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火曜日

 目が覚めたのは目覚まし時計がベルを鳴らす前だった。私がそんな風に、誰の、何の力も借りずに起きるだなんて。そう、今の胸の焦りは、すっかり寝過ごしてしまったときのよう。何でだろう、妙な夢を見たせいだろうか。と思ってみるがしかし、私は今まで見ていた夢の内容をこれっぽっちも思い出せないでいるし、夢とは大抵、妙なものだ。私は目覚ましのスイッチを切って、大きく伸びをした。二度寝をしようという気さえ、起きなかった。

 しかしこの焦りのような重苦しい感じは何だろうと、働かない頭を無理矢理働かせて思い至ったのが、宿題だった。ああ、しまった、昨日宿題をやらずに寝てしまったのだ、私の馬鹿。確か英語のプリントが配られていた。長文和訳と選択問題。まあ、いいか。英語の担当は黄島だし、若くてひょうきんで何だかんだ生徒に甘いから、きっと後からやって提出したら許してもらえるだろう。私は自分の焦りの原因がわかってほっとして、けれど胸のもやもやも重苦しさもちっとも解消されなかった。

 それは当然のことで、宿題なんて全然比にならないくらい重要なことがあって、それが原因だった。私がそれを思い出したのは歯を磨いて口をゆすぎ、鏡に映った自分の顔を見て今日も随分くたびれた顔をしているな、我ながらと感じた瞬間だった。顔が一層青白く、絶望したような表情に変わっていくのを眺めながら、あまりに予想外だった昨日のあれやこれやが鮮明に蘇って、へぎゃあと変な声をあげた。

 手紙での告白と、神社での告白。昨日一日で三人から好きだと言われて、私の通算告白され回数がゼロから三に跳ね上がった。もてる人でも中々経験しないだろう経験を、さして目立ちもせずもてもしない私が経験して、どう対応したらいいのかわからない。経験がないからわからない。出来れば昨日までと同じように過ごしたいけれどそんなこと出来るわけもない。経験がなくともそういうことは理解していた。

 私はいつもより早く起きたにも関わらず、いつもより遅く家を出た。だからバス停まで走るはめになった。どうしても学校に行きたくないと思って、しかし行かねばならぬのが学生である。息が切れない程度の速度で走りながら、私は昨日の自分を罵っていた。馬鹿。ちょっと頭を使ったら眠くなるなんて。結局昨日は全然大して考えられなかったじゃないか。真理や赤川に何と答えるか考えられなかったじゃないか。現状を把握するだけで満足して寝てるんじゃないよ、そこから先が大切なところじゃないか。昨日の私はきっとこう反論するだろうと思う。過去を振り返って後悔したって何にもならないよ、責任を過去に追いやったところで事態はどうにも動かないよ、過去を罵っている暇があったら、それこそ今、まさに今、考えたらいいじゃないか。真理や赤川の気持ちにどう答えたらいいのか、ちゃんと向き合って考えたらいいじゃないか。でも今の私も過去の私も一緒に思うのだ。無理、朝は頭が働かないの。

 バスに間に合った私は、前から三列目の椅子の前に立って、呼吸を整える。整えながら、どうにか考える。半分寝ているままの頭で、これからのことを。頭が働かないとか言い訳せずに。しかし、朝だとか関係なしに、私はこのことについてどうにも答えが出せそうにない。好きという言葉に対して、イエスだろうとノーだろうと、返答をしたらきっとこれまでの関係は変化してしまうだろう。真理とは親友でなくなるかもしれない。赤川とはクラスメイト以上の関係になるかもしれない。今の、いや、正確には昨日までの関係が一番気楽で心地よかったのに、その関係は崩れてしまったり嘘っぱちになってしまったり別の関係が築かれたりしてしまうのだ、そして私はそれが嫌なのだ。どう返答しても私の好ましくない方向にしか行かない気がして、だから私は答えが出せない。時間も解決してくれないだろう。解決どころか、一番恐ろしい結末が待っていそうだ。だから私はもう八方塞がりで、揺れるバスの中、見知らぬ顔見知り達に囲まれてぎゃあと叫びたくなった。朝の私は元気がなくて理性があったから、そんなことはしなかったけれど。


 校門近くで後ろから「楓、おはよう」と声を掛けられたとき、私は飛び上がるかと思った。振り向くと瑠璃が自転車に乗りながら近づいてきていた。彼女の声と、真理の声は似ていない。だから声を聞き間違えたりはしない。それでも真理に話し掛けられたのかと思って驚いたのは、そうなる可能性を考えていたからだった。五感で得た情報よりも、自分の頭で想像したことにあんな反応をするなんて、ちょっと馬鹿らしい。

