、今日は勇気を持って真理と話さなければ。友人と話をするのに勇気が必要になるなんて思ってもみなかったけれど、こういう事態になったのだから致し方ない。夢では逃げなければと考えていた私だって、現実から逃げることは出来ない。眠っている間の私は、何から逃げたかったんだっけ。覚えていない。覚えていないということは、つまり忘れてもいいようなことだ。夢なんてそんなもの。忘れてしまうのが夢、忘れていいのが夢。でも、どことなく綺麗だなあと感じていたのは確かに覚えている。
真理との今後という大切なものがあるのに、そしてそれを今日話し合いたいと思っているのに、私はそうやって夢のことばかり考えてしまう。朝の私は、弱く、脆く、だから重要で大切なことよりも、夢みたいなどうでもよい、下らないものについ没頭してしまう。これも逃げていると言えばそうなのかも知れないけれど、でも朝の私はそれに抗うことは出来ない。
バスに揺られながら、夢を思い出そうとする。印象だけがどうにか残っていて、それは起きた瞬間に夢を思い返したからこそ掴めた残骸だ。起きて夢以外のことに意識を向けてしまうと、それは一瞬にして散り散りになり、もう頭のどこにも、欠片一つも残さずに消滅する。逃げなければいけないけれど、綺麗なものを見ていた。そういう断片ですらない印象を、私は逃さないように何度も頭で思い描く。そうだ、確か、色が綺麗だと感じたのだ。何色だったかは定かではないが、そういう感覚だったはず。人によって夢はモノクロだったりカラフルだったりするらしいという話を昔聞いて、それは日常でどれだけ色と接しているか、色を意識して暮らしているかで別れる、ということだったけれど、じゃあ普段色を意識しないで生きている人なんてどれ程いるだろう。私はモノクロな夢を見てみたい。白黒の世界を歩き回ってみたい。情報が一つ失われた空間を体験してみたい。けれど夢の中の私はモノクロな世界に何の疑問も抱かなさそうだ。勿体ない。
バスの窓から見える空は厚い雲に覆われていて今にも降りだしそうな気配だった。そう、こんな空の日に眠ったら、きっとモノクロの夢を見るだろうと、何となく思った。
バス停で降りた私を待っていたのは、真理だった。どきりとして、鞄を握る手に力が入る。息を飲み、視線は真理から外せないままで、体が硬直したように動かずに後からバスを降りる人の邪魔になった。
「おはよう、楓」真理はいたって普通に私を見て、私に声を掛けて、私に微笑む。私もどうにか「おはよう」と返すのだが、頭の回らない朝の、覚悟もしていない瞬間に真理と向き合っていたから口から出たそれは震えていた。
「ほら、邪魔になってる。こっち」
真理はそう言って私の手を取り、ぐいと引っ張った。途端に真理の顔が近く、私はただ、ああ、真理は美人だなあとだけ思う。そしてそんな美人な真理の顔がこんなに近くにあることが、何となく恥ずかしく思える。いや、真理と顔を近付けるなんてこれまで数え切れないくらいあって、だからこれは全然特別なことではないのだと、わかってはいるのだが。私は意識しすぎなのだ、多分。
バス停から学校までの道のりを、真理と並んで歩く。今日は雨が降りそうだ、週の真ん中に雨だと嫌だと、他愛のない話をした。真理はきっと、もっと別に話したいことがあるはずで、私にも話すべきことはあるはずで、しかしそれは私達の口から出ることはない。私が朝に弱いことを知っていて、私が真理の告白に動揺していることを知っていて、真理は遠慮してくれているのだ。私がうん、とか、そう、としか返せなくてもいいように、話題を選んでくれているのだ。優しいと思う。私は真理のそんな優しさに甘えて、朝の弱さと真理の優しさを言い訳にして、話すべきことを切り出さずに学校まで歩く。卑怯で、惨めだとは思うけれど、そう思うのは朝の私ではなく、もう少し後の、ちゃんと目が覚めたときの私だ。だから私はうん、とか、そう、としか言わないで真理の声を聞いていた。
