第6章 冷たい夜 溶ける心
二年目の冬合宿
俺は、冬合宿のバスに乗る前、
ふと一年目の冬がよみがえった。
(去年の冬合宿)
――雪が降る合宿所の廊下。
部屋は4人部屋なのに、会話はゼロ。
角石と高橋は俺を空気のように扱い、
同級生たちは声もかけてこない。
練習はひたすら球拾いと雑用。
監督にも名前を覚えられていない。
夜、布団の中で息を殺しながら天井を見ていた。
(俺…この先、どうなるんだろう。)
(この強豪校に来たの、間違いだったのかな…)
そんな“絶望だけの冬”だった。
⸻
バスの座席に座ると、
横に岡谷が当然のように腰を下ろす。
岡谷
「先輩、今日からよろしくお願いします。
冬合宿って、練習量すごいんですよね…?」
俺
「まあな。でも大丈夫だ、俺らなら乗り越えられる」
岡谷は安心したように微笑んだ。
――それだけで胸の奥の何かが温かくなる。
⸻
冬合宿 初日 夜ー部屋
布団が六つ並ぶ部屋は、
いつの間にか“溜まり場”みたいになっていた。
床には持ち込んだお菓子の袋。
紙コップに注がれたジュース。
トランプとカードゲームが無造作に広げられている。
俺は、
最初からその輪の中にいた。
それだけで――
去年とは、まるで別の世界だった。
2年A
「田中、またカップ麺食ってねぇ?」
2年B(田中)
「二個目! 夕飯だけじゃ足りん!」
2年C
「胃袋どうなってんだよ……」
2年D
「蒼陵は規則ゆるくて助かるよなー。
夜食オッケーだし。」
2年C
「それな。
……でも女子マネ禁止は、さすがに悲しい。」
2年D
「分かる。
青春の半分くらい損してる気する。」
2年A
「彼女欲しー……」
一斉にうなずく。
2年C
「田中は?」
2年B(田中)
「俺は野球と結婚してるから。」
2年D
「嘘つけ、去年三回振られてたろ。」
笑いが起きる。
俺は、その空気の中で、
ただ笑っていた。
(……こんな夜、去年はなかったな。)
2年D
「そういやさ、佐伯。」
俺
「ん?」
2年D
「蒼陵って髪型自由じゃん?
なんでずっと坊主なんだ?」
俺
「え? なんでって……」
少し考える。
俺
「ガキの頃からずっと坊主だったし。
捕手だしな。」
2年A
「あー、捕手は夏キツいよな。」
俺
「マジで地獄。
マスク被るし、汗やばい。」
2年B
「でも坊主似合ってるからいいじゃん。」
2年C
「それな。
坊主で捕手って、なんか“できる感”ある。」
俺
「そうか?」
2年D
「でさ、佐伯って、
なんでずっと捕手なん?」
少しだけ、間が空く。
俺
「……最初はな、成り行きだったんだけど‥‥
やってみるうち、ピッチャーの球、
受けるのが楽しくて。」
2年A
「へぇ。」
俺
「投手の癖とか、
その日の調子とか分かってくるとさ、
“今の一球、いい”って瞬間があって。」
俺
「それが、たまらなくて。」
2年B
「やっぱ佐伯の分析力すごいもんな。」
2年C
「確かにー。
佐伯、頭いいもんな。」
俺
「いや、そんなことねぇけど。」
照れ隠しに、ジュースを飲む。
2年A
「そういや、新入生の挨拶の時さ。」
俺
「ん?」
2年A
「佐伯、
『希望は捕手です』って言ったじゃん。」
俺
「……え?」
2年A
「あれ、普通にカッコいいなって思ってた。」
俺
「マジで?」
2年A
「マジ。
あの空気で言えるか?って思ったもん。」
2年B
「そうそう。
みんな角石と高橋のバッテリー見て、
完全に圧倒されてたし。」
2年C
「あの二人、入学前から有名だったからな。」
2年B
「同期の中でもさ、
最初は投手とか捕手希望だったやつ、
結構いたのに。」
2年D
「結局、野手転向したよな。」
2年A
「『どうせ無理だし』って。」
部屋の空気が、
一瞬だけ静かになる。
少し間が空く。
2年C
「……てかさ。」
2年C
「正直に言うとさ。」
俺
「?」
2年C
「角石、
佐伯のことめっちゃ睨んでたし。」
俺
「……は?」
2年D
「そうそう。
なぜか佐伯にだけ、当たりキツかったよな。」
2年A
「それでさ、
『あ、佐伯に話しかけたらヤバい空気?』
みたいになって。」
2年B
「……正直、悪かったって思ってる。」
部屋の空気が、
少しだけ静まる。
2年B
「本当はさ。
俺、佐伯に声かけたかったんだよ。」
俺
「……」
2年B
「でも、角石の目がさ……。」
2年C
「完全に『近づくな』って感じで。」
2年D
「空気読んだ結果、
誰も声かけなくなった。」
2年A
「今思うと、最悪だよな。」
俺
「……そうだったのか。」
去年の冬が、
少しずつ別の色に塗り替えられていく。
2年B
「ごめん。」
2年C
「ごめん、佐伯。」
2年D
「本当は、もっと早く仲良くなりたかった。」
俺
「……いや。」
少しだけ、息を吸う。
