緋色の女
ジュンを、助けるために?
「……銃を貸して」
言いながらジュンのM92に手を伸ばす。
「だめだ」
ジュンはあたしの手をつかみ、それを止めた。
不満顔のあたしに、
「M92じゃお前の腕には余る。キックバックに耐えられない。とんでもない方向に一発撃って手がしびれるのが関の山だ。それより……」
あたしが肩にかけていたバッグを示す。
渡すと、中を探り、ジュンは小さな銃を取り出した。
弾倉をセットしてあたしに握らせ、
「ベレッタだ。1934。ずっと御守りがわりに持っていた。手入れはしてるから十分使える。安全装置はここ。これをはずして……そう。最初に遊底を引いて薬室に弾を送っておく。これでトリガーを引けば撃てる。弾は七発だ。ただしこれは護身用の銃だ。それを忘れるな」
真剣に簡単なレクチャーを聞く。
例え口径の小さなオートマチックでも、持たせてくれるのは、本気だって証拠だ。
逃げるだけなら、銃なんか持ってないほうが疑われずにすむ。
「オッケ。わかった」
あたしは、ジュンに顔を近づけてその真黒の瞳をまっすぐ見つめた。
「……死んだら許さない。ジュンが死んだら、あたしも死ぬから。……絶対、死なないって約束して」
「……ああ」
馬鹿な保護者がうなずくのを確認すると、
「じゃ、ちょっとだけ待ってて」
あたしは路地から飛び出した。
ベン&ジェリィスの看板を目指そうとして、あたしはたたらを踏んだ。
血痕。
路面に散った朱痕を睨む。
これをなんとかしなきゃ。すぐにジュンの居場所がバレてしまう。
どうしよう…。
人差し指で眉間を押さえる。
考えている時間はないし、辿り戻って血痕を消すなんて不可能だ。
仰いだ空にはチェシャ猫の笑みに似た月。
この分じゃ雨なんか降らない。世の中、そんなに甘くない。
それじゃ誤魔化すには……。
その時、周囲でかさかさと物音がした。
ぎくりとして首を巡らす。
「猫……」
息をつく。
猫?
あたしは、はっとして、はずした視線をもう一度猫に戻した。
07
うまく深読みしてくれればいいけど。
小走りで、周囲に猫の血をまばらにまき散らす。
血は赤い。
人間も猫も。
見ただけじゃわからない。区別はつかないはずだ。
問題は、追っ手のやつらがバカか利口か、だ。
途中から猫の血で誤魔化したと考えるか、最初から猫の血だったと考えるか。
…ホテル近辺に散る血痕は浮浪児にでも頼んで散らさせたフェイクだ、と。
追っ手がジュンを知っている相手なら、ストレートに考えず裏を読もうとすると思う。
血痕の正体を知ったら、騙されたと思い込んで違う方向を探そうとする。
引っかかってくれたら御の字、だいぶ時間が稼げる。
わかってる。こんなの所詮子どもだましだ。
ジュンを助けるには、一刻でも早くフェイって人の店に辿り着くしかない。
路上の傍らの、見えそうで見えない場所に猫の死骸をおく。
「……ごめん」
この借りは一生忘れないからね。
あたしは、百メートルのスプリンターのように、全力で走り出した。
08
肺と心臓が痛い。
身体中が酸素を求めて脈打っている。
ようやくたどり着いた店の読めない看板を睨む。
読めないけど…ベン&ジェリィスの向かいに、漢方薬を置いてそうな店は他にない。
あたしは、犬のように舌を出してぜいぜい息をしながら、アルファベットと漢字の装飾文字が躍るガラスに拳を打ちつけた。
割れたって知るもんか。
声が出ないんだからしょうがない。
「誰ある。こんな時間に。急病人か」
驚くほど無造作にドアが開き、ひょろりとした若い男が顔を出す。
ぷんと香るのは漢方薬の匂い?
男は血と泥で汚れたあたしを見ても、動じた様子もなく、
「どうしたね。そんな格好で」
「フェ、フェイって人はどこっ」
「大人は仕事中ある。用件は私が聞くよ」
そんな暇はない。こっちは一刻を争うんだから。
あたしは若い男を押し退け店の中に入ろうとした。
簡単に阻止される。
男の動きは訓練されたもののそれだ。
「落ち着くよ。いきなり大人には会うは無理」
「放せっ、早くしないと、ジュンがっ」
「暴れるとつまみ出すよ」
「放せってばっ。ジュンが死んだらあんたを殺してやるからっ」
「しょうがないね、しばらく頭冷やすよろし」
あたしは襟首をつままれ、猫の子のように店の外につまみ出された。
鼻先で閉じられようとしたドアにぶつけるため、手近な石をつかむ。
「待ちなさい」
店の奥の暗がりから声がした。
「大人?」
現れたのは、こんな状況でも見惚れてしまうくらい綺麗な男女だ。
アジア系の美人というのは共通しているがふたりは似ていない。
例えるなら、銀髪を背に流した切れ長の男は冷たい刃で、赤毛をベリィショートにした緋色のチャイナ服の女は灼熱の炎。
異国の血がエキゾチックな魅力を醸し出し、怖いくらい魅惑的だ。
ふたりとも年齢不詳。
ジュンと同じくらいにも見えるが、彼は年よりかなり若く見えるからあてにはならない。
「フェイさんっ?」
「はい。そうです」
微笑みを浮かべて長髪の男が頷いた。
若い男を押し退けてフェイに走り寄り、ジュンから託された紙切れを胸を叩くようにして渡す。
「助けてっ、ジュンがっ」
「ジュン……」血まみれの紙を開き「ジュン.Y……。確かにこの筆跡はヤブキですね」
女のほうがあたしに詰め寄る。
肩をつかんであたしを揺すり、
「ヤブキがどうかしたの!」
「ホテルで休んでたら、急に襲われた。慌てて逃げ出したんだけど、ジュンがあたしをかばって怪我しちゃって動けなくなって。だからっ」
はっとした様子で女がフェイのほうを見る。
「フェイっ」
「…そのようですね」
「ヤブキは今どこっ?」
女は血相を変え、あたしの肩をつかんだ手に痛いほどの力を込めた。
「デリーホテルから、東南に三ブロックくらい離れたとこにあるサマータイムってカフェバーの裏っ」
「…メイファ」
それが名前なのか、呼ばれた女はフェイに向かって頷いた。
「……ヤンと車を借りるわ」
言うなり店の奥に向かった。
さっき揉み合った若い男が後に続く。
「あたし、案内するっ」
追って走り出そうとして、フェイに止められる。
「メイファに任せなさい」
「やだ、あたしも行くっ」
あたしがジュンを助けるんだからっ。
「あなたは疲れてる。ここで休んでいなさい」
「でもっ」
「あなたを安全に保護してほしい。それがヤブキの意思です」
口調は優しいが、あたしの腕をつかんだフェイの手には強い力がこもっている。
ジュンのバカっ!
思わず地団駄を踏む。
エクゾーストノイズが響き、店の表に自動車が横付けされる。
奥から走り出てきたメイファが、通り際、ごねるあたしの肩を叩いた。
「信用して。絶対ヤブキを連れてくるわ」
肉食獣を彷彿とさせる笑みを残し、表の自動車にしなやかな身のこなしで乗り込む。
空気を引き裂くような排気音を立て自動車が走り去るのを、あたしは不安に押しつぶされそうになりながら見送った。