真理はきっと、一本早い電車に乗ってきたのだろう、それはその分だけ早く起きなければいけないということで、その目的はきっと、私とこうして歩くためなんだろう。その結果が私の気のない返事では、ちょっと割に合わないしそれを私は申し訳ないとすら思う。
「今日はね、珍しく早く起きられたの。だからいつもより早く駅に着けたわ。いつもの満員電車よりは空いていて、ちょっと得しちゃった。それに、こうやって楓と一緒に登校できるしね。早起きは三文の得って、本当ね」
私の心を読んだかのように、真理はそう言ってにへにへと笑った。笑うと、人形のような整った顔からは想像も出来ないくらい人懐っこくなる。その顔が好きで、何でもないことでそうやって笑ってくれるのが好きで、だから私は真理のことが好きなのだ。しかしそれが恋愛感情であるか、と聞かれたら私はやっぱり答えに窮する。友達として、としか思えないのは、本当にそうなのか、私が恋愛というものに疎いからなのかは、判別がつかない。
朝の教室で、瑠璃と真理と三人で話をする。私は適当に相槌を打つばかりで、大抵は二人の会話を聞いているばかりなのだけれど。話題が昨日の私と瑠璃のことになったときは流石に焦ったけれど、公園で話した内容は何一つ語られないまま次の話題に移っていった。私は胸を撫で下ろす。私が瑠璃に相談したと真理が知って、それで真理がどんな風に思うかはわからない。けれど、恋愛事は秘密裏に進めなくてはならない、他人に話すなどもってのほか、というような規律が存在していそうで、だから私は瑠璃に相談したことを隠したいと願う。
お昼休みになり、瑠璃が教室の外から呼ばれる。あれは昨日も見た顔、演劇部の部員だ。瑠璃は毎週水曜日のお昼休みは部活のミーティングに参加するため、一緒にご飯が食べられない。私は、そうだ、今なら、と思って真理を誘い、中庭に出た。朝と同じく雲は空一面に広がっていて雨は降っていないが寒々しい。だから中庭には誰もいなかった。真理が私の提案に素直に頷いてくれたのは、多分私の心、私の覚悟を理解してくれたからだろう。彼女は他人を思いやることが出来る、私なんかと違って。
「それで?どんな返事をしてくれるのかしら」
真理はあのとき、神社で見せたのと同じ、真剣な眼差しでそう訊いた。吸い込まれるような瞳。見つめていたら、私の中の何かが支配されてしまうような。
「あのね、真理、ごめん。やっぱり私はよくわからないの。だから、真理と相談して決めたいの。真理にどんな返事をするべきか、真理とこれからどうしていきたいか」
真理はじいっと私の顔を見つめ、たっぷり三秒そのままでいた。それから普段の表情に戻って、けらけらと笑った。私は真理のその笑い声にこそ驚いた。そして恥ずかしくなった。ああ、私はどうやらまた馬鹿なことをしたらしい。
「もう、楓ったら、笑わせないでよ。ああ面白い。普通じゃないね、流石」
「うう、ごめんなさい……」
「いいの、私はそんな楓が好きなのだもの。寧ろ嬉しいわ、少なくとも楓なりに、真剣に考えてくれたってことだもの」
「そりゃあ!……だって、真理は親友だもの。真剣にも、なるよ」
真理は一言、「有り難う」と言って、優しく微笑んだ。
それから真理は私に、色々と話してくれた。どうして私を好きになってくれたのか、どんなところを好きになってくれたのか。
「今思うとね、一目惚れ、だったんじゃないかなあって。入学式に見掛けて、同じクラスだってわかって、順番に自己紹介していくときに楓がすっと立ち上がって、よく通る声で自分の名前を言って、ああ、この子に話し掛けなければ、この子と仲良くしなければって、そればっかり思ってた」
思い出す。入学初日、真理が話し掛けてくれたことを。私はその日のうちに真理とすっかり仲良くなって、真理と元々友人だった瑠璃とも仲良くなった。
