地下施設
09
行きとは正反対の品行方正な運転で自動車が帰ってきたのは、二時間ほどたってからだった。
フェイになだめすかされても店先から動くことができず、立ちつくしたまま、がたがた震えながら信じていないはずの神様に祈っていたあたしは、ガラス越しに自動車を確認するなり、ドアを開けて外にまろび出た。
「ジュンっ」
ヤンがジュンを抱えて自動車から降りてくる。
名を呼んだのに、ジュンはぴくりとも反応しない。
まさか……。
「…ジュン?」
足がすくんで、動けない。
「奥へ……」
フェイの指示を受けたヤンに店の奥に運ばれていくジュンを、どうしょうもない不安に怯えながら見守る。
「泣きそうな顔しないの」
とん、と白い手が肩に乗せられた。
「メイファ」
「大丈夫よ、約束したでしょ。ヤブキは生きてるわ。後はフェイに任せれば安心よ」
真紅の花のような艶やかな笑顔であたしに微笑みかけ、
「私の言葉なんか信じられない? なら、様子を見に行きましょうか?」
メイファの案内で、店の奥にある倉庫の、漢方薬の壜が並んだ棚の後ろに隠された薄暗い階段で、地下に降りる。
地下には驚くほど広大な空間が広がっていた。
ひょっとしたら店は飾りでこっちのほうがメインなのかもしれない。
案内された部屋には、病院の処置室とみまごうほどの設備が整っていた。
ジュンは、真ん中におかれた診察台とおぼしきベッドに寝かされている。
傷をあらためていたフェイは、顔を上げずに検分しながら、
「肩と脇腹の銃創と打撲が多数。手ひどくやられましたね」
「当然よ。私が行ったときにはほとんど片がついてたんだもの。この機会に恩を高く売りつけるつもりだったのに、残ってたのは後始末だけ。化け物だわ、ヤブキは」
「なるほど」
「だいたい、フェイがうまく治しすぎるから、ヤブキがこんな無茶ばかりするのよ。腕の一本くらいなくせば、自分は機械じゃないから替えはないんだって気づくんじゃないかしら」
本気ともつかない口調。
フェイは振り返ってメイファとあたしを交互に見、
「そんな顔をしなくても大丈夫ですよ。メイファがこんなことをいうのは、ヤブキを心配しているからです」
「うるさいわね」
メイファがそっぽを向く。
「世間一般的に考えれば重傷の部類ですが、今までヤブキが負ってきた怪我を考えれば、大したことありませんよ。…後は私に任せてあなたは少し休みなさい。疲れているでしょう」
「でも……」
ジュンの側を離れるんなてイヤだ。
「いらっしゃい。いてもなにもできないわ。そんな汚れた恰好でいたらかえって治療の邪魔になるし。バスで汚れを落として少し休んだほうがいいわ」
確かにそのとおりなのかもしれない。
思いもかけないアクシデントに、あたしはちょっと弱気になっていた。
「わかった。そうする」
あたしは、ジュンに心を残しながらも、メイファとともに部屋を出た。
10
熱いシャワーで血と泥を洗い流す。
周到にも用意されていた衣類を身に着けてバスから出ると、その気配を察したように、ベッドに長い足を組んで腰かけていたメイファが、ヘッドボードの上に設えられた電話に受話器を戻すのが見えた。
「………」
気づかなかったことにして、メイファの前に立つ。
メイファは嫣然とした笑みを浮かべてあたしを見、
「少しは落ち着いたかしら。ココアをどう?」
「……助けてくれて、ありがとうございました」
あたしは、メイファに深々と頭を下げた。
メイファは首を振ると、ぽんぽんと自分の横を手のひらで叩いて、座るように促した。
サイドテーブルを引き寄せて、あたしがシャワーを使っている間に準備してくれていたらしいココアを示す。
「お嬢ちゃんに礼を言われるようなことじゃないわ。ま、お飲みさい」
ふぅん。
助けた相手は、あたしじゃなくてジュンってわけね。
言われるままに湯気の立つコップを引き寄せながら、ちょっとむっとした顔を、あたしはしたと思う。
いわれのない反感。
それは、魅惑的な大人の女に対する嫉妬かもしれない。
あたしが守りたかったジュンを助けた女に対する逆恨みかもしれない。
聞き分けが悪いわけではないあたしとしては、子どもっぽい真似をするわけにもいかず、それらをまだ十分熱いココアとともに飲み下した。
複雑な思いなど知らぬげに、メイファは、
「綺麗な金髪ね、ママ譲りかしら?」
「ママを知ってるのっ!」
猫騙しをかけられたような気分。
なんで、メイファがママを?
メイファは、男ならだれでも、自分が詰問したことすら忘れてしまいそうな、蕩けるような笑みを浮かべ、
「そういえば自己紹介がまだだったわね。私はメイファ。リ・メイファよ」
「ごまかすなっ」
音を立ててテーブルにカップを戻し、噛みつくように言う。
「私はお嬢ちゃんのことを知っているのに、あなたには名前も教えてないのは不公平だと思ったのよ」
「…なんでも知ってるって言いたいわけ?」
「ええ。あなたの名前がマリアママの少女趣味の発露だってこともね。…マーガレットちゃん」
ママの愛読書が若草物語だってことまで知ってる相手。
すっと、背中が薄ら寒くなった。
あたしは隣に座っている得体のしれない女を上目使いに睨み、
「ジュンのことも知ってるの?」
「ヤブキ…」
微かにメイファの表情が曇る。
「そう、ね。調べたらわかる範囲のことならね。彼の何が知りたいの、お嬢ちゃん? ヤブキはあなたにはなにも話してないのね」
つんとそっぽを向く。
「教えてなんかもらわなくて、結構っ」
むかつくったらないっ。
死んだってこんな女に教えてもらったりするもんか。
「よかった」
メイファがくすりと笑う気配。
「余計なこと話したら、ヤブキに殺されちゃうわ。さ、おしゃべりはこのくらいにして、少しお休みなさい、疲れてるでしょう」
ベッドの毛布をめくって、すらりと立ち上がる。
あたしは、ベッドに座ったままメイファを見上げて、
「眠くなんかないよ。ジュンに会わせて」
眠くなんかない。
でも、あまりにも瞼が重い。
「まだフェイの治療が終わってないわ」
「じゃ、終わるまで待ってる」
なぜかあくびが出る。
時計は午前零時を指す。子どもだってまだテレビの前に座っている時間だ。
眠くなるはずないのに。
眠りたくない、ジュンに会いたい。
「ヤブキの意識が戻ったら教えてあげるから……」
なのに、どうして、こんなに瞼が………。
「とりあえず、休みなさい」
メイファの声を遠く聞きながら、暴力的な睡魔に吸い込まれるように、あたしは眠りに落ちた。