「お、おはよう、瑠璃」自転車を降りて私の横を歩く瑠璃に、挨拶を返す。

「もっと腹から声、出ないものかねえ?」

「朝だからね、朝は憂鬱だもの」

 朝だから、という以上の理由が、どれだけ私の発声に影響したかはわからない。

「まあでも、とりあえず毎朝こうやって学校に通っているだけで偉い、偉いよ楓。はっはっは」

 瑠璃は高らかに笑う。朝から元気なのは羨ましいような、そうでないような。

 瑠璃はそういえば、そこそこもてそうだ。彼氏はいないらしいけれど、きっと告白だってされたことはあるだろう。少なくとも、女の子に告白されたことがあるのだ、彼女は。ちょっと、瑠璃に相談してみようかと考えた。相手の名前は出さずに、いっそ私のことだというのも隠して、意見を聞いてみたい。何せこのことについて、私は自分一人では答えを出せそうにないのだ。

「瑠璃ってさあ、今日も部活?」

「当たり前じゃん、部活は毎日ある。何、なんか用事?」

「んん、って程でもないけれど、じゃあ今日部活終わるの待ってるね」

「ふうん、わかった、いいよ」

 瑠璃は簡単に承諾してくれた。有り難い。

 教室に入ると既に真理がいて、昨日までと変わらない笑顔で手を振っていた。私は一瞬だけ身構えてしまって、少しだけぎこちなく挨拶を交わした。真理は昨日の告白のことをおくびにも出さずに、まるであの告白が無かったみたいにいつも通りだった。そんな真理を見て、私はちょっと驚いていた。普段の真理は、もっとこう、守ってあげたい、守ってあげなくちゃという気持ちが涌き出てくるような、可愛らしい女の子なのだ。今も、そういう真理と全く一緒なのだけれど、だからこそ真理の強さ、強かさが伝わって、本当の真理を見た気がした。昨日の告白のときの真剣な目よりもずっと、この普段通りの真理を見て、そんなことを思った。


 当たり前だけれど、私が告白されたからといって、世界は変貌したりしない。学校も、授業も、教師も、生徒も、相変わらず誤差があるけれど変わらないままの日常だ。かく言う私も、真理と話しているとどきどきして上手く話せなかったり、赤川と目が合うと少し気恥ずかしくなってつい目を逸らしてしまったり、そんな程度だった。というか赤川とは今までそんな目が合ったりもしなかったのに、何で今日に限って。あっちが意識して私を見ているのかな。でも、つまりは私も意識していて、つい目線を赤川に向けたりしちゃっているのかも知れない。ううん、我ながらちょっと単純すぎやしないだろうか。

 でも告白されるということはそれくらいの変化を引き起こすのが当然と言えば当然なのかも。何せ男の子から直接言われた初めての、好き、なのだ。意識するなという方が無理な話で、私は高校二年生で、年頃で、そういうものに無縁でありながら、若干消極的な態度を取りながら、やはりそれなりに興味があるのだ、まだ赤川の告白が冗談や悪戯かもしれないという疑いは持っていたとしても。

 悪戯で思い出したのは、手紙のことだった。あれをこの机に入れた人間は、一体誰だろう。どんな目的だったにせよ、何らかの目的があるはずで、その目的は既に達成されたのだろうか。手紙を書いた犯人、と言っては失礼か、手紙を書いた本人を、私は探し出すべきだろうか。悪戯ならエスカレートするかも知れない、他の誰かにターゲットを移して続けるかも知れない。それは出来るなら避けたい。このまま私が全然気にしない素振りをしていたら、案外飽きてやめてしまうかも知れない。そうなったらラッキーだけれど。ううん、どうしたものか。

「おおい、千鳥ぃ。反応せんか」

 名前を呼ばれてはっと顔を上げると、英語教師の黄島冬研がこちらを見ていて、他の生徒も私の方を向いていて、私は今が授業中だということを思い出す。

「あ、はい」

「あ、はい、じゃないだろうがぁ。お前は全く、宿題は忘れるわ、先生に呼ばれても聞いてないわ、挙げ句にあ、はい、だなんて気の抜けた声を出すわ、どんだけ不真面目だったら気が済むんだ。先生のことがそんなに嫌いか」

