夏のかさぶた
蝉の声が、あの人の声みたいに聞こえる。思考のすべてを溶かしてしまうような、そんな茹だる夏だった。俺、柏木湊にとって、その夏は一生忘れられない、奇妙な熱に浮かされた季節として記憶されている。
原因は、姉さんだった。
一つ歳上の姉、美緒は、昔から俺の少し前を歩く存在だった。俺が転べば手を引き、俺が泣けば頭を撫てくれる、太陽みたいな人。その認識がぐらついたのは、八月の初め、近所の夏祭りでのことだ。紺色の地に白い朝顔が咲く浴衣を着た姉さんが、少し潤んだ瞳で振り返り、「湊、早くしないと置いてくよ」と笑った。りんご飴の甘い匂いと、姉さんのうなじから香る石鹸の匂いが混じり合い、俺の頭の芯が痺れた。その瞬間、俺の中に、今まで知らなかった扉が開く音がした。
それからだ。俺の世界は姉さんを中心に回り始めた。姉さんには、考えごとをするときに無意識に唇を尖らせる癖があった。俺が小さい頃、それを真似してよく笑われたのを覚えている。そんな、子供の頃からずっと見てきたはずの何気ない仕草の一つ一つが、急に特別な意味を持ち始めた。リビングで髪を乾かす無防備な姿、風呂上がりの火照った頬、俺の名前を呼ぶ少し甘い声。そのすべてが、網膜に焼き付いて離れない。姉さんがすぐそばにいるだけで、心臓が大きく脈打ち、呼吸が浅くなる。そのたびに胃の奥が冷たくなる。これは間違っている。汚らわしい。脳が警鐘を鳴らしているのに、俺の身体は正直に熱を持った。視線は呪いのように姉さんに縫い付けられ、脳裏には絶えず姉さんの幻影が住み着いて、俺に囁きかけるようになった。
『もっと、こっちに来てよ』
幻は、現実の姉さんが決してしないような妖艶な笑みを浮かべていた。俺はその幻を振り払うように、必死で首を振った。だが、幻は消えるどころか、ますます色濃く俺を支配していく。学校の授業も、友達との会話も、どこか上の空だった。
変化に、あの姉さんが気づかないはずがなかった。
夏の終わりの夜だった。虫の音が涼やかに響く縁側で、二人で線香花火をしていた。最後の火花が、ぱちぱちと儚い音を立てて闇に落ちる。その静寂を破ったのは、姉さんだった。
「ねえ、湊」
いつもより低い、真剣な声だった。俺は顔を上げられなかった。
「最近、変だよ。何かあったの?」
心臓が凍りつく。黙っている俺の隣に、姉さんが静かに座り直す気配がした。
「……私のこと、避けてる? それとも……」
言葉が途切れる。姉さんは何かを言い当てようと、慎重に言葉を選んでいるようだった。耐えきれなくなった俺が顔を上げると、真っ直ぐな瞳が俺を射抜いていた。
「なんだか、すごく遠くから見られてる気がする。あんたの視線、昔と違う。……何か、言えないことでもあるの?」
問いただす強さと、何かに怯えるような弱さが混じった、ちぐはぐな響きがあった。言えるはずがない。こんな、呪いのような感情を。俺が姉さんをどんな目で見ていたかなんて。
俺は唇を噛み締め、ただ俯いた。肯定も、否定もできなかった。沈黙が、何より雄弁に罪を告白していた。
どれくらいの時間が経っただろう。隣で、姉さんがふっと息を飲む音がした。軽蔑でも、悲しみでもない。もっと別の、熱を帯びた何かがそこにあった。
「……馬鹿」
ぽつりと、姉さんが呟いた。その声は掠れていた。俺が顔を上げると、姉さんは泣きそうな、怒っているような、見たことのない顔で俺を見ていた。そして、その手がゆっくりと伸びてきて、俺の頬に触れた。
びくりと、身体が跳ねる。姉さんの指先は、火傷しそうなほど熱かった。
「あんたがそんな顔するから……」
姉さんの瞳が揺れていた。俺を見つめるその瞳の奥に、俺が脳内で育ててきたあの幻影の面影が、一瞬、確かに宿った気がした。
「……どうするつもりなの、私たち」
それは問いかけの形をしていながら、答えを求めてはいなかった。まるで共犯者に囁くような、甘く、絶望的な響きがあった。風が吹き抜け、軒先の風鈴が狂ったように鳴り響く。
熱は、引かなかった。
それどころか、姉さんの指先から、もっとどうしようもない熱が流れ込んでくる。もう二度と元には戻れない。そんな予感が、背筋をぞっとさせた。
こうして、出口のない、俺たちの夏が始まってしまった。