「楓は私の方を向いて、物凄い笑顔だったの。もう、物凄かったんだから。向日葵が咲くみたいに、雨が上がって太陽が照らすみたいに、笑ってくれたの。だから私は、多分そういうところを好きになったのかも知れないわ、初めは」
「初め?」
「楓と仲良くなるうちに、この子はきっと自分を全部出しちゃう子なんだなあってわかったの。悲しいときは泣いて、嬉しいときは笑って、辛いときは辛そうに、楽しいときは楽しそうに、裏表がなくて、ストレートに自分を表現している。私や瑠璃ちゃんを、友達としてとても大切に想っていてくれているのがわかって、私達といて安心しきっているのがわかって、私は嬉しくなったわ」
「いや、私だって色んな事を我慢したり色んな人に嘘をついたり色んな事を隠したりしているよ。裏表ありまくりだよ」そう、現に今、私は真理にも瑠璃にも嘘をついている。隠している。
「それだって、わかるの。ああ、今何かを我慢しているな、今嘘をついたな、この顔は何か隠しているなって。でもね、楓は決して、誰かを悲しませようと思ってそうしないの。大抵、自分が他の人に迷惑をかけないように、今の環境を壊さないようにってそうするの。だから私は楓が隠し事をしていても、絶対に責めたり深く追及したり探ったりはしないわ」
真理は私の手を取って、その手に目を落として話す。と言うことは、多分私が今隠していることに、真理は気付いているのだろう。ラブレターのことも、私の下手な誤魔化しでは全然誤魔化せていなかったのだろう。お嬢様みたいな彼女は、見た目の割りに鋭く、見た目以上に優しい。
「有り難う。でもさ、私にはわからないよ、やっぱり。女の子同士ってこともそうだし、友人のままじゃ駄目だって思うのも、わからない」
「私だって、楓と同じように思ったわ。女の子同士だなんて。楓は多分勘違いしているだろうけど、私だって昔はね、男の子に恋をしたのよ。男性の先生だとか、クラスの男の子だとか。瑠璃ちゃんや他の女の子に対して、こんな風に思ったことも一度もなかった。楓が初めての女の子なの」
確かに私は勘違い、いや、思い込みをしていた。同性愛者は生まれつきだという変な偏見があった。そうか、同性愛って目覚めるものなのか。何というか、衝撃。
「楓が好きなんだってわかってから、気付いたの。私がこれまで憧れていた男の子を、私はお人形さんみたいに見ていたんだって。恋をしたい、恋をするなら相手は男の子だよね、近くにいる男の子で、一番格好いいのはあの人だよね、じゃあ好きになろう。そういう子供みたいな考えで、おままごとみたいに、恋の真似事をしてるのだって、気付いたの。好きになろうとしないで好きになってしまったのは、これが初めて。だから、楓が私の本当の、初恋の相手よ」
「それは喜んでいいのかなあ」
「そこは喜んでほしいなあ」
真理はけらけらと笑う。真理は多分色んな覚悟を決めて今私の隣に座っている。それでこんなにいつも通り笑えるのは、真理の強さだ。昨日も感じた、彼女の強さだ。
「それでね」真理はひとしきり笑った後、改めて私の顔を見て話し始めた。「私がわかったのはもう一つ、恋とは独占欲だということなの。誰にも見せない楓の表情を、誰も聞いたことのない楓の声を、私だけが知りたいと、そう思ったの。そんな楓の顔を、楓の声を、私だけに向けてほしい。瑠璃ちゃんにだって、見せないでほしい。そんな我が儘な気持ちが、恋なのね」
「そ、それは、その、えっちな話ですか?」
「勿論それも含むわ。楓の全身をくまなく私に見せてほしい。触れたいし、触れてほしいとも思う」
「そ、そうですか」
真理が事も無げに言うから、私ばかりが赤くなった。つい敬語になる。恋愛に疎い私は、そういう話にも免疫がない。真理は赤面した私を見て、ふふと笑った。
「大丈夫、楓に心の準備が出来るまで、そんなことはしないわ。それに、性行為だけが恋ではないのだから」真理はよくそんな言葉を使えるなあ、と私は思った。友人の口からそんな言葉が発せられて、私は益々顔が赤くなった。「つまりはね、私は楓とどきどきし合いたいの。私でどきどきしてほしいし、私で満たされてほしい。私と楓で、そのどきどきを共有して、私と楓で、関係を閉じてしまいたいの」
