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「この馬鹿者!」
ヴァルシエ子爵家屋敷の一室に、当主モリスのだみ声が轟いた。
部屋の中にはモリスと、ポールの兄であるグレインが、腕組みをしてポールを睨んでいる。つい先ほど彼が婚約破棄したことを伝えたところだった。
父親のあまりの剣幕に、ポールは一瞬躊躇したが、直ぐに肩をすくめて見せた。
「父さん、そんなに怒ることはないだろう」
その呑気な物言いが更にモリス子爵の怒りを増幅させた。彼の額は青筋立ち、今にも血管が切れそうだ。
「そんなに怒ることはないだろうだと貴様! ワシがどんな思いでロッセリーニ伯爵家との縁談を繋いだと思っているのだ、この大馬鹿者! あの家は宰相派の重鎮だ。それを敵に回すことがどれだけ恐ろしいことか分かっているのか!」
モリス子爵の怒声は屋敷の壁にひびが入るのではないかと思うほどだった。
「ポール、我が子爵家がこの縁談のため、伯爵家にベリーヒルの地を割譲したことは知っているだろう」
ポールの兄、グレインは父と違い諭すような静かな口調だった。
ベリーヒルは、これといって特徴の無い農耕地だ。しかし領地がそれほど広くない子爵家にとって、それを手放すことは血を流すに等しい代償だった。
「ああ。だけどもう婚約を破棄したんだから関係ないだろう?」
「無いわけがあるか。婚約破棄したのはこちら側だ。これから保障のことは色々と話し合わなければならないが、ベリーヒルは賠償金代わりになって、二度と帰ってこないかも知れないのだぞ」
グレインは尚も理性的に喋ろうと努めていた。彼はお世辞にも美男子とは言えない。顔はそばかすだらけで背も低い。そして頭髪は父親の意志を継承しているかのように薄くなりかけている。ポールのように王立学園を出ているわけでもなかった。
「それに子爵家が犠牲にしたのは領地だけではない」
ロッセリーニ伯爵家は国内きっての宰相派である。
宰相は、現代的に言えば、緊縮財政を推し進める人物だった。緊縮財政とは、国の赤字を減らすために支出を削ったり、時に増税も行う財政運営のことだが、これにより宮廷舞踏会の減少など、貴族への影響も少なくなく、彼に反感を持つ貴族も多かった。
一方の子爵家はこれまで表立って賛成も反対もせず、中立の位置を保ってきた。モリス子爵はその顔に似合わず鋭いバランス感覚の持ち主だったのだ。
しかし、ポールを婿入りさせるため、子爵家は長年の中立を打ち破って宰相派に与することになった。
これは即ち、それまで交流のあった反宰相派との関係を断つに等しい行為だ。婚約破棄となって、再び中立に戻ったとしても、一度断った関係を修復するのはかなり難しい。
しかも婚約破棄した今となっては宰相派からも白い目で見られることとなり、宰相派からも、反宰相派からも敬遠されている状態だ。
子爵家は今までにない貴族社界での難しい綱渡りをしなければならなくなっていた。
「それほどの犠牲を払ってでも、我々子爵家が伯爵家と縁を結ぼうとした理由、分かっているだろう?」
「領内に海賊が出るから、軍を派遣してもらいたかったんだろう?」
「分かっているなら何故……」
グレインは頭を抱えた。子爵家は広く海に面した領地を有する。島が点在し、景観は非常に美しいのだが、その島々には海賊が住み着いている。
海賊どもは度々商船や港を襲って金品を奪っていく。国も兵力を割いて海賊討伐に当たってくれているが、現状足りていない。
辺境地のことであるし、国が派遣出来る兵力にも限りがある。
主要な港の防備は整ったが、地方の村々や、海上での海賊対策は依然として不十分だ。子爵家の私兵では到底数が足りない。
しかしロッセリーニ伯爵家は強力な騎士団を抱えており、中には一騎当千と言われるような騎士も複数人居る。
子供同士を結婚させ、両家の繋がりを強くすればお願いもしやすくなる。
