不器用な保護者
あたしたちに課せられているのは放浪と言う名の逃亡。
追っ手を避け、痕跡を残さぬように街から街へと渡り、留まることなく流れていく。
まるで流浪の民。
それは退屈する暇のない少々ハードな日々だ。
実際に追っ手グループに遭遇し危ういところで逃れたり、ジュンの仕事絡みらしき相手に襲撃されたこともある。
根無し草の生活の始まりは五年前。
あたしが十歳のときだ。
五年前のあの夏、パパとママが死に、気づいたらあたしはジュンと一緒にいた。
乾いた記憶。
触れるだけで痛みと涙を伴うはずのその記憶…、ふたりの死とそれに関連することをあたしは覚えていない。
それ以前の記憶は明確だ。
緑の森の中の農業を主にする古風な生活。近隣との交際はほとんどなかったものの、それは満ち足りた幸せな暮らしだった。
綺麗で気風がよくてそのくせ少女趣味だったマリアママ。
逞しくて優しいウィルパパ。
誕生日にママが作ってくれた焦げたケーキの味とか、洗いたての洗濯物の感触。
いつも抱きしめてくれたパパのタバコの匂い。
寝しなにママが歌ってくれた子守歌も。
パパは、あたしのママ譲りの金髪がご自慢で、真っ黒な瞳がパパ譲りの青でないことを残念がっていた。
夢みたいに甘い生活の、どんな微小な部分も鮮明に思い出せる。
けれど、突然放り込まれた嵐、平穏な生活を奪ったなにかについて、あたしは正確に思い出せない。
…余程のことがあったんだと思う。
だって、半年も精神のバランスを崩してしまったくらいだ。
そう、放浪を始めてから半年の間、あたしは言葉も正常な意識も失っていた。
壊れた人形みたいなあたしを、ジュンは黙々と世話してくれた。
でも、本当に大変なのは、意識が戻ってからの半年だったろう。
あたしの記憶の混乱を知ったジュンは、パパとママが死んだことしか教えてくれなかったから、当然納得できず、あたしは荒れた。
幸せな生活が壊されたという現実はとても信じられるものじゃなかったし、見も知らぬ異国人と一緒に居るのなんか、肌が泡立つほど嫌だった。
ジュンをハイエナのように憎み、思う様罵り、噛みつき、暴れた。
だけど、寡黙な日本人はあたしを見捨てなかった。
自分を蛇蝎のように憎んでる相手に、驚異的な辛抱強さで接し続けた。
あたしが、悪夢にうなされたり、寂しくて泣いたりする度、なにも言わずに抱きしめてくれた。
それが深夜でも明け方でも、絶対に。
やがて、あたしは、少しずつジュンに心を開き、血の繋がりもない異国人との生活に馴染んでいった。
今じゃ、この根無し草の暮らしを楽しんでるくらいだ。
くそ真面目な日本人にそう言ったら、仏頂面がますますひどくなるだろうけど。
…どうもジュンは、あたしに正規の教育を受けさせたいらしい。
しかし放浪を続ける限りそれは無理だ。
一方では定着を望みながらも、駆り立てられるように放浪を続ける。
理由は知らない。
追っ手の正体はもちろん、それが五年前に始まったのか、もっと前からジュンは追われる立場だったのか、それさえも。
寡黙な日本人は自分のことをしゃべらない。
質問は黙殺されるか自嘲めいた言葉で一蹴されるかだ。
真相を知るための唯一の手がかりである五年前の夜。
あの暑い夏の夜の記憶は、ひどく曖昧だ。
もともと欠けていた記憶が、正常な意識を失っていた半年の間に遠く霞んでしまった。
明確なものもないわけじゃない。
夢の中に現れるいくつかの断片は、今でも吐き気がするくらい鮮明だ。
でも、それらが時間の流れに沿った出来事として結びつかないのだ。
どれが現実か虚実かわからない以上、全部極彩色の悪夢に過ぎない。
顔をしかめる。
夢か。
……ちぇっ、やなことを思い出した。
パとママのことを考えた後は、いつもロクな目に合わない。
しかも、今夜は隣にジュンがいない。
イヤな夢を見るのは必ずこんな夜だ。
あたしは毛布を引き寄せ、頭までその中にもぐり込んだ。
眠りたくはなかったが、睡魔には抗いがたく、その誘惑にほとんど陥落しかけた時。
立て付けの悪い窓が軋む音を聞き、あたしは反射的に身を起こして枕の下に手を突っ込んだ。
習慣通り忍ばせておいたベレッタ1934の銃把をきつく握り、ベッドの上に片膝をついた姿勢で窓に向けて構える。
しん、と静まり返った空気。
ゆっくりと百を数え、あたしはやっと構えをといた。
もう眠る気にはなれず、ベレッタを握ったまま、ベッドで膝を抱える。
あたしは窓が怖い。
二年前を思い出すだけで身体が竦む。
もう、二度とあんな思いはしたくない。
ううん、狙撃や襲撃が怖いんじゃない。
ジュンが、怪我したり、危険な目に合うのが嫌なのだ。
…それもあたしのせいで。
あたしがなにかミスやトラブルを起こせば、ジュンが結果を被ることになる。
寡黙な日本人は勝手にそうしてしまう。
……あの時も、そうだった。
03
二年前。
あたしたちは、この田舎町の百倍は賑やかな街に、一ヵ月ほど留まっていた。
こんなことはそれまでも時々あった。
街に滞在中のジュンは、決まって、行き先も言わず毎日出かけ険しい顔で帰ってくる。
ある日突然、深夜や早朝に起こされ、慌ただしく街を出るまで、それは続く。
それが仕事のためだってことを、十三歳のあたしは既に悟っていた。
仕事が、ジョークの口調以外で人に話すのは憚られる種類のものだとも。
ジュンがあたしに何も教えなかったのは、余計な罪悪感を持たせないためだろう。
……なんにもわかっちゃいない。
傲慢な言い方かもしれないけど、そんなのどうでもいい。
人はだれでも、他者の命を食べて生きている。
あたしたちは人間の命を食べて生きているというだけだ。
神様なんか怖くない。
あたしが大切なのは、倫理観やモラルじゃない。
気づいてないふりをしていたのは、ジュンができるだけあたしに悟られまいとしていたからだ。
多分ジュンは、あたしよりは神を信じている。
…罪やモラルの重みも。
だから、街に滞在している間、あたしはそれを長い休暇だと割り切っていた。
することはたくさんある。
最初のうちはパパとママの死について調べてもみたが、地方新聞の縮小版でそれらしき、
“火事にて家屋全焼。一家全員三人とも焼死”
という記事を見つけたっきりなんの進展もなかった。
時期や場所から考えれば該当するんだけど、死体の数が合わない。
あたしは生きている。
記事には不審火らしいとの記述があるものの、後報はなく事件として取り扱われた様子もない。
署名記事だったので新聞社に問い合わせてみたが、記者は既に死んでいた。
手掛かりがなくなって、新しい方法を考えてるうちに、薄情なのか移り気なのか、あたしのほうの熱が冷めてしまった。
だから、その頃のあたしはもっぱら、年齢にふさわしい悪い遊びに勤しむことに専念していた。