 生徒達はくすくすと笑っている。黄島の冗談に対してと、私の阿呆さに対して。真理も私のことを見て、上品に手を口にあてて笑っていた。普段通りに。赤川は全然違う方を向いて頬杖をついていたから、どんな表情なのかわからなかった。

「いえ、別に」

「じゃあちゃんと聞いておくれよ。先生はなぁ、無視されるのが一番悲しいんだぞ。じゃあ、ほら、続き読め。どこかわからなかったら、隣に聞け」

 私は立ち上がり、斜め前の瑠璃から場所を教えてもらい、拙い発音で英文を読んだ。読みながら、手紙や、二人のことを思っていた。ところどころつっかえて、赤っ恥をかいた。


 短いホームルームが終わると、瑠璃や赤川を始めとした部活動組は我先にと教室を後にする。皆活動的で精力的で、こんなとき帰宅部の私はほんの少しだけ後ろめたい気分になる。ああいうのが正しい学校生活なのだと、自分はどこかでずる休みをしているのだという気持ちがある。今更だけれど。

「楓、帰ろ?」

 真理が話し掛けてきて、私の心は体の中で大きく跳ねた。そのエネルギは体に伝わって、私の肩もぴくりと動いた。

「ごめん、今日は英語の宿題やってから帰らなきゃ」

「そっか、そうだったね。じゃあ、また明日ね」

 真理は笑顔のまま、教室を出ていった。どう思ったろう。私が真理を故意に避けたと感じただろうか。そういう気持ちは、無い。とは言い切れないけれど、それは真理を嫌っているということではない。真理もそれをきっと知っていて、私に気を使って何も言わないで帰っていったのだ。優しい真理。私の親友の真理。

 それは兎も角、私は瑠璃と会う約束をしていて、瑠璃の部活が終わるのを待たねばならなくて、更に言えば私が英語の宿題をやらなければいけないのは事実で、私は教室に残ったままプリントを取り出した。机から英和辞典を取り出すとき、一瞬どきどきしたけれど、流石に今日は白い封筒も何も入ってはいなかった。教室には私の他に雑談をしている男子生徒が三人いて、「千鳥ぃ、居残りかよ、だっせ」という茶々に「うるさい帰れ、不毛な帰宅部よ自宅に帰れ」と威嚇してみたりした。彼等は赤川の気持ちを知っていたりするのだろうか。あるいはあの手紙の主のことを。もしくはまさかの本人があの三人の中に?と疑っていたらきりがないけれどどうしてもそういうことばかり考えてしまって簡単な問題なのに随分時間がかかった。

 職員室に行って、黄島の机にプリントを置いておく。黄島はいなかったけれど、一応申し訳なく思って、ぺこりと小さく頭を下げた。他の先生方にばれないように、小さく。ごめんなさい。

 私は瑠璃に会いに体育館に向かう。体育館では、バスケット部、バレー部がコートを半分ずつ使って練習しており、その向こう、壇上で演劇部の練習が行われていた。私はどの部活にも邪魔にならない隅っこで演劇部の練習の様子を眺めていた。瑠璃はやはり、ああいった舞台の上だと余計に輝いて見える。遠くまで響く声、喜怒哀楽を全身で表現する仕草、言葉一つ一つと連動する身振り手振り、彼女は指の先まで演じている。力強く、勇ましく、気高く、彼女は舞台の上で輝いていたのだ。王子様か、と一人納得した。


 部活が終わったようで、瑠璃が汗を拭きながら私に近付いてきた。

「ごめん、今終わった。すぐ着替えるから、外に出てなよ。ここ、暑いでしょ」

「うん、ごめんね私こそ。ゆっくりでいいよ、今日は居残って宿題してたから丁度良かったのだ」

 あはは、と笑って瑠璃は奥に引っ込んでいった。明るくて強い彼女のことを見送ってから、私は体育館を出た。

 制服に着替えた瑠璃は部員らしい女の子達と二、三言葉を交わして、それから手を振り合ってから私のところに来た。

「お待たせ。じゃあ、どうしようか。どこかに寄っていく?」

「そうね、出来れば静かなところがいいかな、ゆっくりしたいし」

 それに、あんまり誰かに聞かれたくないことだし。

「ふむふむ、まあ、いつもの公園かな、お金も掛からないし」

「だね、そうしよう」

 私と真理が帰るときや、私達が遅くなって更に瑠璃の都合が合うときは、学校から十分程歩いたところにある公園でよくおしゃべりをした。私達の憩いの場として、その閑散とした公園は最適だった。人は少なく、きちんとしたベンチが備え付けられていて、自動販売機もあり、バス停にも駅にも近いのだ。

