act.002 名も知らぬ相手に
「なら、一度、会ってみるかい?」
突然の辻プロデューサーの言葉に一瞬呆気にとられてしまった。
「君が良ければ、スタジオに入ってもいいんだよ」
「え?い、いいんですか?まだ収録中なんじゃ…。それに、僕部外者だし…。」
「いや、構わないさ。それに、収録は今さっき終わったばかりだしね。私は君を見込んでいるから、誰も文句は言わないよ。」
「それに、今ならまだ彼も帰ってないだろうし。」
何だかんだで、僕は今、お隣のスタジオにおじゃましています。
そして、さっきまで録音していただろう男性の曲を聴かせてもらっています。
何だか歌詞は歯が浮くようなモノばかりだけど、曲にとても合った声質だからしっくりきている。
あぁ、やっぱりこうして聞いているとこの人の巧みさってのがよく分かるなぁ…。
「…思った通り。でも、ちょっと…残念。」
「ごめんね、朝倉くん。どうやら彼はもう帰ってしまったようだ。ラジオがあるっていうのでね、すまない。」
さっきよりも些か、元気がなくなったように僕に謝っている。
「いえ、そんな。謝らないで下さい。突然来た僕が悪いんですから。」
「いや、しかし誘ったのは私だ。彼が帰った後とは知らず、申し訳ない事をした。」
このスタジオは入り口が一つでも出口がそれだとは限らない場所だった。つまり裏口がたくさんあるわけだ。
「とんでもない。こうして声を聴かせてもらってるだけでも十分満足ですよ。」
そう言ってすこし笑ってみせると、辻プロデューサーも苦笑気味ながらも笑い返した。
むしろ、声の主に会えなかった事が残念なのではない。
僕が残念だったのは、この男性の声も女性の声も両方、同じ人だって事だ。
しかも、辻プロデューサーはさっきから“彼”って言っている…。てことは、あの綺麗な女性の声も男の人が出していた事になるよね…。
そうとは知らず、感動していた自分が恥ずかしい。
さすが、声を売りにしている声優だけあって女性の声もお手のものって事か…。
でも、それにしては表現がいやに女性っぽかったけどな…。いやいや、それも声優の凄さなのかもしれない。
けれど、男性であろう事を抜きにしても、この歌声はすごいよ。胸にくる。
彼なら、僕のあの曲イメージも上手く表現してもらえるかもしれない。
今、何度目かになるリピートを再スタートさせた所だった。
「いいな…。こんな人に歌ってもらいたかったな…。」
「相当、彼がお気に召したようだね。」
「え…?いや、その。今、僕が起用しているボーカルの人は何かイメージが合わなくて、この人なら上手く表現できそうだなって思っただけです。」
「…本当に珍しい。何か起こるんじゃないか。」
「え?何ですか?」
また、考え込む様子の辻プロデューサーを横に、僕はリピートを繰り返した。
「もし、君が良ければなんだが。さっきまで君のボーカルが歌っていた曲を、僕に預けてくれないかな。もちろん、歌詞付きでね。」
「…どういう事ですか?」
僕が少し怪訝そうな顔をしていた為だろうか。安心させるように、静かに頷いた仕草を見せた。
「3日後にここで、また収録があるんだ。歌のあるキャラ全員分の巻末のメッセージ収録がね。その時、彼も来る。そこで、彼に試しに君の曲を歌ってもらおうかと思ってね。どうだろう?…君が望めばの話だけどね。」
辻プロデューサーの突然の申し出にだだ僕は目を丸くしているだけだった。
「無理にとは言わない。君が自分の曲に並々ならぬこだわりを持っているのは知っているから。だけど、君の心に届いた声ならば、一度聞いてみたいと思わないか。自分の生み出した曲を。」
「………是非っ、お願いします!!」
頭の中がうまく回らなかったけれど、口から出てきた言葉に、辻プロデューサーは満足そうに頷いてくれた。