「それを、瑠璃や、他の女の子には、思ったりはしないの?その、他の子と、私の違いって、そんなに明確かなあ?」例えば瑠璃の方が私よりずっと綺麗で、ずっと可愛い。他の女の子にだって、そう裏表があるようにも思えないし、笑顔は私よりずっと輝いている人なんて星の数程いるだろう。
「そうね、客観的に見たら、そこまで差は無いかも知れないわね。でもね、楓は、うん、何て言うか、やっぱり特別なの。これは、言葉では説明できないわね」
だって恋って、そういうものでしょう?そう言った真理の顔は、頬が桃色に染まって、目をうるうるとさせて、まるで恋する乙女だった。まるで、というか、そのものなのだけれど。
私はすっかりご飯を食べてしまったのだけれど、真理は膝に置いた弁当箱を開けもせずにいた。午後の授業で真理のお腹が鳴っちゃったらどうしよう、と、場違いなことを思った。
「さあ、楓。私は私のことを洗いざらい話したわ。楓はそれを聞いて、どう思ってくれたのかしら」
「ええ、と」私は目線を泳がせて言葉に詰まる。「ご、ごめん。まだわかんない」
何がわからないのかも、わからない。真理と付き合うことは、有り得ないだろうか。真理は私をこんなにも想ってくれているし、私も真理のことを、好きと言えば好きなのだ。真理は可愛いし、守りたくなるし、芯が強い子だとここ数日でわかったし、気が合うのだ。案外あっさり上手くいってしまうだろうか。どうだろう。わからない。
でも、と私は思う。さっき真理が言ったようなことを、私は全然思わない。真理を独占したいとは思わないし、どきどきを共有したいとも思わないし、真理の表情や声や体を独り占めしたいとも、全然まったく、これっぽっちも思わないのだ。それはつまり、真理のことを恋愛の相手として見ていないどころか、対象として見ることが出来ないということではないだろうか。どうだろう。わからない。
わからない、わからないと逃げている私を見て、真理は冗談めかしてぶうぶうと言い、それからゆっくり微笑んだ。
「じゃあ、楓には意地悪しちゃおうかな」
「え?」
「ねえ、もし楓が私の告白を断ったら、どうなるかしら?きっとね、断ったからって、今までと同じ、仲良し同士には戻れないわ。ぎくしゃくして、ぎこちなくなって、他人行儀になって、いずれ疎遠になってしまうわ。ねえ、楓はそれでもいいの?私が友達でなくても、楓は寂しくない?」
私が一番辛いところを、真理は一直線に刺した。そう、私はそれが一番恐くて、断るという選択肢を選べずにいる。真理は真理自身を人質に取って、私を脅迫しているのだ。それが私に有効だと知っていて。確かに意地悪。
「それは、嫌、だよ。寂しい。真理と離れたくない」
「じゃあ付き合うしかないわね」
「えっと、でも必ずしもそうなるとは限らないし、そうならないように努力したいし、真理にも努力してほしい。だから、お願い、私と離れないで」
私は懇願して、真理は困ったように眉を八の字にして「そう」とだけ言った。空は相変わらず灰色で、中庭に私達以外の人影もなく、草木が寂しく揺れていた。少し風が冷たい。
「付き合わない、離れないってなったらね、楓、私はもっと無理矢理に、楓を私のものにしようと努力してしまうわ。楓に近付こうとする人間をどうにかして排除して、私以外の人間と話す機会をどんどん減らそうとするわ。そう、赤川くんみたいな人間は、全員私によって壊されるの。楓はきっと、悲しむと思う。初めは私を憎く思ったりもするかも知れない。けれどね、きっといつかわかってくれるはず。楓には私さえいればいい、私以外の人間は存在しなくてもいいって理解してもらえるから、私は他人を傷付けることを躊躇しない」