 瑠璃は自転車を手で押しながら、私と並んで歩く。「のど飴、いる?」と聞かれて、一も二もなく頷いた。やっぱり演劇部は喉に気を使ってるのだなと感心すると、「いや、疲れたらお菓子食べたくなるだろう?そんな感じで常備しているのさ」と言って笑った。公園まではそうやって、何気ない話をしながら歩いた。歩きながら、話しながら、私は瑠璃にどこまで相談しようかと思案していた。何もかも洗いざらいという訳にはいかないが、かといって何も話さないことは解決に繋がらない。あくまで世間話の延長として、さりげなく、自然に、それでいて冗談で返されないような重みを持たせて、切り出さなければ。

 公園はやはり、誰一人としていなかった。私と瑠璃はベンチに腰掛け、少し赤みがかった空を眺めながら暖かい缶のカフェオレを飲んだ。

「ねえ、瑠璃って、好きな人、いる?」

「おっと、いきなりだね」と瑠璃は笑った。しまった、唐突すぎたかな。「なになに、楓ってば遂に好きな人でも出来たのか?うんうん、乙女だねえ、誰だい?言ってごらんよ」

「ち、違うの。ええとね、この間読んだ漫画が、恋愛の話でね、ちょっと複雑で、ううん、私だったらどうするかなって、思ったの。ほら、私、そういうの全然知らないから」

「なんだ、つまらない。でも恋なんて出来ないよって嘆いてた頃よりはよっぽど思春期している」

 そうかも。まあ、半ば強制的にそうなってしまったきらいはあるけれど。

「ええと、その話ってのが、ある女の子が、友達の女の子と、クラスメイトの男の子に、告白されて、どうしようかなって悩んでる話なの。ねえ、瑠璃だったら、どうする?」

「へえ、男の子と女の子に告白されるのか。なかなかスリリングだね。でも、どうする?ったって、そんなもの決まってるじゃん。好きなら付き合って、そうじゃかなかったら断る。それだけじゃないの?」

「でもでも、そうしたら、どう答えたって、その後ぎくしゃくしたりしないかな?イエスにしろ、ノーにしろ」

「そんなものはね、時間がどうにかしてくれるって。大事なのはその女の子が誰を好きで、誰と好き合いたいかってことだって。ねえ、その子はどっちのことが好きとか、書いてなかった?」

 ああ、そうだ。私は本当に馬鹿なんじゃないか。告白されたときどう答えるかという問題に対して、好きかどうかという感情は不可欠で、最重要で、最優先されるべきものじゃないだろうか。私はそんなことも考えずに、気まずくなったらどうしよう、友達や今の関係から変化してしまったらどうしようとそればかり考えていた。馬鹿過ぎて自分で自分を笑ってしまう。

 でも、じゃあどうだろう。真理や赤川のことが好きだろうか。真理は勿論大好き。優しくて可愛くて上品なのに話しやすい。でもこれは友情の好きでしかない気がする。赤川はどうだろう。昨日までは、クラスに半分いる男の子のうちの一人という認識で、嫌いとか思ったことはないけれど好きだとも思わなかった。でも好きだと言われてから、私は彼を意識してしまっている。他の男の子と同じ様には、もう見ていない。それはつまり、好きに向かっている兆候なのだろうか。

「楓、楓?」私が黙っていると、瑠璃が肩を叩いた。「こら、話しているときにぼうっとしない」

「あ、ごめん。ええと、何だっけ」

「だから、その告白された女の子は、誰が好きなのさ?で、実際どんな返事をしたのさ?」

「えっと、まだ途中までしか読んでないから、どんな返事をしたかは、私も知らないの。どっちが好きなのかも、何だかわからないみたいだった」

「じゃあ今からが楽しいところだね」

 楽しい?楽しいのだろうか。私は今からを楽しめるだろうか。恋愛の漫画を読むみたいに。物語を追うように。

「そういえばさ、瑠璃って女の子に、もてるよね」

「失礼な、女の子にも、もてるのさ」

 瑠璃は特別男前な声で言った。

「うんうん、そうだね」

「ああっ、流された」

「でね、女の子に告白されて、どうだった?」

「どうって、どうもないよ。丁重にお断りさせてもらって、それでお終い」

「何で、瑠璃はその子からの好意を断ったの?」

「何でって言われてもなあ、私、同性愛者じゃないし」

 そういえばそうか。私が真理と付き合ったりしたら、私は同性愛者ってことになるのか。てか真理は同性愛者なのか!うひゃあ、改めて考えると確かにスリリングだ。身近にそういう人がいるなんて、思ってもみなかった。