その後、僕は自分のスタジオに追われるように駆け戻った。急いで一枚のCD−ROMを機器から取り出すと、歌詞が書かれている紙を鷲掴みにして飛び出した。
「うわっ!?朝倉さん、何やってるんスか?」
スタジオの外に出ると、休憩から戻ってきたらしいボーカルの人が立っていた。
タバコの匂いが喉と鼻にまとわり付いた。
「急で悪いけど、もう今日は帰ってもいいから。」
「あ、いいんスか?じゃあ、お言葉に甘える事にします。んで、次はいつ来たらいいんスかね?」
タバコの匂いは離れない。どうやら相当、ふかしてきたようだ。まったく声を売りにしているわりには致命的だね、君は。
「次は……いいよ。もう、ないと思うから。」
「は!?ちょ、どーいう事っスか?!」
「どうやら、僕のイメージに合わないみたいだから君には降りてもらうよ。また、機会があれば声掛けさせてもらうから。じゃあね。」
息継ぎ早に、簡単に説明を終えて、Cスタジオに傾れ込む。
外で、“ちょ、朝倉さん!?どーいう事ですか!説明して下さいよ!!”なんて喚く声が聞こえるけれど、そんなのはどうでもいいんだ。
今はこの手の中にあるものを辻プロデューサーに届けなくちゃいけないから。
バタンと重い扉を背中で閉めて、自分以外に聞えないような小さな声で呟く。
「悪いけど…、もう僕にはあの声しか聞えないから。」
その後、辻プロデューサーにCD‐ROMと歌詞を渡して僕はスタジオを後にした。辻プロデューサーが彼の仕事先に届けてくれるそうだ。
外に出ると、風なんかちっとも役にたたないくらいの暑い陽射しが待っていた。肌に照りつけるあの光がヒリヒリと痛い。
まぶしいのはわかっているけど、僕は太陽を手をかざして仰ぎ見てみた。
辻プロデューサーによると、彼の名前は“陽野 潤”というらしい。たぶん、声優としての名前だろうけど。
「元気で明るい人でね。とてもいい子だよ。」
辻プロデューサー曰く、太陽のような人なんだそうだ。何だか僕とは正反対の性格みたいだな、と感じた。
CD‐ROMを渡して貰う時に、2つ条件を出させてもらった。
一つは曲のイメージを伝えないこと。好きに歌ってもらって僕の曲をどう感じて声にするのかを知りたかった。
そして、もう一つは…。
「え?君の名前を出さないでくれって…どういう事だい?」
「僕の名前を…。僕の曲を知らないであれを聞いた時、歌い手から見たらどう感じるのかなって…。それを知りたいんです。」
無理なお願いだったのだろうか、辻プロデューサーが難しい顔をして僕を見ている。けれど、すぐにいつもの表情に戻った。
「……。本当に珍しい事があるもんだね。君が歌い手の意見を聞きたいだなんて、きっと雨が振るんだよ。」
「嫌だな。そんなに変な事ですか?」
「………いや。(十分、大変な事なんだがな…。本人はいたって自覚なしか…。)」
辻プロデューサーの事だから、きっと僕の条件を守ってくれると思う。
太陽を見ていられなくなった僕は地下駐車場へ続く階段へ逃げ込んだ。
車のエンジンを着けてエアコンが回るのを待ちながら、3日後の事を考えていた。
一体、あの人は僕の曲をどう歌い上げるのだろう?
どんな声で歌うのだろう?
僕の曲をどう感じるのだろう?
期待と不安とすこしの焦燥感に胸が高鳴って仕方がない。
あぁ、早く。
早く時が過ぎればいいのに…。
早く会いたい、あの声の持ち主に。
僕は知らないうちに、まだ見ぬ声の持ち主に心を寄せていた。
この後、どうなるかはわからない。けれど今は胸が一杯で他の事が考えられなかった。
そう、その時はまだ…。
彼が彼女だなんて、想像もしなかったんだ。
“陽野 潤”が女の子だなんて…、僕が知る由もないんだ。
ホント、声優ってすごいんだなぁ…。
夏先の陽射しに煽られて、見えない歯車がゆっくりと回転を始めた。
僕はあの声の主にまだ出会ってすらいないけど。
⇒続く