俺
「でも……今こうして話してるし。」
2年A
「佐伯‥‥‥」
2年E
「佐伯って、めっちゃいいヤツだな‥‥ごめん」
2年D
「……これから取り返そうぜ。」
俺
「おう。」
短く答える。
胸の奥で、
ずっと凍っていた何かが、
ゆっくり溶けていくのが分かった。
あの冬の孤独は、
俺が嫌われていたわけじゃなかった。
ただ――
誰も、踏み出せなかっただけだった。
冷たい夜の中で、
ようやく心が、ほどけた気がした。
⸻
冬合宿ニ日目
午後のグラウンド。
でも、吐く息が白い。
佐々木
「午後は投手陣、ブルペン中心だぞ!」
そこで、佐々木コーチがわざわざ呼ぶ。
「佐伯、岡谷と組め!」
去年だったらありえなかった指名。
2年レギュラー陣も自然に話しかけてくる。
2年A
「この前の秋大会すごかったな」
2年B
「またバッテリー見せてくれよ」
俺
「おぅ!」
胸がじんわり熱くなる。
⸻
ミットを構えると、岡谷は少し緊張していた。
俺
「硬くなるな。寒いし肩回していいぞ。」
岡谷
「すみません…こうやって先輩が気づいてくれるの、
本当に助かります」
最初はストレート。
秋大会のときより明らかに球が重くなっている。
俺
(すげぇ…秋より全然伸びてるじゃん!)
そして――フォーク。
沈む球を俺はひざで止める。
連続でワンバンしても、全部止めた。
佐々木
「やっぱりお前ら相性いいな…」
監督も黙ってメモをとっていた。
岡谷は俺のほうを見て、嬉しそうに笑う。
岡谷
「僕、先輩とだと安心して投げられるんです。
先輩が受けてくれると、怖さが消える。」
俺
「お前の球なら、全部止めてやるよ」
その言葉に、岡谷は耳まで赤くした。
⸻
二日目の夜
練習が終わり、夕食をすませ、
部屋に戻ろうとしたとき。
岡谷
「あの…先輩。少しだけ話してもいいですか?」
外は雪が降っていた。
合宿所の外階段の屋根の下、二人並んで座る。
俺
「どうした?調子悪かったか?」
岡谷はしばらく黙って――
覚悟を決めたように話し始めた。
岡谷
「…先輩、僕ずっと気になってたんです。
先輩、一年の時、
ずっと一人だったって聞きました。」
俺の心が一瞬ひきつる。
岡谷
「先輩みたいな人が、なんであんなふうに…
誰にも声をかけられずにいるんだろうって…」
俺はゆっくり話した。
・一年で孤立したこと
・角石や高橋バッテリーの圧
・寮で誰にも声をかけられなかったこと
・親に「楽しい」と嘘をついて泣いた夜
・辞めようかと思った瞬間が何度もあったこと
静かに話すと、岡谷は拳を握りしめていた。
岡谷
「そんな…そんな大変なことを…
どうして誰も助けなかったんですか…
どうして…」
声が震えている。
俺
「でも、今は違う。お前がいるからな」
岡谷は涙をこらえながら言う。
岡谷
「ぼく…悔しいです。
先輩みたいに優しくて、努力してて、
チームのために動ける捕手が、
そんな扱いされてたなんて…
周り、見る目がなさすぎです。」
そして、深く頭を下げた。
岡谷
「僕を投手として見てくれて、
投げさせてくれて、
本当にありがとうございます。」
俺
「……こっちこそ、ありがとう。
岡谷のおかげで、今年の冬は全然寂しくない。」
雪の中、二人の息が白く溶け合う。
⸻
冬合宿三日目
俺と岡谷は、
夜の素振りも、朝のランニングも一緒。
学年を越えて、自然と並んで歩くようになった。
2年E
「お前ら、仲良すぎだろ」
2年D
「もう相棒って感じだな」
岡谷は照れながら、
「僕は先輩の捕手が一番安心するんです…」
と小声で言う。
俺
「じゃあ春も夏も、俺が受け続けるよ」
岡谷の顔がふわっと明るくなる。
岡谷
「はい……!絶対一緒に出ましょうね」
一年の冬とはまったく違う――
“仲間がいて、必要とされる冬”。
そしてこれが、
俺と岡谷の絆が決定的に深まった冬合宿となる。
⸻
三日目の夜
冬の夜のグラウンドは、
息が白くなるほど冷え込んでいた。
照明塔の灯りだけが、
静まり返った球場を照らしている。
その真ん中で——
角石はひたすら投げ続けていた。
「……っ、もう一球……!」
キャッチャーミットに届いたのは、
ワンバウンドするフォーク。
逆方向へ流れすぎたチェンジアップ。
シュートは抜け球になり、右打者の頭上をかすめた。
高橋はそのたびに胸がザワッとする。
(……剛志、全然制球できてない……)
角石は唇を噛んで、息を荒らしている
「っ……!」
右肩に鋭い痛みが走り、
ボールは大きく外れ、地面に転がった。
高橋
「剛志……? 今の……」
角石
「……なんでもねぇ。ちょっと力んだだけだ」
笑ってみせるが、顔はひきつっている。
その違和感を、高橋は見逃さなかった。
高橋
(……絶対、痛めてる。
さっきから腕の振りおかしい?)