真理は真顔で恐ろしいことを言う。それはきっと本心だろう。真理は私の為に、私との関係の為に、他人をいくらでも傷付けてしまえるのだろう。そこまで想ってくれているのは、嬉しく思う。恋をするというのは、そんなにも情熱的で排他的で利己的になるものなのだろうか。私がもし誰かに恋をしたとき、私もやはりそう思うのだろうか。そんなやる気が、私にも湧いたりするのだろうか。
「楓、わかったでしょう?楓は私と付き合うべきなの。楓は私以外見ちゃ駄目なの。私にだけ全てを曝すべきなの」
「そっかあ、そうなのかも」私は真理の気迫に、何となく説得されそうになる。「他の人が傷付くのも、嫌だしねえ」
「でしょう?だったら、ほら、今ここで言ってくれていいのよ?あのときの返事を」
「でもね、ごめん。真理と、とかじゃなくて、付き合うより、こうして友達として、のんびりしていられる方が、私には合っていると思うの」
私はそれでも、真理の好きに応えられなかった。昨日の夜は、まあ、付き合うことになってもなんとかなるよねと考えていたけれど、いざそれが目の前にあって、すぐに触れられるところにあって、そういう状況で改めて考えると、やっぱりそれは違うんじゃないか、としか思えなかった。残念だと思う。真理の期待に応えられなかったことも、真理がきっと悲しんでしまえことも。いざとなった私は、心が狭い。
「ねえ、それって、私達が女の子同士だから?赤川くんだったら、受け入れてくれたのかしら?」
真理の表情は真剣なまま、目の奥に燃えるようなものがあった。獲物を探す動物のそれと、一緒だった。
「赤川こそ、有り得ないよ。断るつもりだし」
告白されて、確かにちょっといいかなとは思ったけれど、瑠璃のことがある。私は赤川をもう好きになったりはしない、出来ない。その可能性は、昨日、綺麗さっぱり消えてしまったのだ。
真理の目から、燃える何かがすっと消えて、いつもの笑顔に戻った。良かった、これできっと赤川は事なきを得ただろう。
「なら、今回のところはそれでいいや。まだ付き合えないっていう楓を、私は許してあげる。でもね、楓。私は楓のこと、諦めたりはしないから」
「うん、それでいいと思う。私も真理とこうやって、もっとちゃんと話して、私達のことを、決めていきたい。平行線で、どうにもならなくて、何も決められないのかも知れなくても、でもちゃんと決めたい」
真理は品のある、優雅で、厳かで、柔らかい笑顔を私に向けて、「嬉しいわ、楓」と言った。私はぞくりと、背筋に冷たいものを感じた、その笑顔に。
結局、真理はお弁当を食べないままお昼休みが終わろうとしていた。ああ、お腹減らしたままになっちゃった、ごめんよ、真理。
「そういえばさ」私は真理と教室に戻りながら、気になっていたことを訊いた。「どうして真理は赤川と一緒に、その……」
「どうして一緒に、楓に告白することになったか?」
「う、うん、そう。それそれ」
「赤川くんが私に探りを入れてきたの。楓に彼氏はいるか、好きな人はいるかってね。きっと、私が男の子をあまり得意としていなくて、いつもおどおどしてしまうから、上手く聞き出せると踏んだのね。でも彼には誤算があった」
真理も私を好きでいてくれた、真理が見た目以上に強い意思を持った女の子だった。それが赤川の誤算。
「私はそのその場で正直に言ったわ。私も楓が好きなのって。それで、赤川くんと相談して、じゃあ一緒に告白しよう、恨みっこなしで、正々堂々とってね。彼は最初面喰らっていたけれど、承諾してくれた。赤川くんには悪いけれど、私、彼に負けるとは思えなかったから、さっさとはっきりさせたかったのね」
恨みっこなし、か。さっきの真理を思い返すと、いくらでも恨みそうだったけれど。
「何だか、真理って思っていたよりずっと大胆だね、一年半の付き合いではわからなかった」
「楓の為だったら、私、何でも出来るもの」
そっかあ、愛の力は強し、なのか。