もし騎士団を派遣してもらえれば、あるいは宰相との太いパイプを持つ伯爵に、国軍の派兵を強く要求してもらえれば、長年頭を悩ませてきた海賊問題を解決出来るかも知れない。
そういう思惑がモリス子爵にはあった。
だからこそ、多大な犠牲を払ってまでこの縁談を進めていたのだ。それほどの価値があるものだった。それを今日、一気に失った。
「心配いらないさ」
ポールは憂慮するグレインまで笑い飛ばすような、明るい声で言った。
「僕は将来王族の仲間入りを果たす男だ。そうすれば幾らだって、この地の防備を固めるよう軍を派遣して……」
ポールの言葉が途切れた。
グレインが思いきり殴り飛ばしたからだ。
フック気味に放たれた拳は、ちょうどポールの顎を捕え、脳をしこたま揺さぶった。ポールの意識は一瞬空のかなたに消し飛び、がくんと尻餅をついてしまう。
彼の意識が再び戻ってくるには暫くの時間を要した。
目をぱちくりさせ、ようやく自分が殴られたのだと気付く。
「……な、何するんだよ兄さん!」
グレインは尚も、ポールの胸倉をつかんで立たせ、至近距離で睨みつける。
「お前の下らん幻想なぞ聞きたくもないわ! 子爵家の名誉を汚したのこの大馬鹿者め、今すぐ屋敷を出て行け!」
今まで聞いたことのない兄の怒声にポールは怯んだ。これまで一度も兄に怒られたことなど無い。全く似ていない二人だが、意外にも兄弟仲は良好だった。
「何だよ……偉そうに説教垂れやがって」
ポールは、自分の胸倉を掴んでいる兄の手を掴み返す。
「兄さんは良いよなぁ。僕より先に生まれただけで爵位もあって、商売のセンスが無くてもビジネスを任せて貰えて! ああ、長子相続制って本当に素晴らしいね!」
ポールは子供の頃から自信家だった。次男に生まれた身ではあるが、この家を継ぐのは自分だと信じて疑わなかった。
しかし父親が後継者に指名したのは兄のグレインだった。
ポールは納得がいかず、何度も父親に抗議した。しかしモリス子爵は「グレインの方が相応しい」の一点張りで、頑として譲らなかった。
これがポールに強いコンプレックスを植え付ける原因となる。
彼の野望は日に日に膨らんでいった。「いつかこの子爵家よりも、ずっとずっと金持ちで、家格も高く、そして広大な領地を持つ家の領主になって、父も兄も見返してやる」と。
それがアマリアを裏切るきっかけになっていた。彼の心は伯爵家でも満足できず、更に上を、上をと目指し続けていたのだ。
ポールは自分の胸倉を掴んでいた兄の手を強引に振りほどくと、指を突きつけた。
「言われなくたって出て行ってやるよ! 僕が将来偉くなって吠え面かいても知らないからな! 困っていても助けてやらないぞ!」
「ポール……今のままでは、将来後悔するのはお前の方だぞ」
弟に手を上げてしまい、急に冷静になったのか、グレインの声は静かだった。
「うるさいハゲ! じゃあね、こんな家二度と帰ってこないからな!」
ポールは大きな足音を立てながらドアのところまで歩いていくと、これまた凄まじい音を立ててドアを開閉して出て行った。
グレインはポールに向って手を伸ばしたまま、じっと扉の方を見ていた。
「グレイン」
モリス子爵が呼びかけてもグレインは静止したままだった。唇を噛み締め、一点を凝視している。
「おい、グレイン」
しかし反応は無い。兄弟の仲の良さはモリス子爵もよく知っている。特にグレインはポールを「自慢の弟だ」といつも周りに自慢していた。今回の裏切りはきっと堪えたに違いない。
「父上、あいつ……」
ゆっくりとグレインがモリス子爵の方に向き直った。
「諦めろ。これも運命なのだ」
グレインは一度、うつむいた後、顔を上げた。モリス子爵は息をのむ。息子の顔は、あまりにも絶望に満ちていた。
グレインは、震える唇で、消え入りそうな声で、言った。
「あいつ、俺のこと、ハゲって……」
モリス子爵はゆっくり息子に近付き、肩に優しく手を置いた。
「諦めろ。これも運命なのだ」
計らずしも同じ言葉を繰り返すこととなったモリス子爵の頭部は、綺麗に禿げ上がっていた。