そこへ、後ろから佐々木コーチが近づいてきた。
佐々木
「角石、肩貸してみろ」
角石
「っ……いや、平気です」
コーチは目を細め、その腕を軽く持ち上げる。
その瞬間——
角石
「っ……! く……そ……!」
声が漏れた。
佐々木
「……痛ぇんじゃねぇか」
角石は唇をかみ、黙り込む。
佐々木
「お前、いつからだ」
角石
「……さっきの数球だけっす」
高橋が即座に食い下がる。
高橋
「嘘だ。もっと前からだろ。
肘も肩も、さっきから角度、全然違った」
角石は視線を落とす。
角石
「……今日の昼くらいから……ちょっと……」
佐々木
「“ちょっと”で済まねぇから言ってんだよ。
角石、お前……壊れるぞ。本当に。」
角石の拳が震える。
ばれた。
隠しきれなかった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
佐々木
「角石。
残りの三日間——投げ込み禁止だ」
角石は一瞬、耳を疑った。
角石
「……は? ちょ、ちょっと待ってください……!
三日って……そんな……!」
佐々木
「命令だ。
肩が治るまで、投げさせねぇ。分かったな。」
角石
「……ふざけんなよ……
俺は……俺はまだ……!」
悔しさで声が震える。
三日間の投げ込み禁止
一方
岡谷バッテリーは合宿中、順調にメニューをこなし、
伸びてきている。
焦りがあった。
今の角石を支えているのは、
“絶対的エースの地位を守る”という
強烈な願いだけだった。
それを三日間奪われる怖さに、
膝ががくりと落ちる。
角石
「……なんで……
なんで俺ばっか……できねぇんだよ……っ……!」
肩を掴んだ高橋は、ぎゅっと力を込めた。
高橋
「剛志……!」
角石
「智也……俺……悔しいんだよ……
努力してんのに……何も……結果が……」
涙がボロボロ落ちてくる。
角石が人前で泣くなんて、ほとんどなかった。
それが余計に痛々しい。
高橋
(……本当は伝えたいよ……
“エースじゃなくてもいい”って……
でも‥‥ 今のお前には、
一番言っちゃいけない気がするから……)
角石は歯を食いしばり、
拳を握りしめたまま泣き続けた。
佐々木コーチは背を向けながら、
静かに言葉を残した。
佐々木
「泣け、角石。
悔しい時に泣けるやつが、強くなるんだよ」
その言葉に、角石はさらに嗚咽をこらえきれなくなる。
冬の夜のグラウンドに、
角石の悔し涙が静かに落ちていった。
合宿最終日の夜。
打ち上げを兼ねた夕食で、
食堂には珍しく、甘い肉の匂いが立ちこめていた。
鉄板の上で焼ける音。
紙皿に盛られるカルビ。
いつもより少しだけ騒がしい空気。
焼肉だった。
佐々木
「よーし!