授業中、私は先生の言葉を聞き流しながら思う。何も決まらなかったけれど、真理の本心が色々わかって、私も真理に本心を打ち明けられて、進展はなかったけれど十分な出来ではなかっただろうか、と。全然不十分だとしても、十分だ。真理の気持ちから逃げなかったし、真理の気持ちに逃げなかったし、私の気持ちに背を向けることもしなかった。だから、今はこれで十分なのだ、うん。
でもそういう風に自分一人で満足している間にも世界は進む、時間は進む。人は何事かを思っているし、思考は先へ先へと進んでしまう。私が心の中でないがしろにしていた、あの告白以来一切口をきいていなかった赤川も、何事かを思い、思考を進めていた。
やっぱり全然不十分だった、真理と話をして、それで解決にはならくても解決の方向性くらいは見えたよねとか思っていては不十分だったのだ。
「千鳥、ちょっといいか?」
とうとう雨の降り始めた放課後の教室で、赤川が私を呼び止めた。私はそのとき真理や瑠璃に折り畳み傘を誇らしげに見せびらかしていて、だから瑠璃もそれを目撃していた。目の前で。
「部活の前にさ、ちょっと話したいことあるから、ついてこいよ」
「え、うん、わかった」わかってない、わかりたくないのに、私はついそう答えた。瑠璃は私と赤川を交互に見て、私の戸惑いと赤川の真剣な目付きを交互に見てしまった。真理ほど鋭くはなくても、何かに気付くには、それこそ十分だったろう。瑠璃は「あ、じゃあ、私も部活行かなきゃいけないし、楓、真理、じゃあね」と言って出ていき、私は瑠璃に言葉を掛けることも出来ず、懺悔も出来ず、促されるままに赤川の後ろをついて教室を後にした。
どうしよう。
雨天での野球部は、廊下を使ってトレーニングをしたり、部室に籠ってミーティングをしたりするらしい。それらは基本的に自主参加ということになっているらしく、大会が近くない時は人数もまばらであり、だから少しくらい遅れても構わないのだそうだ。赤川はそういう野球部事情を私に話しながら、化学準備室の前まで連れてきた。きっと、部活に遅刻することを後ろめたく思って、それで私に話したのだろう。自分に言い訳をするように。
「それでさ、千鳥、この間のことなんだけど」
私は壁にもたれ掛かって、赤川からわざと視線を逸らしていた。瑠璃に、見られた。どうしよう。
「うん、あのね、やっぱり、ごめんなさい。赤川とは、付き合えないよ」
「そうか……それは、何でだ?他に好きな奴でもいるのか?三橋を選んだってことなのか?俺のこと、嫌いか?」
「そうじゃない、そうじゃないの!赤川とか、真理とか、関係ないし、好きな人も、いないの」関係しているのは、瑠璃なのだ。「でもどうしても無理なの」
「わっかんねえよ、そんなんじゃ!ちゃんとした理由がなくて、何で俺を振るんだよ」赤川の口調は少し激しくなっていた。それもそうか、あやふやに振られたのだから。
「ごめん、上手く説明は出来ない。でも、赤川だったら、もっといい人が、いると思うの、私なんかじゃなくて」もっと、宝石みたいな女の子が。
「俺はお前が好きなんだよ」
「何で私なんかを好きになっちゃったのさ!」自分の言葉に、歯止めが効かない。
「何でって、そりゃあ」赤川はにわかに顔を赤くして視線を足元に落とし、それからまた私の方を向き直した。「話してて楽しいし、お前はよく笑ってくれるし、冗談に付き合ってくれるし、それに、その、か、可愛い、し……」最後はごにょごにょと小声になっていた。
「可愛くなんて、ないよ!周りの子の方が、ずっと可愛いじゃんか!」私はどんどん声が大きくなっていった。殆ど泣き叫ぶようだった。「どれだけ目が腐ってるのさ!」
「お前の自己評価なんて知らねえよ!俺は千鳥が可愛いと思うし、お前が彼女になってくれたら、すげえ嬉しいって思ったんだ。だから、なあ、ちゃんと考えてくれよ」
赤川は、顔が真っ赤になっていた。でも私もすっかり赤くなっているのが、顔の熱さでわかった。そして、そうやって想ってくれているのを、やはり嬉しいとも思ってしまった。どうしよう。
