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ふうちんろう

作者: starship7

 あれから、何年たっただろう。



20代半ばの頃だから、30年はたっていると思う。



横浜のとある駅で降りたとき、弘志は、ふと思い出して、ふうちんろうにいくことにした。



少し寒くなり始めた秋の夕暮れだった。



 ふうちんろう、懐かしい名前だ



 弘志が通っていた会社の営業所がこの駅の近くにあり、仲間たちは毎日集まっては、



会議をして、議論していたものだ。



若かったから、妥協なき議論だった。



それでも、ひとしきり議論しきった後、さ、飯食いに行くか、とふうちんろうへ



毎日のように行った。



仕事の後に営業所に集まってさんざん議論するので、みなほとんど飯も食って



いなかった。



だから、なおさら、ふうちんろうの飯はうまかった。



 ふうちんろうは、駅前の大通りの坂道を登ったところにあった。2間ほどの広さに



サッシ戸があって、ガラガラと開けて入る。



細長い四角だが、調理場をL字に囲むようにカウンター席があり、その周りにテーブル



席が2つ3つほどあった。



マンガや雑誌・新聞なども置いてあった。



ふうちんろうは、普通の小さな中華料理店だった。



少し違っていたのは、ふうちんろうの人たち、娘さんとお母さんの母娘が中国人



だったことである。



 弘志たちが行くのは、いつも10時か11時過ぎだった。



娘さんはたぶん20代前半だろうか、お母さんは年が離れていて60歳過ぎの



感じだった。



 ラーメンや餃子、チャーハンなどを頼んでビールを飲んだりした。



学生気分が抜けていなかったから弘志たちは、大きな声でまたもや議論していた。



母娘は少しぎこちない日本語で弘志とあいさつしたり、少し話したりした。



調理はもっぱらお母さんがやり、お客の相手や配膳、調理の手伝いは娘さんが



やっていた。



 娘さんは面長で、清純な感じの人だった。



きれいな可愛い声で、ぎこちなく話すようすは印象的だった。



お母さんの調理は美味しかった。



 とくに昔からの秘伝だというチャーハンは変わっていた。焼き豚をサイコロ状に



小さく切ってどんぶりに盛ったチャーハンに乗せるのである。



味は、とてもおいしかった。



 もうひとつは、鶏肉の醤油煮。刻みキャベツに鶏肉の醤油煮をスライスして並べる



のだが、どういうふうに作ったのか、極上の味がした。



ふうちんろうは70年続く店で、お祖父さんの代からこの味は秘伝として伝わって



いるそうである。前は横浜にあったそうだ。



お母さんの使う包丁は長方形のもので、木の柄が取れてしまったのか、鉄の柄が



細く伸びていた。



まな板というものはなく、丸い大きな木を横から切って、年輪がみえるものが調理台



に置かれていた。



お母さんは、大きなくりくりした目をしている人で、いつも調理をしながらこちらを



見たりするので、そのくりくりした目が印象的だった。



弘志はは時々1人で行くこともあった。



弘志は仲間とは違って、毎日責任者として営業所で仕事をしていたからである。



そのうち、母娘と親しく話すようになっていた。母娘は福建省の出身であること、



お父さんと一緒に来たが、お父さんは亡くなっていること。ふうちんろうは



おじいさんの代から続いており、秘伝の味はお父さんに継がれ、お母さんに継がれて



きたものだそうである。



お母さんたちは30年前に日本に来たそうである。娘さんは日本で生まれたらしい。



ある日、老酒の一升瓶をお母さんがくれた。



おいしい老酒だった。



娘さんの名は蓮花といった。



弘志は、蓮花に時々冗談を言って笑わせたりしていた。そのうちお互いに話すように



なり、蓮花は、弘志が注文していないものをこっそり出してくれたりした。



一度、2人で山下公園に行ったことがある。



平日で店は休み。弘志も休みを取って2人で遊ぼうということだった。



散歩したり食事をしたり、2人は楽しく過ごした。



夕暮れ近くなって、港が見えるが丘公園で座って話した。



「蓮花、今度もまた来ようね。ずっと一緒にいられるといいな。」



「うん、そうね。私も楽しかったわ。」



「蓮花は、どうするの。ずっと日本にいるの?」



「わたし、日本で生まれたから、ずっと日本にいるよ。それに、お母さんと一緒に、



ふうちんろうをやっていくのよ。」



「そっか。おじいちゃんの始めた店だし、亡くなったお父さんのためにも店は続け



なくっちゃね。」



「ほんとはね、男の人がいてほしいと思う。



店をやっていくのに女2人では心細いよ。」



そう言う蓮花の横顔は港の夕暮れの中に浮かんでいた。



その横顔は、今でも弘志の目に焼き付いている美しい蓮花だった。



弘志は、何も言えなかった。



店を一緒にやるなどということは考えられなかった。



弘志は、小さな店ではなく、もっと大きな目標をもっていた。店をやることはその



目標を捨てることだった。




店で会って冗談をいったり、時々一緒に出掛けたりしていた。



 そうして、1年ほどたったろうか、弘志は、転勤することになった。新潟支社へ行く



ように言われたのである。若くして支社長への抜擢だった。



新潟支社へ行ってから、蓮花とは会わなくなった。



弘志はふうちんろうのことを忘れたことはなかった。



でも、弘志は、まっすぐ進むしかなかった。自分の道を選んだつもりだった。



そして、時がたっていった。