「それに、私は、その、あれだし」

 私が心の中でぎゃあぎゃあ騒いでいる間に、何だか瑠璃の言葉が詰まっていた。あれ、と思うと同時に、頭に閃くものがあった。

「へえ、へえ。そうなんだあ」私は自分のことをすっかり忘れてにやにやしてしまう。「瑠璃こそ、よっぽど乙女ですなあ」

「ちょ、ちょっと、茶化さないでよ。私だって好きな人くらい、いるもん……」

 瑠璃は顔を真っ赤にして、髪をしきりに触って、実に可愛かった。女の子にしては背が高く、髪が短く、声の低い瑠璃は、しかし今、少なくとも私よりずっと女の子だった。私と比べるのは失礼か。

 私は瑠璃の手を取って、ぎゅうと握り締めた。本当は抱き締めて頭を撫でてあげたいという衝動に駆られたが我慢した。その代わり、可愛い、可愛いと、何度も口に出してしまって、その度に瑠璃の顔が益々赤くなっていって、もう止めどない可愛さが溢れていた。

「ねえねえ、私の知ってる人?あ、でも、演劇部の部員とかだったら、知らないか」

「う、ううん。あのね、誰にも、絶対誰にも言わないでね」瑠璃は目をうるうるさせて、とても小さい声で想い人の名前を言った。


「赤川、廉次郎くん。その、同じクラスの」


 私は可愛い、可愛いという思いがすうっと消えていくのを感じて、それは私が瑠璃から、この公園から、地球から遠ざかって、ひゅううんと宇宙にまで飛ばされてしまったような感覚だった。しかしそれは単に私が感じただけで、私の体はこの地球の、この公園の、瑠璃の隣から、少しも動いてはいなかった。ひゅううん。

「へ、へえ。何か、意外。瑠璃って、もっと、ほら、大人っぽい人が好みだと思ってた」

「ううう。絶対絶対、秘密にしてね!真理にも言っちゃ駄目だよ!」

「そ、そりゃもう!勿論。言わない、言わない、心の奥底に、仕舞っておくって」

 言えるわけない、特に真理には。

 それから暫くは瑠璃がうううう唸って恥ずかしそうに体を縮こまらせていたので、私は握ったままの手を両手でしかと包んで、何も言わずにいた。王子様どころか、か弱いお姫様だ、と思った。それどころじゃないとも、同時に思った。ああ、妙なことになった。なってしまった。なってしまっていた、私の知らないところで。頭を抱えたくなって、けれど私の両手は瑠璃の手を掴んで離さない。

 そのうちに瑠璃も落ち着いたみたいで、はあああと大きな溜め息を吐いた後に、「有り難う」と言った。何も有り難いことはしてないよ、可愛いからつい手を握ってしまっただけだよ、とは、やはり言わなかった。

「ねえ、聞いてもいい?赤川のどういうところが好きなの?」

 私はそういうことに疎くて、だから瑠璃の可愛さは理解できてもその感情までは理解できなかった。瑠璃はわざとらしく咳払いをして、またふううと息を吐いて、答えてくれた。

「あのね、廉次郎くん、クラスにいるときはね、何て言うか、普通なの。でもね、野球をやってるときの廉次郎くんはね、凄く真剣で、真っ直ぐで、その、か、格好いいの。とても尊敬してるの、そういうところを」

 本気で甲子園を目指しているらしい赤川は、それはきっと真剣だろう。瑠璃は演劇部で次期部長候補筆頭らしいから、やはり瑠璃も演技に真剣なのだろう。だからそういう、真っ直ぐにひたむきに練習に励む姿の格好よさに、ちゃんと気付けるのだろう。帰宅部でふらふらしているような私には気付けないところに、ちゃんと。それにしても、廉次郎くんとはね。普段は赤川くんと呼んでいたように記憶しているけれど、恋する乙女はそういうものすら隠して、秘めて、大事にしているのか。それはどれだけ可愛らしいことだろう。

 私と瑠璃はそれきり何も話さないで、日が落ちていくのを見ていた。私は言いたいことが胸の中で渦巻いてもやもやするばかり、それらは上手く言葉にすることも出来ず、言葉にするべき状況でもなく、だからずっと私の中でじわりと染みていくだけだった。瑠璃が「そろそろ帰ろうか」と言い、私も「そうだね、帰ろう」と返した。橙から深い青へのグラデーションを作る空には、雲がぷかりと呑気そうに浮かんでいた。

