子供心を忘れた僕たちへ
朝、目覚ましが鳴る前に目が覚める。それが当たり前になったのは、いつからだったろう。
佐伯悠人は天井を見上げたまま、今日が何曜日だったかを思い出そうとして、すぐにどうでもよくなった。月曜も金曜も、彼にとってはもう、同じ灰色をしていた。
顔を洗い、コーヒーも飲まずに家を出る。満員電車に揺られ、窓に映った自分の顔を、一瞬、誰だかわからなかった。無表情で、目だけが妙に疲れている男。ああ、自分か、と思う。
会社では、上司に頭を下げ、数字を追い、無理な締め切りに追われる。残業して、終電に近い電車で帰り、倒れるように眠る。休日は、ただ疲れを取るためだけに眠っていた。
昔は、好きなものがたくさんあった。夜更かしして遊んだゲーム。ノートの隅に描いた落書き。友達と、くだらないことで腹を抱えて笑った放課後。——それらを、いつの間にか、しなくなっていた。
夢がなかったわけじゃない。ただ、夢を語るには、少し年を取りすぎた気がしていた。
そんな日々の合間に、母から連絡が来た。「あんたの荷物、押し入れにまだ残ってるよ。そろそろ片付けてちょうだい」。
久しぶりに帰った実家は、なぜだか、思っていたよりずっと小さく見えた。出迎えた母の背中も、少しだけ丸くなった気がした。時間は、自分の知らないところで、ちゃんと流れていた。
子供部屋だった押し入れの奥、段ボールの底から、古いお菓子の缶が出てきた。錆びた蓋を、力を込めて開ける。
中には、子供のころの宝物が詰まっていた。色の褪せたビー玉が数個。走らなくなったラジコン。クレヨンで描いた、よれよれの「ひみつきち」の地図。そして——茶色く変色した、一通の封筒。
表には、いびつな鉛筆の字で、こう書かれていた。
子供心をわすれた僕たちへ
畳の上に座り込んだまま、悠人はしばらく動けなかった。
それは、小学生だった自分が、いつか大人になる自分に宛てて書いた手紙だった。
便箋を開くと、まっすぐとは言えない字で、昔の自分が本気で信じていた夢が並んでいた。
大人になったら、世界中をたびする
空をとぶきかいを作る
ひみつきちを、本物の家にする
すきなことだけは、ぜったいにやめない
思わず、笑ってしまった。世界中を旅する? 空を飛ぶ機械? そんなもの、現実には無理に決まっている。三十を過ぎた今の自分には、夢を笑い飛ばすだけの分別が、ちゃんと身についていた。
でも、手紙の最後の一文で、笑いが止まった。
もし今の僕が、つまらなそうに生きていたら。
まずは一日だけでいいから、子供のころの約束を、守ってください。
胸の奥が、ことりと音を立てた。
この手紙を書いたとき、あの子はきっと、信じていたのだ。いつかこれを開く大人の自分が、ちゃんとそこにいてくれることを。そして、約束を、覚えていてくれることを。
なのに、その「大人の自分」は、夢の中身すら忘れて、灰色の毎日をやり過ごしていた。
襖の向こうから、母が、何も言わずにお茶を置いていった。子供のころと、同じ湯呑みだった。
——一日だけでいいから。
その夜、終電を逃した帰り道。悠人は、商店街の外れにある駄菓子屋の前で、足を止めた。子供のころ、十円玉を握りしめて通った店だ。まだ、あった。
引き戸を開けると、おばあさんが「いらっしゃい」と顔を上げた。スーツ姿の大人が一人、ラムネを買っていく。瓶を傾けると、舌の上で、忘れていた味がはじけた。甘くて、少しだけ、泣きたくなる味だった。
夜中、眠れずに近所の公園へ行き、誰もいないブランコに座った。スーツのまま、地面を蹴って漕ぐ。錆びた鎖がきしむ音。冷たい夜風。馬鹿みたいだ、と思いながら、気づけば少しだけ、笑っていた。
スマホの連絡先を、ずっと下までさかのぼる。小学校の同級生だった、健太の名前が出てきた。もう十年は連絡を取っていない。それでも、指が勝手にメッセージを打っていた。「久しぶり。俺のこと、覚えてるかな」。
返事は、驚くほど早く来た。「悠人じゃん! どうしたんだよ急に(笑)」。少し間を置いて、もう一通。「……実はさ、俺も最近、ちょっと疲れててさ。連絡くれて、嬉しかったよ」。
やめていたスケッチブックを引っ張り出して、久しぶりに鉛筆を握った。最初の一本の線は、情けないくらい下手くそだった。それでも、描いている間だけは、時間を忘れていた。
そして、ある週末。悠人は健太を誘って、子供のころの地図を頼りに、かつての秘密基地を探しに出かけた。
「大きな木」「赤い屋根の家」「三つに分かれた道」。クレヨンの目印をたどって、二人で記憶の中の道を歩く。久しぶりに会った健太は、すっかり大人の顔になっていたけれど、笑い方だけは、あのころのままだった。
ようやくたどり着いた河川敷は、すっかり様変わりしていた。秘密基地にしていた大きな土管は撤去され、きれいに整備された遊歩道になっていた。当然だ、と思う。二十年も経てば、世界は変わる。