 薄暗くなり始めた、坂道を上ると、弘志は、ふうちんろうの前に立っていた。



以前と変わらぬサッシの戸をガラガラと開けた。



「いらっしゃい」という声がして調理場の女の人がこちらを見た。



蓮花だった。



「あれ、ひろしさん?太田さん?」気が付くと蓮花は驚いた顔をしたが



すぐににっこりと笑った。



弘志は照れ臭さで、ただ、うなずいた。まだ早いのだろう、客のいない店に入り、



カウンターに座った。



「ひさしぶり。ちょっとそこに来たんで、寄ってみたんだ。」



店の中は昔と変わらない。全体にくすんだ感じがした。雑誌も新聞も同じ場所に



置かれていた。



蓮花の顔を見た。昔と変わらぬ蓮花がいた。少しやつれて、小じわも見えるが、



まぎれもなく蓮花の顔だった。



「元気そうだね」



「まあ、どうして、私年とったでしょ。恥ずかしいわ。」



「蓮花、変わらないよ。30年もたったら僕はもう年寄りだよ。」



「なんか、食べる?」



「じゃ、チャーハンとビールをそれに鶏肉の醤油煮をお願いするよ」



ビールを出すと、蓮花がチャーハンを作り出した。



調理台の丸いまな板も包丁も昔のままだ。



蓮花が調理台に立つのは初めて見る。



弘志は調理している蓮花にあれから自分がどんな暮らしをしていたのかを話した。



蓮花もお店を何とかやってきたことを話してくれた。



こうして話していると若かったころのことがつい昨日のことのように思われる。



お母さんはどうしたのだろうか。蓮花がずっと一緒に暮らしたいといっていた



お母さんが見えないのだ。






蓮花が包丁を持つということは、お母さんから秘伝の味は受け継がれたのだろうか



「変わっただろ」



「あれから、何年も経ってる。年はとったけど、面影は、そのまま。」



「蓮花は、前とかわんないよ。綺麗になったね。」



 昔のようにお互い笑った。



「なんで1度も連絡くれなかったの。わたし、困ったよ。」



「ごめん。いろんなことがあったんだ。そして年も取った。」




他の客はいっこうに現われない。



弘志には気になることがあるが聞き出せないでいた。



蓮花は結婚したのだろうか。



お母さんはどうしたのだろうか。



そのどちらも聞くことができなかった。



「お母さん、弘志さんが来たこと知ったら喜ぶよ。」と蓮花が言った。



そうか、お母さんは元気なんだな。弘志はようやく昔のお母さんの料理の作り方や



おいしかったことを話した。蓮花はカウンターの横の小さな戸口から中に入って



いった。



こんな入口は知らなかった。そういえばトイレの戸口のわきにあったなと思いだした。



そうか、入口の向こうには、2階への通路があって、彼女たちの住まいになっている



はずだ。



弘志はこの部屋には入ったことがなかった。



しばらくして、蓮花が戸を開けた。





そこにはお母さんがいた。



車いすに乗ったお母さんは襟巻のようなショールをまいてじっとしていた。



蓮花が「弘志さんよ。弘志さん、来てくれたのよ。」と車椅子の横でお母さんの



耳のそばでいった。



少し中空を見るようだったが、弘志を見て、目を少し輝かせた。そしてにっこり



笑った。



たぶん90歳くらいになるお母さんは、蓮花と一緒にこの2階に住んでいるのだ。



どうやって2階から降りて車いすに乗ったのかはわからないが、車椅子に座って



あまり動かなかった。お母さんは、もう調理はできないのだろう。蓮花が後を



引き継いだのだ。



自分のために降りてきてくれたと思い、弘志は「しばらくぶりです。おかあさん」



といって立ち上がってあいさつした。



お母さんは何度もうなずいていた。



しばらくして、蓮花がお母さんを連れて2階に上がっていった。



弘志は、このふうちんろうにあれからずっと暮らしている蓮花のことを思った。



蓮花はお母さんと一緒にくらし、お母さんの面倒を見て、きっと、結婚もしていない



のだろう。



 ふうちんろうの秘伝の味を受け継ぎ、今では90年続くふうちんろうを1人で



守ってきたのだ。



そういう人生、これまでは考えたこともなかった。でも、蓮花がいなければ、



この店も秘伝の味も守られることはなかったろう。娘に見守られてお母さんが



暮らしていくこともできなかったろう。



だから、蓮花の道は必要で絶対に変えられない道だったのだ。小さな店を守り、



家族を守り、味を守る、かけがえない大切な道だったのだ。



弘志は自分のこれまでのことをふり返っていた。



大きなこと、小さな店ではなく、この会社をどうしたらいいか、新しいビジネスモデル



を作るにはどうしたらいいかなど考えてきた。



営業所に詰めて、仲間たちと毎日毎日そういうことを議論してきた。



 結論から言うと、まだ何も変わってはいない。



人々の動きは遅々として進まず、年をとっただけで、なにも変えることも作ることも



できなかったと弘志は思う。



あのとき蓮花と一緒に進めばよかったのだろうか。それも1つの道だったろう。



でも、こうして、長いときを経て、再会するのも自分たちの道を歩いた結果なのだ。



お互い会うことはないかも知れないけれど蓮花の生き方は立派な生き方だと思った。



蓮花の料理を食べた後、



「おいしかった。また来るね」と弘志は言った。



「うん。お願いね」。



蓮花が答えた。



弘志は、もう来ないかもと思って、戸口をガラリと開けて、一度振り向いた。



「じゃ」



といって弘志は出て行った。




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