「いやはや、恥ずかしいところを見られたな」

 瑠璃はすっかりいつも通りの表情で、声色で、自転車を押しながら笑った。

「そんなこと、ないよ。さっきの瑠璃、とっても可愛かった」

「もういいってば。誰にも言わないでくれよ、あんな姿を見せたのは楓が初めてなんだから」

「大丈夫、安心して。私だけの秘密にしてあげる」

 瑠璃はニヒルに笑うと、鞄から飴を取り出して口に含んだ。まるで異国の王子様みたいに、夕暮れに映える彼女の横顔を眺めながら、彼女の美しさに見惚れていた。王子様にして、お姫様。普段の彼女も光り輝いているけれど、内側の、彼女の秘めた心はもっと強く輝いていた。それはきっと藍色。彼女はラピスラズリのように引き込まれるような色を内包していた。

「じゃあ、また明日。遅刻しないように」

「うん、わかってる。朝は弱いけど、頑張るね」

 バス停まで着いてきてくれた瑠璃は、自転車に跨がると颯爽と去っていった。


 夜。私はただ頭を抱えて悶えていた。瑠璃の可愛さにやられて全然深く考えていなかったけれど、昨日に引き続いてまた妙な事態になっていた。私を好きだと言ってくれた赤川を好きな瑠璃は私の親友なのだ。彼女に、伝えるべきだっただろうか。何を?まさか赤川が好きなのは私なんですよ、と?それは無茶な、馬鹿な、無理な話で、しかし隠したままどうやって瑠璃や赤川と接していけばいいのだろう。どうやっても何かが壊れてしまうように思えてならない。

 けれども、まあ、考えようによってはこれは好機だ。赤川の好意は、お断りしよう。その決定打が今日見付かったと思えばいい。瑠璃は相手が好きかどうかで決めるべきだと言っていて、私もその通りだと思ったけれど、でも私はやはり出来るだけ今の関係を崩さないような選択を取る。別に前々から赤川のことが気になってました、ということではないのだ。告白されて、ちょっと意識してしまって、ちょっといいな、と思ってしまった、それだけのこと。私が身を引くだとかいう話ではない。こう言ってはなんだけれど、赤川が私なんかを好きになったのがそもそもの間違いなのだ。もっと他に素敵な女の子はいくらでもいるし、それこそ瑠璃なんて中性的美少女で内面は驚くほど乙女なのだ。ラッキーな男の子だ。瑠璃に言い寄られたら、案外ころっと私のことなんて忘れてしまうだろう。

 うん、これで大分すっきりしたんじゃなかろうか。そうであってほしい。残るは私が真理の告白にどう返事をするかという問題だけだ。明日、思いきって真理と色々話をしよう。それで、お互いに納得のいく答えを出そう。私と真理が付き合うことになったとして、例えば瑠璃が私達を避けたりは、きっとしないだろう。付き合うことにならなくとも、それで真理とはさようなら、とはならないで、大切な友人としてこれからも楽しく過ごせるだろう。うんうん、何だか気が楽になった。瑠璃の可愛いところも見れたし。

 そう思って私は満足感に包まれて、布団の中でぬくぬくとなりながらそのうちに眠ってしまう。まどろみの中で、あ、瑠璃にラブレターのこと相談すれば良かった、でもいいや、どうせ悪戯だし、そんな話をして色々別のことを感付かれても困るし、と思った。


 夢を見た。

 私は木の燃えているのを、じっと眺めている。暑くもなく、寒くもないところに座って。私は裸足だった。遠くで煌々と燃える炎は、セロファンのように鮮やかで、綺麗だけれど、ぎこちない綺麗さだと感じていた。何故だろう。私がいるのは小高い丘の上らしく、燃える木と私の他には何もなかった。そう思っていたのに、いつの間にか私のすぐ横に、眺めていたものとはまた別の木が立っていて、私は逃げなくてはならないという直感だけがあった。それは程なくしたらきっとあの木と同じように燃え始める。その火はきっと私も一緒に燃やしてしまう、鮮やかな赤で。でも私は立ち上がりもしなければ、その木から離れようともしなかった。逃げたい、逃げなければと焦るのだが、体は言うことを聞かず、ただ遠くで燃える炎を眺め続けているのだ。

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