「なくなっちゃったな」健太が、ぽつりと言った。
「だな」と悠人も、笑おうとして、うまく笑えなかった。
それでも——二人の目は、自然と、同じ場所に吸い寄せられていた。遊歩道の隅。一本だけ、切られずに残された、大きな木。地図に「大きな木」と描かれた、あの木だ。子供のころよりずっと太く、ずっと高くなって、まだそこに立っていた。
「……俺たちさ、あの木の下に、缶を埋めなかったか」
健太の声が、少し震えていた。
二人は、夢中で根元の土を掘った。スーツも靴も泥だらけになるのも構わず、子供みたいに、素手で掘った。
やがて、指先が、固いものに触れた。
土の中から出てきたのは、錆びついた、小さなお菓子の缶だった。家で見つけたのと、同じ種類の缶。二十年ものあいだ、ずっとそこで、誰かが来るのを待っていた缶。
震える手で、蓋を開ける。中には、ビー玉が数個と、二つに折られた、小さな紙きれ。
開くと、二人ぶんの、たどたどしい字で、こう書いてあった。
大人になったら、また ここで あおう。
その瞬間、悠人は、声が出せなくなった。
——僕たちは、この約束を、覚えてすらいなかった。
それなのに。二十年も経って、すっかり疲れた大人になって、それでも今、ちゃんとここにいる。二人とも。あの日の約束を、忘れていたのに、果たしていた。
視界が、じわりと滲んだ。こらえようとしても、だめだった。健太は、そっと空を見上げて、悠人に時間をくれた。その横顔の目も、赤くなっていた。
川の流れる音は、あのころと、まったく同じだった。
——そのとき、悠人は気づいた。
子供心とは、子供のままでいることじゃない。
世界中を旅できなくても。空を飛ぶ機械を作れなくても。つまらない現実の中で、それでもまだ、何かを面白がろうとする力。誰かと、くだらないことで本気で笑える心。それを、子供心と呼ぶのだ。
あの子は、ずっと待っていてくれた。家の押し入れでも、この木の下でも。僕が戻ってくるのを、信じて。
悠人は、会社を辞めなかった。人生が、劇的に変わったわけでもない。満員電車は相変わらず混んでいたし、上司は相変わらず無茶を言う。
変わったのは、悠人自身だった。
仕事のためだけに生きるのを、やめた。一日の終わりに、自分のためのほんの少しの時間を、取り戻した。大事だったのは、会社を辞めるかどうかじゃない。人生の主導権を、もう一度、自分の手に握り直すことだった。
ある夜、悠人は新しい便箋を取り出して、ペンを握った。宛先は、あの手紙をくれた、小学生の自分。
書き出しは、迷わなかった。
子供心を忘れた僕たちへ。
ペンを持つ手が、少しだけ震えた。
そして、書き出しの一行を見つめたまま、悠人は、ふと思った。
あの子はどうして、自分ひとりのことなのに、「僕たち」と書いたのだろう。ずっと、不思議だったのだ。
——でも、今なら、わかる。
あの子は、知っていたのだ。いつか自分が大人になって、夢を忘れ、笑い方を忘れ、灰色の毎日にすり減っていく日が来ることを。それでも、あの子は——その情けない大人を、置き去りにしなかった。
「子供心を忘れた、僕たち」。その「僕たち」のなかには、夢をなくした未来の自分も、はじめからちゃんと、入れてくれていた。
——君も、僕だよ。忘れたって、いいんだ。だいじょうぶ。ずっと、待ってるから。
そう言って、あの子は二十年ものあいだ、誰もいない押し入れの奥で、待っていてくれた。
あれは、責める言葉なんかじゃなかった。
忘れてしまう僕を、あらかじめ、まるごと、許してくれていた言葉だったのだ。
目の奥が、どうしようもなく、熱くなった。
悠人は、ペンを進めた。
大丈夫。
少し遅くなったけど、僕はもう一度、人生を遊び始めます。
忘れていた僕を、見捨てないでいてくれて——ずっと、待っていてくれて、ありがとう。
書き終えた便箋を、そっと折りたたむ。あの古いお菓子の缶に、しまおうと思った。ビー玉と、よれよれの地図と、あの子の手紙の、すぐとなりに。
ペンを置いて、窓の外を見る。夜が、明けようとしていた。空が、ゆっくりと、白んでいく。
机の上の手紙に、もう一度、目を落とす。
そこに並んだ言葉は、もう、さっきまでの寂しい響きを、していなかった。
『子供心を忘れた僕たちへ』
——それは今、二十年の時をこえてようやく再会した、僕と僕とをつなぐ、たったひとつの合言葉になっていた。子供のころ、秘密基地の入り口で決めた、あの合言葉のように。
これからまた、灰色の毎日に飲み込まれそうになったら、何度でも、この言葉を思い出せばいい。そのたびにきっと、あの子が、そっと僕の手をとってくれる。
今日が何曜日か。
それが、ずいぶん久しぶりに、どうでもよくなかった。
さあ、もう一度、遊ぼう。
僕たちの、人生を。