「ちゃ、ちゃんと、考えてるよう。ちゃんと考えて、それで、ちゃんと……」
「なあ、俺じゃ駄目か?俺は、お前じゃなきゃ駄目なんだ、好きなんだ」
そう言うと赤川は私の方に近付いてきて、私の肩を両手で掴んだ。私は壁にもたれていたから、押さえ付けられているような格好になった。顔が、近い。
「あの、えと、ちょっと」私がわたわたしていると、赤川はゆっくりと顔を近付けてきた。互いの息が、かかる。赤川の大きな瞳に、吸い込まれそうに、なる。もう数センチで、触れて、しまう。唇と。唇が。私は、目を閉じて、それを、受け入れて、しまう。そうなるように、願ってしまう。瑠璃。
「ごめん」
赤川は急に離れて、私の肩から手を離して、二歩後ろに下がって、そして謝った。私はいつの間にか、泣いていた。頬を涙が流れて、私はそれが不思議だった。何故泣いているのだろう?キスが恐かったのか?無理矢理にされることが恐かったのか?違う、きっと、瑠璃を傷付けてしまうのが、恐ろしかったのだ。
「こんなこと、千鳥を泣かせるようなことが、したかった訳じゃ、ないんだ」
「うん、私も、ごめん。泣いちゃったりなんか、して」
「でも!俺の気持ちは変わらないし、だから、往生際が悪いけど、その、もう一回、ちゃんと考えてくれ。俺のことを」
それだけ言って、赤川は去っていった。去り際にまた、「ごめん」と呟いた。窓を流れる雨の筋を眺めながら、私は一人で震えていた。
あのとき、確かに私は赤川からのキスを待っていた。待ち望んでいた。肩を掴まれて、顔が近くにあって、私はそれが、とても嬉しかった。瑠璃のことなんてどうでもいいから、キスをしてほしいとすら、思った。それが恐ろしくて、私の中に私じゃない私がいるみたいに思えて、ひたすらに震えた。
そしてそんな思いと同時に、裏腹に、私のこの胸のどきどきは一体何だろう。恐ろしいと思ってなお、キスをしなかったことを後悔している。
どうしよう。どうしようもない。
折り畳み傘は広げたところで小さく、私の足は雨に濡れた。靴下がぐじゅぐじゅになって気持ち悪く、それもあって足取りは重かった。家に着いた私は、変に気持ち悪くなって泣いた。水を吸った靴下を脱ぐこともせず、声を殺すように顔を枕に押し付けて、泣いた。その日の夕食は、まるで鉛でも食べているように重たく、冷たく、腹の中にどすりと落ちていくように感じられた。
帰ってきてすぐに泣いた私は、お湯に浸かりながら泣き、布団にくるまりながら泣き、そしてこの涙が下らない逃避だとわかって泣いた。私は私を被害者に仕立て上げようと目論んでいるのだ、涙を流すことによって。不幸な物語の中心に据えて、私を確立させようとする涙は、しかし止まることはなく、私は自分の卑怯な心から目を背けることも立ち向かうことも出来ない。
そのうちに泣き疲れた私はぐうぐうと眠ってしまう。嘘ではないけれど本当でもない涙を流し疲れて。
夢を見た。
誰かがすぐ隣に座っていた、その気配だけがあって、私はその誰かを探して辺りを見回す。立ち上がって、くるくると回りながら、今いる森が、とても深く、私は迷子なのだとわかる。目の前には大きな湖が広がっていて、私の探している人はその中にいるのだという確信が芽生え、しゃがみこんで水面を見た。そこには私が映っていて、笑っていた。他人が不幸であることが面白いかのように、貶すように、嘲るように、卑劣な笑い声を上げていた。かと思うと、湖の中の私は泣いていた。自分一人が不幸であると言いたげに、非難するように、責め立てるように、泣き声を上げていた。私はその表情を、感情を、めまぐるしく変え、そのどれもが私には醜く思えた。私は水に手を突っ込んで私を掴もうとするのだが、波紋が等間隔の波を描くばかりで触ることも出来ない。あるいは、触れたいと思わないから、触れられない。