最終日だから特別だぞー!」
佐々木
「肉はな、最初に焼きすぎると硬くなる。
じっくりだ、じっくり。」
2年A
「出た、焼肉番長。」
2年C
「コーチ、まだ焼いてないのに語るんすか。」
佐々木
「これは哲学だ。
焼肉は人生と一緒だ。」
2年D
「深いようで、全然深くない。」
笑いが起きる。
俺は、
いつの間にかレギュラーメンバーの輪の中にいた。
後輩も、
自然とこっちに集まってくる。
1年
「佐伯先輩、これどうぞ。」
俺
「お、サンキュ。」
2年D
「佐伯、おつかれ!」
俺
「おつかれ。」
2年D
「今日の2塁送球、めっちゃ良かったよ。
刺さると思った。」
俺
「そんなことねぇよ。
まだまだだ。」
2年B
「いや、あれはガチで良かった。」
2年A
「正捕手って感じだったな。」
少し照れくさくて、
肉をひっくり返すフリをする。
俺
(……去年の俺が見たら、信じないだろうな。)
笑いが絶えない食堂
2年B
「そういやさ。」
2年B
「角石と高橋、いなくね?」
俺
「あ……そういえば。」
2年G
「角石はさ、
『いらない』って言って部屋に引きこもってる。」
2年C
「マジで?」
2年G
「高橋も、ちょっとだけ食って、
『先に戻る』って部屋帰ってた。」
空気が、
ほんの一瞬だけ重くなる。
2年A
「……角石、最近おかしくね?」
2年D
「うん。
なんかずっとピリピリしてる。」
2年B
「正直、話しかけにくいよな。」
2年F
「エースがああだとさ、
チームプレーやりにくいんだよな……。」
誰かが、
箸を止めた。
誰かが、
視線を落とした。
俺は、
肉の焼ける音を聞きながら、黙っていた。
(……去年の冬。)
孤立してたのは、
俺だった。
佐々木
「おーい!
焼けたぞー、食え食え!」
佐々木
「遠慮すると肉が泣くぞ!」
2年A
「コーチ、肉にも感情あるんすか。」
佐々木
「ある!」
一応、笑いは起きる。
でも、
角石の席だけは、空いたままだった。
俺
(……あいつ、今どんな顔してんだ‥‥)
去年、
俺を睨んでいた角石。
今、
誰からも声をかけられない角石。
俺は、
自分の手の中の箸を見つめた。
俺
(放っといていいのか……?)
焼肉の匂いに包まれた食堂で、
俺の胸だけ、
少しだけざわついていた。
◆◆◆
俺
「……トイレ行ってくる。」
誰にともなく言って、
暖かい食堂を抜ける。
焼肉の匂いと、騒がしい声が一気に遠のいて、
廊下の空気はひんやりとしていた。
廊下は静かで、
自分の足音だけがやけに大きく響く。
俺
(……角石。)
そう思った、その時だった。
ガチャ。
前の部屋の扉が開き、
高橋が出てきた。
顔色が、暗い。
高橋
「あ……佐伯。」
俺
「……角石、大丈夫か?」
高橋は一瞬だけ目を伏せ、
小さく息を吐いた。
高橋
「……うん。
ちょっとね。」
俺
「“ちょっと”じゃなさそうだけど。」
高橋
「今は……誰の手にも負えない。」
そう言って、
無理に笑おうとする。
高橋
「佐伯は、気にしなくていいから。」
それだけ言って、
高橋は廊下の奥へ歩いていった。
背中が、
ひどく小さく見えた。
その時――
ドンッ!!
重い音。
何かを、蹴ったような音。
俺
「……っ!」
反射的に、
角石の部屋の前へ走る。
勢いに任せ、扉を開けた。
◆◆◆
部屋の中。
散らばったタオル。
床に転がるグローブ。
そして――
角石。
右肩には、
雑に巻かれたテーピング。
痛々しくて、
一瞬、言葉を失う。
俺
「……角石。
大丈夫か?」
角石
「……なんだよ。」
睨みつけるような目。
角石
「俺を、笑いに来たのか?」
俺
「何言ってんだよ。」
俺
「肩、どうしたんだよ。
そんなの――今、動かしたらダメだろ。」
角石
「……うるせぇ。」
俺
「無理すんなよ。
いま壊したら――」
角石
「黙れ!」
声が、跳ねた。
角石
「……お前さ。」
角石
「正捕手になるのか?」
俺
「……え?」
角石
「智也から、
正捕手の座、奪うのか?」
俺
「そんな話――」
角石
「俺の正捕手は、智也だけだ!」
角石
「俺と智也を引き離すのは、
絶対に許さねぇ!」
荒い息。
握りしめた拳が、震えている。
角石
「……俺にはな。
果たさなきゃいけねぇ約束があるんだ。」
俺
「角石、落ち着け。」
俺
「今はそんな話する時じゃ――」
角石
「出ていけ。」
俺
「……」
角石
「今すぐ、出ていけ!!」
投げつけるような視線。
俺は、
それ以上何も言えなかった。
ゆっくりと扉を閉める。
廊下に出た瞬間、
冷たい空気が胸に刺さった。
俺
(……約束?)
(何を、そんなに必死になって――)
去年のことが、
頭をよぎる。
俺にだけ、
妙にキツかった態度。
睨むような目。
距離。
(……あぁ。)
(そういうことか。)
全部が繋がった気がした。
俺
(角石は……
“奪われる”のが、怖いんだ。)
廊下の奥で、
どこかの部屋のドアが閉まる音がした。
冷たい夜。
でも――
このままじゃ、終われない気がしていた。




